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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第二章~女伯爵に捧ぐ花
17/34

<簡易人物紹介>

カッコ内は会話内で使用されている愛称です。

アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。

アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。

ラウダトゥール(ラウダ):王太子。シアの乳兄弟でアストの上司。

ウィルトゥース(ウィル):第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染でアストの元部下。

 建物の大きさに合わせてそれなりに広く長い回廊を歩いて暫しの後、アルレイシアの応接室に到着した。歩いている間に何とか頬の熱を治めたアルレイシアはようやく頬から手を離すと、扉を開くために手を掛けた。だがそれはするりとしなやかな身ごなしで隣に並んだ青年によって阻まれ、アルレイシアの手には少し重い両開きの扉を彼の手は軽々と開いて見せた。

「どうぞ」

 重いドアを苦もない様子で手で押さえて、柔らかい笑みを浮かべたアストラスがアルレイシアを促した。促されたアルレイシアは少し戸惑った表情を浮かべたものの、小さいとはいえ花束を持っているために両開きの扉を開けるのは難しかったこともあって彼の気遣いに甘えることにする。彼の優しさの理由を考えてしまえば再び熱が上りそうで、極力余計なことは考えないように努めながら丁寧に礼をすると室内に足を踏み入れた。

 王立の研究院ということもあり、それほど広くない室内ながらも置かれている机と革張りの長椅子はそれなりに質の良いものが置かれていた。他には書類を置いておくのに使っている棚と、庭師に分けて貰った花を飾ってある程度のごく簡素な部屋である。

 アルレイシアに続いて室内へと入ったアストラスは、少し興味深そうな表情で不躾にならない程度に室内を眺め渡した。そんな彼の様子に気づいたアルレイシアは微笑んでアストラスに長椅子を勧める。そのことにやはり部屋を見回したのは失礼な態度だったかと僅かに恐縮して、アストラスは音も立てない静かな動作で勧められた席に腰掛けた。そうしてから丁重な仕種で頭を下げる。

「申し訳ありません」

 だがアルレイシアは何を謝罪されたのか咄嗟には分からずにきょとんと目を瞬いて、その理由に気づくと微笑みながら首を振った。

「ああ、ごめんなさい。別にそういったつもりではなかったのです。お気になさらないでください。王立研究院に入られたのは初めてなのですか?」

 アストラスが長椅子に座ったことを確認してから、花束を脇に置くと手早くお茶の準備をする。アルレイシアの問いにアストラスは一つ瞬きをしてから、お茶を淹れている彼女の姿に視線を移した。アルレイシアの目は茶器に据えられているため、アストラスが自分の姿をじっと見つめていることには気づいていない。それを良いことに彼女の一挙一動を見守るように見つめながら、アストラスは本人も無意識のうちに笑みの形を取っている薄い唇を開いた。

「はい、王立研究院には知り合いがおりませんので、今まで足を踏み入れる機会もございませんでした。騎士団に居た頃は王宮との通用門の警備をしたことはありますが、建物の中に足を踏み入れたのは初めてです」

 先日研究院にあるアルレイシアの私室に彼女を運びはしたが、話の運びから当然のその時以外のことを尋ねていることは分かっていたため、そのことは含めずに言葉を紡いだ。アストラスの返答に、それまで茶器に向けられていたアルレイシアの青紫の瞳が彼へと向けられた。眼鏡のレンズを通しているために今までよりはっきりと見えるアストラスの姿を、頭の天辺から下まで見下ろし小さく首を傾げた。

「そういえば、アストラス殿も第一騎士団にいらっしゃったのですものね。警備をされていたのでしたら、以前門でお会いしたことがあったかも知れませんわね」

 アルレイシアの言葉にアストラスは微笑んで僅かに首を傾げた。

「どうでしょう。私が騎士位を拝したのは十七の時ですので、もう七年近く前のことになります。王宮の警備兵を務めていたのはそれ以前のことですから……アルレイシア姫とはお会いしていたとしても、王立研究院ではないのではないでしょうか」

「まあ、そんなに前のことなんですか。それでは、確かに研究院ではお会いしていないでしょうね」

 言いながらアルレイシアはふと、そういえばアストラスの年齢の話を聞いたのは初めてだと気づいた。今の話から彼はアルレイシアより三つほど年上になる当年二十四歳であることが分かったが、その年齢によってアルレイシアは再び先日のフェリクスとユーリアルムの言葉を思い出してしまった。

 ジール王国では貴族の男女はともに十五歳で成人と認められるため、その年に社交界にデビューすることになっている。但し王宮騎士を志す者ならば十五歳より前、十二歳前後ぐらいから騎士について従者として訓練を受けたり、身の回りの世話をしながら騎士としての勤めを学ぶのだ。そして十五歳になると正式に騎士団に所属し、働きによって一人前と認められることで所属している騎士団の団長もしくは国王や王太子より正式に騎士として叙任されるのだった。

 ウィルトゥースはかなり特殊な例外として、騎士団に所属する際に当時既に王太子であったラウダトゥールと、第一騎士団の団長によって騎士としての位を授かったが、大抵は騎士団に所属して五年程度、即ち二十歳前後で叙任されることがほとんどだという。むしろ二十歳で叙任されるのは早いほうであろう。そのことから考えてもアストラスの十七歳というのは、ウィルトゥース程ではなくとも十分に早い叙任であった。それは偏に彼が如何に騎士として優秀であったかということを表しているのだろう。

 けれど現在の彼は騎士ではなく貴族として王宮内で地位を得て生きている。それを彼自身がどう考えているのかは分からないながらも、貴族の、特に家の跡取りであるならば二十四歳は十分に結婚していてもおかしくはない年だった。貴族の平均的な婚姻年齢は女性では十八歳前後、男性で家の跡取りであるならば女性より少し上の二十歳前後とされていた。

 家を継がない次男以降になるとその年齢が上がるが、それはあくまで跡継ぎをなさねばならないという制約がないために、ある程度の自由が許されているからである。特に男女とも騎士となった者は得てして婚姻が遅くなりがちではあるが、そういった者たちは大抵が同じ騎士同士で結婚したりすることが多いのだ。

 そういった事情を聞き知って了解していたからこそ、アルレイシアはフェリクスたちが言ったアストラスの恋人の存在を否定しきれなかった。最も、例えそういった恋人がいたとしても、一年前とは立場が変わってしまったアストラスではその女性を妻に迎えることが出来ないのかもしれない。その家にもよるであろうが、大抵の貴族の家は跡取りならば特にそれ相応の家柄と持参金を持った女性でなければ、妻とするのが難しいのは厳然として存在する事実だった。

(ああ、でも、それはおかしいわ)

 体が既に覚えきった慣れた動作のため、考え事をしながらでも淀みなく手は動いている。香草茶を茶器に注ぐ際に立つお気に入りの茶葉の芳しい香りも今は楽しむ余裕もなく、アルレイシアの頭は用意しているお茶とは全く関係のない思考を巡らせていた。

(そもそも……例えアストラス殿が立場が原因で恋人だった女性を妻とすることが出来なかったからといって、私を選ぶなどということがあるはずがないわ。幾らファーブラー家には私以外に下に妹が二人いるとはいえ、私が国王陛下に認められた正式な相続人である以上、どこか別の家に嫁ぐということはありえないのだもの。ならば……ウィルが言っていたように彼が私に好意を持っているのだとしても、それはただ思いを寄せているだけで、その先に結婚などは考えていないと言うこと?)

 そもそもアルレイシアがあの舞踏会で、ラウダトゥールがアストラスを婚約者候補としたのをその場凌ぎだと考えた一番の理由がそこにあった。

 アルレイシアは今や誰もが知るところのファーブラー公爵家の跡取り娘であり、アストラスもまたソーラ伯爵家の跡取りだと言っていた。そうである以上、二人が婚姻関係を結ぶ可能性はとてつもなく低いのだ。アストラス自身から伯爵家の跡取りだと聞いていたからこそ、アルレイシアは最初からアストラスを偽者の婚約者候補としか考えていなかったのだった。

 けれどそういったことを考えれば考えるほど分からなくなり、アルレイシアは思わずこめかみを指先で押さえた。知らず知らずのうちに眉間に皺が寄っていたが、本人は気づいていない。そしていつの間にか目を閉じて思考に没頭していたために、アストラスが立ち上がって近づいてきたことにも気づかなかった。

「大丈夫ですか?」

 気遣うような柔らかい低音が驚くほど間近で聞こえて、アルレイシアはハッと目を開いた。その見開いた視界に、お茶を準備し終わったにもかかわらず頭を抱えて立ち尽くしたままの彼女を、案じたように覗き込んでくるアストラスの翡翠の瞳が映った。大きな手がついとアルレイシアの前髪をかきあげて、体温を確かめるように額に触れた。唐突に触れてきた温もりに驚いて身を引けば、アストラスは苦笑して手を下ろした。

「申し訳ありません、驚かせてしまいましたね。熱はないようですが……頭が痛いのですか?」

 問われた理由をすぐには理解できず目を瞬いたアルレイシアだったが、自分がお茶を淹れながら考え事に嵌り込んでしまったことに気づいて慌てて首を振った。

「あ、いいえ。そういうわけでは……ごめんなさい、これは考え事をするときの癖なんです。と、言うより。ええと、ごめんなさい。アストラス殿がいらっしゃるのに考え込んでしまって……」

 謝罪を口にしてからすぐに、本当に謝らなければならないことは別のことだと気づいて再び謝罪する。だが、そんなアルレイシアの様子にアストラスは僅かにホッとしたようにその表情を緩ませた。

「いえ、お体が大丈夫なら良いのです」

 そう言って、アルレイシアが用意したお茶の注がれた茶器を手に長椅子へと戻っていった。アルレイシアも慌ててその後を追うと、彼が手にしていた二組の茶器のうち片方が置かれた対面の長椅子に腰掛ける。そうしてきちりと並べて置かれた菓子皿と茶器を見下ろして思わず顔を顰めた。

(……何だかまるで、お礼どころか手を煩わせてばかりいる気が……)

 転びかけたのを助けられ、扉を開けてもらい、今は茶器を運んで貰ってしまった。

 本来ならば侍女や女官の仕事ではあるが、研究院では当然そんなものは雇っていないため、来客の対応は全て自分でやらなければならないのだ。今までの来客にはきちんとやっていたのに、お礼をするために招いた相手に手を掛けさせてばかりでは、何のために招いたのか分からなくなってしまう。内心で一頻り反省しながら、正面に座るアストラスの様子を思わず窺って、お茶と茶菓子のケーキを勧めながらアルレイシアは零れそうになるため息を堪えていた。

 アルレイシアに勧められてから彼女の手作りのケーキを口にしたアストラスは、その美味しさに無意識のうちに端整な唇をほころばせた。そうしてケーキを味わうと香草茶も一口、口にする。

「ケーキもお茶もとても美味しいです。お上手なのですね」

 感嘆したような口調ながら、その表情が意外だと告げていた。そんなアストラスの様子に苦笑して、アルレイシアは小さく首を傾げた。

「ふふ、意外ですか? 昔、母がラウダの乳母をしていた頃、みんなのお茶を用意するのは母の仕事だったんです。母が居なくなってからは、私がするようになって。だから、実はケーキを焼くのもお茶を淹れるのも子どもの頃から慣れているんです。それに、研究の合間の気分転換にちょうど良いので、研究院に来てからは半分趣味のようになっていますわ」

「そうなのですか。本当に美味しいので驚きました」

 アルレイシアの言葉に一つ頷いて、アストラスは綺麗な所作であっという間にケーキを平らげてしまった。その食べっぷりに嬉しくなって、思わず笑みを浮かべながらアルレイシアは彼の倍は時間をかけてケーキを食べきった。

 お代わりの香草茶を注いでようやく人心地ついたような気分になったとき、まるで計ったようにアストラスが口を開いた。

「それで、何をそれほど考え込んでおられたのですか?」

 カチャン。

 問いかけに思わず動揺して、持っていた茶器が受け皿にぶつかってしまい、中身が僅かに零れた。それを何とか落とさずに机の上に戻して、アルレイシアは忙しなく瞬きを繰り返しながらアストラスを窺った。先刻まで柔らかな笑みを浮かべていたその表情が今は、真剣さを帯びて真っ直ぐに彼女を見つめている。

「あの……」

「今日はお会いしたときからずっと、様子がおかしかったですね。先ほど廊下で転びかけたのも、考え事をされていたからなのでしょう。その考え事は、私に関係があることなのではないのですか」

「それは」

「違うはずはないですね。私に全く関係のないことならば、貴女は今この場で考え込んだりはなさらないはずです」

「………」

 きっぱりと断言されてしまえば、アルレイシアには否定することは出来なかった。アルレイシアの失礼な態度に対してアストラスの解釈は好意的過ぎるとは思ったが、確かに今目の前にいる人物に関係することでなければこれ程考え込んだりしなかったのは事実である。

 それでも考えていたことを口に出すのは難しくて。何をどこまでどう話し、問うべきか、すぐには判断がつかなかった。

 そんな彼女の戸惑いを見透かしたように、アストラスの表情が再び柔らかくなる。

「何をそれほど貴女が悩まれているのかは分かりませんが、貴女が私のことを知りたいと思ってくださるのであれば、どのようなことでもお話します。ですから、お一人で悩まれないで話してください」

 聞きようによっては意味深にも思える言葉に思わずドキリとしたが、それでもアストラスのことをほとんど知らない彼女が幾ら考えたところで本当のところなど分からないことは分かっていた。そしてアストラスのことを知る人物に訊くことも出来ない以上、本人に尋ねるしか解決する術はないのだ。

 アルレイシアは自身の気持ちを落ち着けるつもりで、既に少し冷めかけているお茶を一口、口にした。そして茶器をテーブルに戻すと、その眼鏡の奥の瞳から真っ直ぐにアストラスを見据えて覚悟を決める。何から訊くべきか暫し逡巡し、とりあえず訊きやすいことから尋ねることにした。

「あの……アストラス殿は、ソーラ伯爵家の跡取りでいらっしゃるのよね?」

 その問いに、アストラスは僅かに拍子抜けしたような表情をしたが、特に答えに詰まったりすることなく頷いた。

「ええ。本来でしたら兄が跡取りだったのですが、諸々の事情……と誤魔化すのも何ですね。正直に申し上げますと、体の弱い兄が一時期かなり体調を崩しまして、跡取りとしての務めを果たせないかもしれないという話になってしまったのです。我が家は兄と私、そして妹の三人兄弟なのですが、私だけでなく妹まで騎士になると家を出てしまっていたため、結局次男である私が家に呼び戻されました。それが大体一年ほど前になります。今では大分回復しましたが、兄の体が虚弱なのはもうどうしようもないという医者の話もあり、今のところ私が跡を任されることになっています」

「そう、なのですか。あの、ごめんなさい。立ち入ったことを尋ねてしまって……」

 思いがけず他家の内情まで聞いてしまい、思わずアルレイシアは謝罪した。だが、そんな彼女にアストラスは柔らかく微笑んで首を振る。

「いいえ、お話したのは私の勝手ですから、お気になさらないでください。それで、それがどうかされましたか?」

「あ、ええ――――それでは、アストラス殿はいずれソーラ伯爵家を継がれるのですよね」

 確かめたのは、話の最中のアストラスの言い回しが気になったからだった。しかし今度もあっさり頷くかと思われたアストラスは、その確認には僅かに苦笑して首を傾げた。

「それは、今のところまだ決まっておりません。私が跡取りと言うのも未だ内々だけの話ですし、義姉――――兄の妻に子が出来れば、最初の通りに兄とその子が家を継いでいくことになると思います。私が今跡取りとされているのは、あくまでも子どもが出来ないまま兄が亡くなってしまう恐れを懸念してのことですから。ですから、私が家を継ぐ可能性は、実はそれほど高くないのです」

「え?」

 ジール王国の貴族の家系では余計な家督争いを避けるため、正室の産んだ長子が家を継ぐ嫡子相続が原則とされている。また、所領を持つ男爵位以上の家督を継ぐ者は、国王陛下に相続人として承認されなければならないのだ。それらのことから鑑みても、彼がソーラ伯爵家を継ぐ可能性が高くないのは納得がいくことではあった。

 だが、アルレイシアとしては納得するよりも先に、その話を聞いて一度は打ち消した可能性が再び甦り、ますます混乱してしまった。アストラスがソーラ伯爵家の跡取りにならないならば、アルレイシアの婚約者候補としてなんら問題がなくなってしまうのだ。それと同時に、騎士団にいるという彼の恋人との間にも障害がなくなるはずである。

(結局本人に確かめなければ、本当のところなど分からないのだけれど)

 アストラスのアルレイシアへの恋が事実なのかも、第一騎士団の恋人の話も、全て。

 それでも簡単に切り出せるような内容ではなく、何と言って訊くべきか考えを巡らせるアルレイシアに、アストラスの方が先んじて口を開いた。その顔にはどこか困ったような笑みを浮かべていたが、その翡翠の瞳はどこまでも真っ直ぐと真摯にアルレイシアの眼鏡の奥の瞳を見つめていた。

「なるほど、そういうことでしたか………アルレイシア姫が本当にお尋ねになりたいことは、私が貴女の求婚者となりえるか否か、と言うことなのですね」

 全く予想だにしていなかったことに尋ねるより先に図星を指され、アルレイシアは何と答えるべきなのかを咄嗟に判断することが出来ずに絶句する。そんな彼女の様子にアストラスは小さく苦笑しながら、その反応を見逃すまいと一挙手一投足をじっと見つめていた。

「貴女にそのことを吹き込んだのはウィルでしょうか? それとも、ラウダ殿下?」

「そのこと、って……」

 あまりにも真っ直ぐに見つめてくる切れ長の瞳に耐えきれず、アルレイシアは俯いた。そして膝の上で組んだ手にぎゅっと力を込めて握り締める。極度の緊張からその手は僅かに震えていた。

 アストラスの口にした言葉がぐるぐると頭の中を巡り、幾度もそれを反芻して――――それこそがここ数日彼女を悩ませていたことへの答えだと気づいた。

(ウィルと、ラウダ)

 その二人こそを諸悪の根源のように思い出し、思わず恨みがましい気持ちになったアルレイシアのその名を、常よりも緊張を帯びた艶やかな低音がまるで宝物のようにとても丁寧に呼びかけた。

「アルレイシア姫」

 ただ名を呼ばれただけのそのことに、とても逆らい難い力を感じて、アルレイシアは酷く躊躇いながらゆっくりと俯いていた視線を上げた。先日は眼鏡をかけていなかったことを後悔したが、今ほど眼鏡をかけていたことを後悔したことはなかった。レンズを通してしまえば、アストラスのその真剣な表情も、毅い光と熱を秘めた真摯な眼差しもその全てが、見えすぎるほどにはっきりと見えてしまう。

 無意識のうちにまるで肉食獣に追い詰められた仔ウサギのように怯えを浮かべる青紫の瞳にそっと微笑みかけ。少し薄い端整な唇がゆっくりと言葉を紡いだ。

「誰が何を貴女に言ったのかは、本当はどうでもいいのでしょう。それが何であれ――――私が貴女に、恋焦がれていることは事実なのですから」

 その言葉の意味を瞬時には量りかねて。

 理解した途端、アルレイシアは驚愕のあまりその瞳を零れ落ちんばかりに見開いていた。

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