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<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。
ラウダトゥール:王太子。シアの乳兄弟でアストの上司。
ウィルトゥース:第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染でアストの元部下。
フェリクス:アミークス公爵家の次男。一応シアとは幼馴染だが、その所業から嫌われている。
ユーリアルム:カディット侯爵家の三男。リックの従弟でシアには二人一組で天敵認定されている。
驚きのあまり言葉もないアルレイシアの様子を愛おしげな熱の籠もった瞳で見つめるアストラスの顔には満足げな笑みが浮かんでいた。そして零れ落ちそうに見開かれたアルレイシアの瞳に柔らかく苦笑する。二人の間にある机をものともせず、その長い腕を伸ばしてそっと彼女の頬を撫でた。
唐突に触れられたアルレイシアの肩がびくりと跳ね上がり、その指を避けるように体が引かれたが、長椅子の上ということもあって逃れきれずにただ身じろいだだけに終わってしまった。それをいいことに、アストラスは指先でゆっくりと彼女の輪郭を辿るように撫で下ろした。
「そのように目を見開いていると、落ちてしまいそうですよ」
僅かにからかいを含んだ声音に、アルレイシアは金縛りから解放されたようにゆっくりと二度大きく瞬きをした。けれど顔を逸らすことを許さないとでも言うように顎に触れている手に、息を吐くことすら躊躇いを覚えて思わず小さく唇を噛み締める。と、まるでそれを咎めるように噛み締めた唇に硬い指先が触れて、二本の指が形をなぞるようにそれを撫でた。
「………っ」
息を呑んだアルレイシアは自らの頬がカッと熱を持ったのを感じた。触れられているところから飛び火したように、顔全体に熱が上っていくのが分かる。恐らく今鏡で自分の顔を見れば、みっともないぐらいに真っ赤になっているだろう。顔を伏せたいと思うけれど、決して乱暴ではないながらしっかりと確かめるように触れる指先がそれを許さない。
羞恥と困惑、そして理由が分からないながらも感じてしまう恐怖。
それらの感情が彼女の意思とはかかわらずにその視界を曇らせる。目頭が熱を持ち、瞳を覆う膜は瞬きをしてしまえば間違いなく零れ落ちてしまうだろう。それだけは嫌でアルレイシアは奥歯を噛み締めて必死にそれを堪えた。そんな彼女の様子にアストラスの切れ長の瞳が瞠られ、それからその表情が苦しげに切なげに歪められた。
「泣かないで下さい。貴女を苦しめたい訳ではないのです」
そう言葉を掛けられたのを切っ掛けに、遂にアルレイシアの眦から雫が一筋零れた。それが頬から零れ落ちるより早く、アストラスの親指がそっと拭い取っる。その指の腹で赤味を帯びた白い頬に出来た涙の痕をも優しく拭って、僅かに躊躇った後ゆっくりとその指先は離れていった。アルレイシアもそれ以上の雫が零れ落ちないよう、眼鏡の陰で隠すようにして指先で素早く目尻に溜まっていた涙を払った。
(……泣くなんて、卑怯だわ)
人前で涙を見せるなど、彼女にとっては何よりも耐え難いことだった。今まではどれほど辛いことがあろうとも、決して人前でだけは泣くまいと堪えてきたのに、今堪えきれなかった自分に歯痒さを感じる。それ以前に、そもそも泣くほどに何が辛かったのかと考えても、自分自身で納得のいく答えが出なかった。
目の前の青年は決して彼女を傷つけるようなことをしたわけではない。ただ想いの丈を伝えただけに過ぎないのに、何故そのことに涙が浮かぶのか、彼女を傷つけるわけではないはずの彼に恐怖を感じるのか、その理由が分からなかった。自らの涙に濡れた指先をきゅっと握りこむ。その手をそっと一回りは大きな温かい手が包みこんだ。温もりに顔を上げれば、身を乗り出したアストラスの真摯な眼差しと目が合った。
「アルレイシア姫」
彼の声は想いを告げたときから変わらず、まるでその六つの音の羅列がこの世で一番素晴らしい言葉のように大切に彼女の名を呼ぶ。たった一言。名を呼ぶだけのその声が、胸に迫るほど確かに彼の想いを伝えてくるのだ。包み込まれた手よりもその声に、アルレイシアの鼓動は速さを増していく。
「あ……」
何を言うべきか分からないながらも何か言わなければいけないような気がして口を開いたが、言葉を紡ぐことが出来ないでいるアルレイシアの手を、アストラスは落ち着かせるように軽く叩いた。まるで小さい子どもにするような仕種だったが、それはアルレイシアの混乱した気持ちをすっと宥めていった。
「アストラス殿……」
戸惑いに揺れる青紫の瞳を見つめ返して、アストラスの翡翠の瞳が甘く解ける。包みこんでいたアルレイシアの手を持ち上げると、初めて逢った夜と同じようにその手の甲に軽く唇を落とした。そして今度は両手でくちづけた彼女の手を包み込む。
「焦らないでください――――私は今すぐに貴女に答えを出して欲しいとは考えておりません。本当は今日こんな形で伝えて、貴女を追い詰めるようなこともしたくはありませんでした。それでも他の誰かからの憶測で貴女を混乱させたくはありませんので、こうして伝えることを選びましたが、ただ今は、私の気持ちを知っていただくだけで十分です」
「でも」
思わず反論しようとしたアルレイシアにアストラスは苦笑して小さく首を振る。
「今貴女に答えを求めたら、貴女の中にはきっと私を拒絶する選択肢しか存在しないでしょう――――最も、貴女に拒まれたからと言って、諦めきれるほど容易い想いではないのですが。ですから、どうか時間を下さい。貴女に私という人間を知っていただく時間を」
懇願に近い真摯な言葉にアルレイシアは困惑に瞳を揺らすことしか出来ない。
確かに彼女はほとんど目の前の青年のことを知らないと言って良かった。今日も彼について聞いたけれど、それらも全てアストラス・ルプス・ソーラと言う青年の身の上であって、彼がどういう人物であるのかまで分かったわけではない。だがそれは、アストラスにも言えることであろう。アルレイシアが彼のことを知らないように、彼もまた彼女のことなどほとんど知らないに違いないのだ。
それなのになぜ、これほど迷いなく自分を見つめられるのか。アルレイシアには理解出来なかった。それでも、今はもう彼の想いが決して気の迷いや性質の悪い冗談などではないことは、はっきりと信じられた。だからこそ、躊躇いながらもしっかりとその翡翠の瞳を見返すことが出来た。
聞きたいことも確かめなければならないこともたくさんある気がしたが、その中でもまずはこれだけは確かめなければならないと思ったことを口にする。
「私が貴方のことを知って……貴方の想いを受け入れるとしたら、その後はどうするつもりですか?」
「貴女が私を受け入れてくださるのなら、私の妻になっていただきたいと思っています」
アルレイシアの問いに一瞬の躊躇いもなくアストラスはきっぱりと答えた。その答えにアルレイシアは大きく目を瞬く。
「つま……」
鸚鵡返しに呟いた言葉の意味を図りかねるように首を傾げて、アルレイシアの青紫の瞳はじっと真剣な表情をした目の前の青年の端整な顔立ちを見つめた。その瞳からは先刻までの戸惑いに揺れていた頼りなさが消え、切り込むように毅い光を浮かべている。
「私はファーブラー家の跡取りです。貴方は私のために家を捨ててくださるの?」
手に入るはずの爵位も財産も諦めて。
声にしなかった言葉は、それでも彼には伝わったのだろう。だがその翡翠の瞳が逸らされることはなかった。
アルレイシアはファーブラー公爵家の跡取り娘であり、未来のファーブラー女公爵である。だが、アルレイシアの夫という地位は、あくまでファーブラー女公爵の夫であって、それによって夫自身が何らかの地位や爵位を得られるわけではない。あくまで爵位も財産もアルレイシアのものなのだ。
だからこそ、彼女の夫という地位は継ぐべき財産も爵位もない男性にとっては魅力であっても、貴族の家の跡取りである男性にとっては決して益のある話ではなかった。
だがそんな問いにも先刻の問いと同様にアストラスは真剣な表情で迷うことなく頷いた。そしてまるで眩しいものを見るようにその翡翠の瞳を細めて、毅然とした青紫の瞳を見返した。
「先ほども申し上げましたが、私には兄の他に妹もおります。兄が家を継げないならば、私が継ぐのも妹が継ぐのも大して変わることはありません。元より父は妹が騎士団に入ったりしなければ、私を呼び戻したりせずに妹に婿を取らせるつもりでしたから」
アルレイシアの女性にしては大きな手を包みこむ両手に僅かに力を込めて、柔らかく笑みを刻んだ口元とは対照的に緑の焔を宿したような瞳がどんな些細な表情の変化も見逃すまいとでも言うように熱心に彼女の貌を見つめていた。そんな視線を最早戸惑うことなく両瞳で受け止めながら、アルレイシアは握りこまれているのと反対の手でそっと自分の心臓の上を押さえた。
ここ数日彼女の胸を覆っていた霧が晴れていくようだった。フェリクスたちの言葉を聞いてからずっと、アストラスの想いも自分の気持ちも分からずに迷い続けていたけれど、それ以前にウィルトゥースと会話をしたときに一度は覚悟を決めたのだ。
自分自身が果たすべき責務からもう逃げることは止めよう、と。
アルレイシアにはファーブラー家の相続人として、そして未来のファーブラー女公爵として果たさなければならない責任があるのだ。彼女は研究を愛しているし一生続けていくつもりではあるが、だからといって普通の学者ではない以上それだけで生きていくことはできない。彼女自身が国政にかかわることは出来なくとも、父の跡を継ぎラウダトゥールの助けとなり片腕となれるような夫を迎えなければならないのだ。
それは、幼い日々が過ぎ『大人』となったあの日にラウダトゥールと交わした誓い。
いつか、必ず。
(それが、約束だもの)
そういった全ての条件を考え合わせた上で、目の前の青年はあらゆる条件で理想的と言える相手であろうことは事実だった。
そこまで考えてから、アストラスと見詰め合っていたアルレイシアの瞳は未だしっかりと握りこまれている手に移った。目を瞬いてその大きな手を見つめ、再び真剣な表情で彼女を見つめているアストラスの貌に視線を戻す。その視線が結び合うより早く目を伏せて、アルレイシアは僅かにその頬に朱を刷くとはにかむように微笑んだ。
「アルレイシア姫?」
そんなアルレイシアの恥らう様子に思わず握り締めた手を引き寄せたくなりながら、アストラスは彼女の反応の意味が分からずにその名を呼ぶ。艶やかな低音に戸惑いが滲むのを聞き取ったが、アルレイシアは視線を上げることはないまま少し困ったように小さく首を傾げた。
「その……よくよく考えてみたら、私、こんな風に求婚をされたことがなかったので……」
彼女が社交界にデビューしファーブラー家の相続人となってから数多の求婚者が現れたが、その大半はあくまで政略的なものであることを感じさせる文書による儀礼的な求婚であった。時折直接顔を合わせて彼女に求婚するものもいなかったわけではないが、それらは先日のフェリクスやユーリアルムのように大抵が家同士の付き合いで幼い頃に顔を合わせたことがある相手であり、その求婚の言葉もまた到底受け入れたいと思えるようなものではなかったのだ。
そんな事ばかりだったために多くの求婚者がいたアルレイシアであったが、彼女にとって婚姻は政略と義務ばかりを感じさせるものであり、両親のように愛し合って結婚をするなどとは考えてみたこともないことだった。こんな風に直接的に想いの丈を言葉で告げられたことは今までにないことであったし、愛情に起因した求婚をされたこともなかった。
だから、戸惑わずにはいられなかった。アストラスの真摯な求婚に返せるような言葉など、考えてみたこともなかったのだ。
「ええと、その……」
「はい」
言うべき言葉に困って言い淀むアルレイシアを優しい瞳で見つめながら、アストラスは微笑んで相槌を打った。その唇が紡ぐ言葉が彼を否定するものではないと分かるから、戸惑う彼女の言葉をじっと待つことは喜びこそあれ苦痛に感じることはなかった。困ったように僅かに眉を下げ頬を染めて恥らうアルレイシアの姿は、彼女の容姿の美醜云々は抜きにして素直に可愛らしいと思えるものだ。
「アストラス殿の求婚をお受けできるかは、分かりませんけれど……それでも、先ほど仰っていたように、貴方のことを知ってから答えを出します。きちんと、考えますから」
「はい、ありがとうございます」
答えを告げるその時には恥じらい伏せられていた瞳が上げられ、青紫の瞳はしっかりとアストラスの瞳を見つめ返した。眼鏡のレンズの奥、毅い光を宿した瞳は迷うことなく真っ直ぐと彼を映す。その眼差しに惹かれるようにアストラスの指先がアルレイシアの頬に伸ばされた。その指は眼鏡を避けるようにアルレイシアの頬骨をゆっくりと辿ると、硬い指先を感じて思わず瞼を閉じた目尻を柔らかく撫でてから離れていった。
「アスト、ラス、殿?」
その仕種の意味が分からず、指先が離れると同時に瞳を開いたアルレイシアは不思議そうに彼の名を呼んだ。アストラスの指先が辿ったその頬は先刻よりもさらに赤味を増していて、それを隠すようにアルレイシアの手がそっと頬に触れた。
アルレイシアの呼びかけに答えることなくじっと熱の籠もった翡翠の瞳で彼女を見つめていたアストラスだったが、その眉が困惑に寄せられるのを見て、ゆっくりと肩で大きく息を吐いた。小さく苦笑を浮かべると、握り締めていた手を離して再び深く長椅子に腰を落とした。
「あの……?」
彼の様子に困惑するばかりのアルレイシアを見て、アストラスは苦笑したまま首を傾げた。そして困ったような、それでいてどこか楽しげな声で告げる。
「いいえ。ただ、貴女はもう少し、警戒心を持つべきだと思います。信用していただけるのは嬉しいのですが、私も男ですから。ただお話を楽しむだけだとしても、貴女とこうして部屋に二人きりでいるというのは自制心が必要なのですよ」
「え……?」
言葉の意味を咄嗟に理解することが出来ずに目を瞬いて。その言葉をゆっくりと自分の中で飲み込むなり、アルレイシアは一瞬にして頬といわず顔中が熱を持つのが分かった。今の彼女の顔を鏡で見たら、きっと情けないほど真っ赤になっていることだろう。
そんなアルレイシアの様子にアストラスはくすくすと押し殺した笑いを零す。その耳を擽るような柔らかな笑い声に思わずアルレイシアは恨みがましげな瞳を向けた。
「か、からかったのですか!?」
「いいえ?」
つい詰問するような口調になったアルレイシアに、アストラスは全く悪びれる様子もなく首を振った。その頬には未だに笑いの名残が色濃いが、彼女を見つめる翡翠は胸が震えるような甘やかな熱を秘めていた。
「紛れもない私の本心です――――お願いですから、あまり私に対して無防備にならないで下さい。私が貴女に恋焦がれる男だということを、お忘れなきよう。そうでないと、」
そこで一端言葉を切って、柔らかな表情とは裏腹なまるで彼女の全てを暴こうとでもするような激しい焔を宿した瞳が、アルレイシアの頭の天辺から爪先までを眺め下ろした。そしてその端整な貌ににっこりと音がするような笑みが刻まれた。
「貴女がお許しくださらなくても、貴女を奪ってしまうかもしれません」
告げられた言葉とその瞳の彩に、アルレイシアは真っ赤な顔のまま再び言葉を奪われたように絶句せずにはいられなかった。
目の前の青年の目に映らない場所に姿を隠したい思いに駆られながら、アルレイシアは両手で赤くなった頬を押さえて俯く。出来ることならば、もう自分を見ないで欲しいと泣いてしまいたい気分だった。
(恥ずかしい)
耐え難いほどの羞恥と戸惑いと、そして今までに感じたことのないような思いが胸に湧きあがってくる。その思いはどこか恐れや困惑に似て、それでいてそれよりも遥かに甘く艶やかに色づいていた。
一頻り困惑した後、ようやくそれが通り過ぎていくと、アルレイシアは気持ちを落ち着けようと既に冷め切ってしまった香草茶を口にした。冷めた香草茶はすっかり香りも抜けてしまっていたが、冷たい喉越しが火照った体を冷ましてくれるようだった。
茶器に残っていた香草茶を全て飲み干して、アルレイシアは大きく息を吐いた。ようやく頬の熱も治まっていたが、肌に刺さるような視線に未だにあの翡翠の一対が彼女を見つめていることが感じられた。すぐにその瞳を見返す勇気はまだなかったため視線は俯けたままであったが、香草茶を口にしてアルレイシアはようやく今日のアストラスの訪問の本来の目的を思い出していた。
しばしの逡巡の後。
覚悟を決めると目を上げてアストラスの顔を見た。視線が僅かに彷徨ったものの、きゅっと唇を引き結んでまるで睨みつけるようになりながらアルレイシアは何とか決死の思いで彼女を見つめる翡翠の瞳に視線を合わせた。
アルレイシアが感じていた通り彼女のそんな様子をじっと見守っていたアストラスは、その青紫に瞳の必死さに僅かに苦笑しながら、それでもそれ以上彼女を怯えさせないよう気をつけてその目を見詰め返した。意外に長い睫を持つ切れ長の瞳をゆっくりと瞬く。何か言いたげなアルレイシアの様子にアストラスは追い詰めないように気を遣って、小さく首を傾げることで彼女の言葉を促した。
眼鏡のレンズの奥からじっと力のある瞳がアストラスの顔を真っ直ぐに見据えていた。彼の仕種に後押しされるように、アルレイシアの小作りな唇が躊躇いながら開かれる。
「あの、まだ――――研究の話を、お聞きになる気はあります?」
アストラスは虚を衝かれたように一瞬だけ切れ長の瞳を見開いたが、すぐに驚きを消すと破顔した。
「ええ、ぜひ」
柔らかい低音で告げられた返答に、アルレイシアも今度こそ嬉しげにその表情を綻ばせ瞳を輝かせた。