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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第二章~女伯爵に捧ぐ花
15/34

<簡易人物紹介>

カッコ内は会話内で使用されている愛称です。

アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。

アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。

ユースティティア(ティティ):シアの上の妹。

フェリクス(リック):アミークス公爵家の次男。一応シアとは幼馴染だが、その所業から嫌われている。

ユーリアルム(ユーリ):カディット侯爵家の三男。リックの従弟でシアには二人一組で天敵認定されている。

 王女に請われて夕食を共にした後。アルレイシアはすっかり日の暮れた回廊を王立研究院の自室へ向かって歩いていた。その手には一輪の白薔薇が入れられた籐のバスケットを持っている。

 頭は未だに混乱したままだった。

 結婚はアルレイシアにとって『義務』だった。それは彼女に限らず、王太子であるラウダトゥールや貴族の家を継ぐものにとっては皆そうであろう。婚姻は契約であって、そこに想いは必要なかった。

 もちろん、アルレイシアの両親のように心底愛し合って結婚する者もいるが、彼女は早い段階から自分がそうなることを諦めていた。アルレイシア・アルテース・ドミナ・ファーブラーは美しくも可愛らしくもないのだから。そして何より、彼女自身が『恋』という気持ちを知らなかった。アルレイシアの中に存在している異性への想いは、父や、弟のようなラウダトゥール、ウィルトゥースに向ける、娘や姉というよりは母に近い慈愛や、身近な年上の男性への敬慕だった。過去のアルレイシアのどこを探しても、アストラスが彼女に向けてきたような熱を含む想いは存在していなかった。

 だから、分からなかった。

 向けられる眼差しの真摯さ。瞳に宿る熱。優しい微笑と労わるような気遣い。それらが全て『恋』ゆえだということに。

 そういう想いを抱いたこともなければ、向けられたこともなかったアルレイシアは、だから頭で考えるしか出来ない。

 アストラス・ルプス・ソーラというあの青年はアルレイシアに恋をしているのだと言う。

(本当に?)

 周りの言葉を鵜呑みにして思い込むことは出来ない。それを出来るほど彼女はアストラスのことを知っている訳ではなかった。それでも、短い間に交わした言葉が、その瞳が、態度が、何よりも傷つけてしまったであろうその事実が、周囲の言葉を気のせいだと笑い飛ばすことをさせなかった。

 完全に信じたわけじゃない。だってまだ、彼からは何も確たるものを貰った訳ではなく――――そこまで考えて、バスケットの中の白い薔薇を見やった。自称求婚者から贈られ飽きた豪華な花束などではなく、手ずから摘んで棘を取ってくれた花。きっと数多の花の中からこれを選んでくれたのも、アルレイシアが見惚れていたことに気づいていたからだろう。

 そして、白い花が似合うと言ってくれた――――。

 思い出して、アルレイシアは思わず歩いていた足を止めた。意図せず頬に熱が上がってきていることは否応なく分かっていた。

 他の誰かに言われたならば、ただのいつもの社交辞令だと流せただろう。でももう、それは出来そうになかった。こと、彼に関しては。恋かどうかははっきりしなくとも、そんなことは赦されないと思う程度には、彼の態度の真剣さはアルレイシアにも伝わってきていたから。

 思えば、何と容易く彼と約束と交わしてしまったのか。過去の自分の鈍さを呪いたくなる心地だった。その瞳の彩も、眼差しも、微笑みも全て見ていたのに、そんなものは大したことではないと見過ごしていた。真摯に向けられる眼差しをただ居心地が悪いとしか感じていなかった。約束だって、深い意味など全くないただの礼のつもりだった。そんな彼女の態度の裏に透けて見えていたであろう全てを知りながら、彼は『約束』を欲しがったのだ。

(どうしよう)

 次に彼に逢うまで四日しか猶予がないのだ。それまでに何とか彼に対しての自分の態度を決めなければならなかった。考えるだけで頭が痛くなりそうだ。

(そんなこと――――)

 出来るわけがない、と逃げ出してしまいたかった。体調を崩したとでも理由をこじつければ、彼はきっと許してくれるだろう。

 そこまで考えて、ため息を吐いた。

 そんなことはただ猶予を延ばすに過ぎない。何れはきちんと決着をつけなければならないことなのだ。それが四日後だろうと、それ以上先だろうと、どんな違いがあるだろうか。覚悟を決めて臨まなければならないことから逃げ出し続けてきたからこそ、こんな事態を招いたのだ。いい加減逃げ続けるのは止めると決めたのだから、それをきちんと示さなければ意味がない。

 気持ちを落ち着けようと大きく深呼吸すれば、甘い花の香りを含む春の夜気が心地よく胸を満たした。その香に誘われるようにふらりと回廊から足を踏み外して中庭に向かう。

 王宮の中庭は昼間歩いた遊歩道沿いの外苑とは異なり、庭師たちの必死の努力によって実に整然と美しく整えられていた。夜に咲く花も様々あり、春の月明かりに浮かぶ花々は一種幻想的な美しさを醸し出している。

 魅せられるようなどこか夢うつつの心地を壊したのは、背後から無粋に彼女を呼びつけた声だった。

「アルレイシア?」

 親しい人間が呼ぶ愛称でもなく、アストラスのように尊称を付けて呼ぶわけでもない、実に不躾な呼び方をする輩はそれほど多くなかった。そのため、アルレイシアはすぐに背後の人物が自分にとって好ましい人間ではないことを察した。一瞬、聞こえなかった振りをして立ち去ろうかとも考えたが、そんなことをすれば後々面倒だろうと思い直すと渋々と振り向いた。自覚が無いまま、自然と眉間に皺が寄っている。

「フェリクス……ユーリアルムまで」

 振り向いた先にいたのは、アルレイシアにとって考えうる限り最悪な組み合わせの二人だった。一人は覚悟していたが二人もいたことに、さっさと立ち去ってしまわなかったことを後悔する。

(呑気に花を眺めていたりするんじゃなかったわ)

 アルレイシアに非友好的かつ剣呑な眼差しを向けられて、二人の青年は僅かに鼻白んだ様子だったが、すぐに気を取り直したようにその貴族的な整った顔立ちに貴公子然とした笑みを浮かべた。

「久しぶりだな、アルレイシア。お前が王宮にいるなんぞ、珍しいこともあったもんだ」

 そう幾分ぞんざいな口調で言い放ったのは、アミークス公爵家の次男であるフェリクスだった。淡い金色の短髪と釣り目気味で切れ長の菫色の瞳が王家の血を引いていることを表しているが、ラウダトゥールとは実に対照的な青年である。鍛えていながら細身のウィルトゥースやアストラスとは異なり、はっきりと騎士だと分かるがっしりとした体躯、研ぎ澄まされた刃のように精悍ながら端整な顔立ち。纏う雰囲気もそれに見合った厳しさを持ちながら、場によっては貴公子らしい甘さをも持ち合わせる実に器用な人物であった。

「アルレイシアは王女殿下のお気に入りだからね、僕たちが知らない所で時々王宮に出入りしているんだよ」

 にこにこと柔らかな笑みを浮かべながら、はっきりと嫌味だと分かる口調でそう言ったのが、カディット侯爵家の三男ユーリアルムだった。彼は少し長めの灰色がかった銀髪と、甘くそれでいて毒を含んだ光を浮かべる琥珀色の瞳の青年だ。左目の目尻にある小さな黒子もその美貌を引き立て、どこか気だるげで退廃的な雰囲気を纏っている。

 見た目からも騎士と文官と言う事からも実に正反対な二人だが、従兄弟同士ということもあり、中々どうして気が合うのか王宮内ではよく二人で連れ立っているところを見かけていた。

 彼らは数いるアルレイシアの求婚者兼婚約者候補の筆頭であったが、彼女としては幼少時からの付き合いの中で彼らだけはごめんこうむりたいと思っている相手である。当然ラウダトゥールもそれを知っているから、身分的に最も釣り合いが取れているとは言っても、彼女の婚約者として二人を押してくることはなかった。

 相手に対する嫌悪と警戒心をはっきりと浮かべて知らず知らずのうちに身構えるアルレイシアに、二人は何が楽しいのかにやにやと貴族の貴公子としては少し品のない悪ガキのような笑みを浮かべて、まるで彼女を追い詰めるように距離を詰めてきた。

「君もファーブラー家の公爵令嬢なら、まるでネズミみたいにこそこそ出入りしないで堂々と表回廊を歩けばいいのに……ああ、最も、そんな格好じゃ恥ずかしくてファーブラー家の姫だなどと名乗れないかな」

「言いすぎだぜ、ユーリ。それにアルレイシアならどんな格好をしてようと分かるんじゃないか? こんな人参みたいな見栄えのしない髪色の貴族の女なんて、コイツぐらいしかいないんだから」

 口々に掛けられる聞き慣れた嫌味にアルレイシアはきゅっと僅かに唇を噛み締めた。そして視線だけで毅然と相手を睨みつける。こういう連中は相手にして言い返せば、それは相手を喜ばせるだけなのだと、長い付き合いで知っていた。幾ら悔しくてもぐっと耐えて嵐が過ぎ去るのを待つのが一番早いと分かってからは、そうして相手にしないことでやり過ごしてきた。

 だから今日もそうするつもりで相手との距離にだけは気をつけながら、言い返したくなるのを堪えるために唇を噛んで黙って睨み返すだけに留めていたのだ。

 だが、今日はいつもとは相手の反応が違っていた。

 いつもならば幾ら口では罵詈雑言を吐こうと、気が済むだけ言えば立ち去って行くのに、今日はまるでネズミを追い詰める猫のような笑みを浮かべてアルレイシアとの距離を詰めてきたのだ。そのことに、アルレイシアは人気のない夜の中庭に入り込んだ自分の迂闊さを、今度こそ心の底から後悔していた。さすがに暴力などは振るわれないだろうが、その顔に浮かんだどこか不気味な笑みが彼女の中の警戒心と恐怖を煽っていた。

「そういえば、先日の舞踏会で一緒だったソーラ伯爵家の次男とは上手くいったのかい?」

「ははっ。まあ、王太子殿下の補佐官をしているアストラスじゃ、殿下の命ならば嫌とは言えないだろうからな。あいつなら選び放題だろうに、よりにもよってこんな可愛げもない不器量な女を押し付けられて気の毒な限りだ」

「そうだね、彼にはユースティティア姫もご執心だと言うし。君と結婚して財産を手に入れて、ユースティティア姫を恋人とするのかな。なかなか強かな男だね」

 口々に言われる聞くに堪えない言葉が自分以外の人間にまで及ぶに至って、ついにアルレイシアは口を噤み続けることに耐えかねた。内心の恐怖をねじ伏せ、変わらず笑みを浮かべ続ける彼らの顔をきっとばかりに睨みつけると口を開く。

「黙りなさい……っ! 貴方たちがあの人の何を知っているって言うの!? ティティもアストラス殿も、貴方たちのような人間に侮辱されなければならないことなど何もないわ! そのような口を利く自分たちこそが恥を知りなさい!」

 震えそうになるのを必死に留めて出来るだけ毅然と聞こえるように僅かに低く紡いだ声も、言葉を続けるうちに怒りに上擦っていく。

 だが、そんなアルレイシアの怒りを受けても、フェリクスは僅かに片眉を上げただけでその表情をほとんど変えず、ユーリアルムに至ってはまるで彼女を小馬鹿にするように呆れた表情で大げさに肩を竦めて見せた。そして子どもの頃はずっと羨ましいと思っていたフェリクスの美しい菫色の瞳がきらりと見慣れた意地の悪い光を浮かべて、背の高いアルレイシアを更に上から見下ろしてきた。

「へぇ……難攻不落のファーブラー女伯爵がたった一晩で骨抜きにされたのか? アイツはよっぽど女に取り入るのが上手いらしいな。それとも上手かったのはベッドの相手か? お前みたいな抱き心地の悪そうな女を試すなんて、女嫌いと言うよりはゲテモノ好きだったてことか」

「なっ……!?」

 想像すらしたことのないような言葉で貶しめられて、アルレイシアは言い返すことも出来ずに思わず絶句する。そんな彼女に追い討ちをかけるようにユーリアルムの楽しげな声が響いた。

「はははっ、それはないよ、リック。彼はユースティティア姫にも靡かない堅物だよ。銀髪美人の恋人がいるのに、どうしてこんな女のベッドの相手なんてするのさ。そんなのは結婚して跡取りを作るでもなきゃ、試す気も起きないに決まってる」

「それもそうか。結婚しちまえば義務だからしょうがないが、そうでもなきゃ誰がこんな女に手を出すかってな。女に不自由してないなら尚更だ」

 次々と言われる言葉がアルレイシアの頭をぐるぐると回っていた。彼らの言葉はつい先ほど見たアストラスの姿とは全く重ならない唾棄すべき侮辱だったが、それでも彼女の心の片隅に僅かな疑惑の種を植え付けるには十分だった。なぜなら、彼らの言うことが真っ赤な嘘であると否定できるだけの根拠もまた、彼女は持っていなかったのだから。

(銀髪美人の恋人? そんな、まさか――――確かに、ティティのことは恋人ではない、と否定していたけれど、でも……)

 アルレイシアが突然与えられた多くの情報に混乱し戸惑っているうちに、いつのまにか距離を詰めたフェリクスがごく近い距離から彼女の顔を覗き込んできた。その瞳は変わらず意地の悪い光を浮かべ、唇は楽しげに笑みを刻んでいる。実に久々にごく間近で見たその顔にぎょっとして、正気に返るなり距離を取ろうとしたアルレイシアの細腕を、青年の鍛えられた筋肉質な太い腕がしっかりと捉えた。

「俺の言葉を嘘だと思ってるんだろ? 残念ながら、アストラスの恋人は事実だぜ。信じられないなら、第一騎士団に行ってみろよ。そこにいるエピストゥラ・リーヴェルって女がそうだから。あの堅物が随分大事にしてる女だぞ」

「……放しなさいっ!」

 必死に腕を振りほどこうとするアルレイシアの抵抗を容易く片手で封じて、フェリクスは彼女の手の中にあったバスケットを取り上げた。

「あっ……!」

 思わず声を上げ、取り返そうと手を伸ばしたアルレイシアの手をかわし、フェリクスはバスケットを傍らのユーリアルムへと手渡した。ユーリアルムの手がバスケットの中に入れられた一輪を手にする。

「きちんと棘まで取られているところを見ると、誰かからの贈り物かな?」

 くるくると手の中で白薔薇を弄ぶ青年に、アルレイシアは悔しさに唇を噛み締めた。ここで返せと訴えたところで、決して返してもらえないことは今までの経験から分かっている。むしろ彼女がそんな風に言えば言うほど、相手は喜んでそれを取り上げていくのだ。だから必死の思いで唇から零れそうになる言葉を飲み込んでいた。

 清廉とした美しさを漂わせる白薔薇と、退廃的な雰囲気を持つ青年は実に不似合いで。彼はその白い薔薇の香りを楽しむように唇を寄せると、じっと唇を噛み締めて堪えているアルレイシアの姿をその琥珀の瞳に映した。花の陰に隠された唇がにぃっと実に意地の悪い笑みを刻むと、次の瞬間、美しい大輪の花をその手の中で握りつぶした。

「………っ」

 思わず息を飲んで目を見開いたアルレイシアの目の前で、はらはらと握りつぶされた手の中から白い花びらが散っていく。ユーリアルムがぱっと手を開くと、ぼとりと無残に散った花が地面に落ちた。

「君はいつも僕たちが贈る花を捨てているじゃないか。この花だって同じようにするつもりだったんだろう? 手間を省いてあげたまでさ」

 飄々と悪びれることなく言い捨てたユーリアルムが更に靴の底で地面に落ちた花を踏み潰した。それを呆然と見つめるアルレイシアの胸の中にふつふつと悲しみと同時に怒りが湧きあがってくる。抵抗する力を失くしてだらりと下がった彼女の腕はいつの間にか解放されていて、爪が手のひらに喰い込むほどきつくこぶしを握り締めた。

 地面を見下ろす瞳が熱く、涙が滲んでいることは自覚していたが、彼らの前で泣くことだけは絶対にしたくなかった。だから音がするほどきつく奥歯を噛み締めて浮かんでくる嗚咽を堪える。必死に湧き上がる様々なものを堪えているアルレイシアに、フェリクスの言葉が追い討ちをかけた。

「お前みたいな女と結婚してやろうなんていうのは、財産目当てに決まってるんだ。お前だってそんなのは分かってるんだろ? 誰でも同じなんだから、大人しく俺かユーリと結婚すればいいんだよ。その方が他の連中に迷惑を掛けなくて済むんだから――――」

 フェリクスの言葉は最後まで言い終わることなく、鋭い打擲音に遮られた。アルレイシアは打った手のひらに走った痛みに顔を顰めたが、打たれたフェリクスは眉一つ動かすことなくアルレイシアを見下ろしていた。その日に焼けた頬が僅かに赤味を帯びただけで、大した痛手を与えていないことは明白だったが、夜闇に紛れそうなほんの一瞬、青年の菫色の瞳に痛みが過ぎったことにアルレイシアが気づくことはなかった。

「やれやれ。事実を言われて手が出るなんて、妙齢の貴族の姫君のすることじゃないな、アルレイシア。大丈夫かい、リック」

「ああ、コイツの力で殴られたところで、大したことない。子どもに叩かれた程度のものさ」

 ユーリアルムの形ばかりの心配に肩を竦めてみせて、フェリクスは再びアルレイシアを見下ろして笑みを浮かべた。

「まあ、お前が信じたくないならそれはお前の勝手だがな。ファーブラー家の跡取りでもなければ、お前みたいな女を本気で相手にする男なんていないと覚えておけよ。信じて馬鹿を見るのはお前だぜ。俺たちは親切で忠告してやってるんだからな」

 フェリクスの言葉にユーリアルムのクスクスと笑う声が重なり、アルレイシアは未だに熱を持つ手のひらを握り締めて俯いていた。そんな彼女をしばし眺めやってから、ようやく青年たちは中庭を立ち去っていく。その背を見送ることなく俯いていたアルレイシアの瞳から、堪え続けていた涙が一滴零れ落ちた。

(こんなことで……)

 今までに何度も味わってきた思いだ。泣くほどのことではない、と思いながらも、零れ続けるそれは留まることなく、彼女はその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。泣き顔を見られることを厭って膝に顔を埋め隠すと、必死に漏れそうになる嗚咽を噛み殺した。それでも時折震えてしまう肩が、彼女が泣いていることを知らしめていた。

(あんな連中の言うことを信じる必要なんてないわ――――)

 手を伸ばして地面に散った花びらの中から何とか原形を留めているものを拾い集めると、放り出されたバスケットに拾い集めた花びらを入れた。

(捨てないで欲しい、と言ったもの)

 花は潰されてしまったけれど。それでこの花をくれた彼の気持ちまで捨てて良い訳ではない。アストラスと言う人物を良く知るウィルトゥースは彼を信じていたし、何よりまだ何も自分自身で確かめていないのだ。誰のどんな言葉でも、無責任に鵜呑みにすることはしてはならないのだから。

「大丈夫」

 自分自身に言いきかせるように呟いたが、それでもまだしばらくは立ち上がることが出来そうになかった。

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