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<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。
ウィルトゥース(ウィル):第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染でアストの元部下。出張ってますが脇役。
ラウダトゥール(ラウダ):王太子。シアの乳兄弟でアストの上司。
ユースティティア(ティティ):シアの上の妹。
フェレンティーア(ティーア):シアの下の妹。
アウタディエース(ディーエ):ジール王国王女。ラウダの妹。
ほのぼのとした雰囲気にすっかり油断していたアルレイシアは、呑気にフェレンティーアが淹れた香草茶のカップを口元に運んだ。好んで飲む爽やかな薄荷の香りに混じる、嗅ぎなれない甘い香りに疑問を感じた瞬間、にっこりと実に嬉しそうに極上の笑顔を浮かべたアウタディエースが口を開いた。
「それにしても……うふふ、お兄さまの仰っていたことは本当でしたわね。シア、わたくしぜひ先日の舞踏会のお話が聞きたいわ。お話ししてくださいな」
「ディーエ様、そんな、先日の舞踏会の話と仰られても、何もお話できるような楽しい話などありませんよ?」
僅かに首を傾げて目を瞬いたアルレイシアに、アウタディエースは長い睫を持つ大きな瞳を少し大げさに見開いた。
「まあ、そんなことはないでしょう、シア。わたくしたちに教えてくださってもよろしいじゃありませんか。シアの婚約者の方はお兄さまが仰っていた以上に情熱的な方みたいですし。そのお花、その方から頂いたのでしょう?」
「え?」
咄嗟に何を言われたのか理解できずに再び首を傾げたアルレイシアに、フェレンティーアが楽しげに微笑みながら自分の耳元を指で指した。
「シア姉さまの髪を飾っている、その白薔薇ですわ。白い花を選ばれるなんて、なかなか目が高い方ですわね」
言われて、ようやくアルレイシアは先刻アストラスによってその髪に花を挿されたことを思い出した。その事をすっかり忘れ去ってそのままで来てしまっていたのだ。慌てて花を取れば、アウタディエースが残念そうにその長い睫を持つ目を瞬いた。
「まあ、抜いてしまうんですの? もったいないですわ、折角シアに良く似合っていましたのに」
「ディーエ様……」
髪から抜いた花を胸の前で握り締めて戸惑うアルレイシアの姿を、二人の少女はそっくりな少し悪戯っぽい笑顔でにこにことしながら見つめている。そんな少女たちの姿と甘く芳しい香りを漂わせる花を見比べながら、アルレイシアは思わず内心で毒づく。
(ラウダったら……一体、ディーエ様やティーアに何を言ったのかしら)
アウタディエースの期待に満ちたきらきらとした澄んだ瞳に見つめられて、アルレイシアはほとほと困り果ててしまった。彼女にしてみれば、少女たちを喜ばせられるような話など実際に思いつかないのだった。
何せ、ラウダトゥールが選んだ婚約者候補に顔合わせをすっぽかされ、その間に合わせ的にユースティティアのパートナーだったアストラスにパートナーを務めてもらったのだ。アルレイシアとしては自分やラウダトゥールの面目を保つために、ユースティティアやアストラスに多大な迷惑をかけてしまったようにしか思えない。
確かにアストラスは文句のつけようがないパートナーであったため、久々にダンスを楽しめたり、遠巻きに噂をされるだけの憂鬱ではない舞踏会を過ごすことは出来た。だがそれ故に足を怪我し、挙句の果てにはその手当てまでさせてしまったアストラスにしてみれば、いい迷惑だったのではないだろうか。
そんなことを考えて、手に握り締めている白薔薇を見下ろした。舞踏会でのことを思い返せば、何故アストラスはあれほど自分に対して好意的なのか、ますます理解が出来ないアルレイシアだった。
思わず考え込んでしまったアルレイシアの姿に、アウタディエースとフェレンティーアは顔を見合わせ首を傾げあった。そして再びアウタディエースが口を開いた。
「シアったら、そんなに照れることはないじゃありませんの。わたくし、お兄さまから聞いていますのよ」
「え?」
すっかり自分の思考に捕らわれてしまっていたアルレイシアは、アウタディエースの口から出たラウダトゥールの名前にはっと顔を上げた。そんな彼女に王女は美しい顔に輝くばかりの笑みを浮かべて実に楽しげに言葉を紡いだ。
「シアの婚約者の方は、一目でシアに恋に落ちたのでしょう? そのお花も、とてもシアに似合っていますし、その方は本当にシアのことがお好きなのね」
「………え?」
満面の笑顔で言われた言葉の意味が分からずに、アルレイシアは呆然とその青紫の瞳を大きく見開いた。言葉が耳に入ってはいたが、それを頭で理解することが出来ないのだ。目を見開いたまま彫像のように固まったアルレイシアの様子を横目に、隣に座っていたウィルトゥースがやれやれと大きく肩を竦めた。
「ラウダ様がそのようなことを仰ったのですか。王女殿下、ラウダ様は他に何か仰られていませんでしたか?」
王女殿下、と言うウィルトゥースの呼びかけにアウタディエースは少し悲しげに、その美しい弧を描く金色の柳眉を寄せた。そして小さく美しい淡い花色の唇を尖らせた。
「ウィル、王女殿下、なんて呼び方は止めてください。昔はそのように呼んだりしておりませんでしたでしょう? わたくしのことは、昔のようにディーエと呼んでくださいませ」
「王女殿下、申し訳ありませんが、そのお言葉は聞けません」
いつも柔和な笑みを浮かべていることの多いその顔は、今は怖いほど真剣な表情をしていた。そして、ウィルトゥースとしては今までになかったことにきっぱりと、アウタディエースの願いを撥ね付けたのだった。その言葉にアウタディエースの瞳が大きく見開かれ、その瞳にはっきりと傷ついた彩が浮かんだ。
「ウィル!」
フェレンティーアの鋭い声が飛び、アルレイシアはびくりと大きく肩を震わせた。そしてゆっくりと目を瞬いて目の前の三人を見渡した。アウタディエースはその美しい顔を悲しみに染め、フェレンティーアは意志の強さがはっきりと現れているその翡翠の瞳を怒りに煌かせていた。そしてウィルトゥースは常の笑みのない硬い表情を浮かべていた。
「あなた、ディーエ様にそのような事を言って、赦されると思っているの?」
はっきりと怒りを感じさせる厳しい声音にウィルトゥースは苦く笑う。
「赦されるも何も。そもそも僕のような者が王女殿下の御名を呼ぶことの方が、遥かに赦されることではないでしょう。僕はシアやティーアとは違うんですよ。爵位も持たないただの一介の騎士です」
「ウィル、そんな、わたくしは………わたくしにとってウィルは、ティーアやシアたちと同じ、大切な幼馴染ですわ。そのような寂しいことを言わないでください」
「ディーエ様」
まるで風に吹かれて散る間際の花のように悲しげに儚げに微笑んだアウタディエースに、アルレイシアはきつく眉を寄せた。そして笑みを消したまま俯いているウィルトゥースに視線を移す。
「ウィル」
諭すようなアルレイシアの声にウィルトゥースが小さく唇を噛み締めた。一度、二度。躊躇うように口を開いては閉じてを繰り返し、やがて大きくため息を吐いた。そして今度は諦めたように笑う。
「分かりました。但し、ディーエ様とお呼びするのはこのような場だけです。人前ではきちんと王女殿下とお呼びすることをお許しください」
丁寧な許しを請う言葉にアウタディエースは悲しげに震える睫を伏せて、けれどその顔に笑みを浮かべるとしっかりと頷いた。
「ええ、分かりました。それ以上の我が儘は申しませんわ――――ごめんなさい、ウィル」
「ディーエ様。ディーエ様が謝られることなど何もございませんわ」
きっぱりと否定したフェレンティーアにアウタディエースは僅かに苦笑した。フェレンティーアは全てにおいてアウタディエースを優先しすぎるのだ。彼女はきちんと自分の我が儘を理解していた。だからこそ、フェレンティーアの言葉にゆっくりと首を振る。
「いいえ、これはわたくしの我が儘なのです。でも……ごめんなさい。せめて、もうしばらくの間だけ、こうしていたいのです――――いつまでもずっと、子どもの頃のままでいられれば、どんなに……」
小さな呟きに美しい王女の内に巣食う悲しみと寂しさを見て、三人は言葉を噤んだ。アウタディエースは分かっているのだ。王女という生まれ持った宿命のために、いずれ自分がここを去って行く人間であることを。それ故の、彼女の悲しみだった。
「ディーエ様。例え何があっても私が必ずディーエ様をお守りいたします。ですから、そのような悲しい顔をなさらないでくださいませ」
膝の上できつく握り締められていたアウタディエースの手を取り、しっかりと両手で包みこんで言い切ったフェレンティーアに、アウタディエースはまだ僅かに影が残るもののようやくにっこりと彼女らしい笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ティーア」
そんな二人の少女の姿に年長のアルレイシアとウィルトゥースは微笑ましく思いながらも苦笑する。
「本当にティーアはディーエ様の立派な『守護者』ですね。我々王宮騎士よりよほど、ティーアの方がディーエ様の騎士のようですよ」
わざとらしくやれやれと肩を竦めて見せたウィルトゥースに向けられるフェレンティーアの目は冷たい。その愛らしい唇から紡がれる言葉もまるで氷の刃の如き鋭さだった。
「当然だわ。貴方のような腑抜けと一緒にしないでちょうだい」
「言いすぎよ、ティーア」
苦笑したまま嗜めるアルレイシアに、けれどフェレンティーアはウィルトゥースに小さく舌を出すとぷいとそっぽを向いた。そんな彼女の態度に既に慣れきっているウィルトゥースは僅かに苦笑するだけだ。その顔を変わらず冷たい視線で一瞥して、フェレンティーアは話し込んでいる間に冷め切ってしまったお茶を温かいものに変えるべく立ち上がった。手早く湯を沸かしてお茶を淹れながら、フェレンティーアは小さめの水差しに水を張るとアルレイシアの前に置いた。
突然目の前に差し出された水差しに目を瞬いたアルレイシアに、フェレンティーアは悪戯っぽく微笑むと彼女の手の中の薔薇に視線をやった。そのことでアルレイシアは未だに手に握り締めたままだった白薔薇の存在を思い出し、それに伴って今の騒動で忘れていた直前の出来事までも思い出してしまい、思わず白薔薇を握っていた手を緩めてしまった。アルレイシアの手の中からするりと落ちた白薔薇を、床に落ちる直前にウィルトゥースの手が拾い上げた。
「ああ、シア。折角アスト殿がシアのために棘まで取った花なんですよ。落としたりしないであげてください。散っちゃうじゃないですか」
「まあ、そうなんですの? わざわざ薔薇の棘までとってくださるなんて、やっぱりお兄さまの仰った通りなんですのね」
ウィルトゥースの言葉に、アウタディエースもここ数日ずっと気にかかっていた事柄について、今度こそ追及するべく目を輝かせてアルレイシアを見やった。そんなアウタディエースの視線を受けてさらに狼狽えたアルレイシアは、頬が熱を持つのを覚えながら目を伏せた。
(まさか、そんな――――恋に落ちたなんて、ラウダの勘違いに決まっているわ)
ぐるぐるとアウタディエースの言葉が頭を巡るのを、アルレイシアは必死に否定していた。そんな彼女をウィルトゥースは意地の悪さを感じさせる笑みで横目に見ると、間一髪で救い上げた白薔薇をアルレイシアの前に置かれた水差しに挿して言った。
「ディーエ様、シアはラウダ様のように鋭くないので、ちっともアスト殿の好意に気づいていなかったんですよ。何せ、かなりはっきり意思表示をされていても気づかない鈍さなんですから。僕はアスト殿が気の毒になってしまいました」
「まあ、シア姉さまったら」
淹れ終えた香草茶を茶器に注ぎながら、フェレンティーアはそんな長姉の姿を想像できたのか呆れたように目を細めた。そんな妹の視線を受けて、アルレイシアはその表情に色濃く戸惑いを浮かべたまま三人を見やった。彼女の困惑を表すように眉尻が下がっている。
「ディーエ様、ティーアも……ラウダやウィルが言うようなことはないのよ。アストラス殿はティティと親しくされている方なの。私の論文を読んで研究の内容に興味を持ってくださったらしいけれど、婚約者なんかじゃなくて、ラウダの命令でその場限りでパートナーを引き受けてくださっただけなのよ」
活けられた白薔薇をその青紫の瞳に映しながら、それでもきっぱりと否定したアルレイシアにウィルトゥースははっきりと呆れた表情を浮かべて首を振った。
「シア……貴女という方は、まだそんなことを言っているんですか? 貴女は僕が先ほど言ったことを忘れてしまわれたのですか。きちんと考えると、約束したでしょう」
「考えるって……それは、アストラス殿を傷つけてしまった理由に対してで……」
言いかけて、アルレイシアの脳裏にその時の会話が甦って来た。今までは点だったそれらの内容や今の話が、ようやく彼女の鈍いと揶揄された頭でも線で繋がり、アルレイシアは今度こそ絶句した。
(そんな、まさか。だってアストラス殿はティティのパートナーで……)
ユースティティアを知っている人間が、彼女ではなくアルレイシアに興味を持つなどとは、今までのアルレイシアの常識からは到底信じられないことだった。そして何よりアストラスはただユースティティアの知り合いだと言うだけではない。彼女に好意を持たれているのだ。
(なのに……私に、好意?)
何かの間違いだとしか思えなかった。
目を零れ落ちんばかりに大きく見開いて呆然としているアルレイシアにウィルトゥースが苦笑した。
「やっと分かったみたいですね。シアは頭は良いのに、自分の興味のないことにはとことん鈍くて困ります」
「まさかお姉さま、今の今まで本当に考えてもみられなかったのですか? ラウダ殿下は一目で気づかれたようですのに。確かに殿下は鋭い方ですけれど、それだけ相手の方の様子が分かりやすかったと言う事ではありません?」
「ええ、先ほども、実にアスト殿は分かりやすかったですよ。あれで気づかないのはシアぐらいです」
ウィルトゥースだけでなく妹にまで畳み掛けるように言われて、アルレイシアは情けなく眉を下げた。何だか泣きたい気分に陥りながらも、認めたくなくて口を開いた。
「そんな。だってアストラス殿とは舞踏会の夜に初めてお会いしたのよ? それなのに、こ、恋だなんて……そんなことが、」
「世の中には一目惚れというものが存在するんですよ、シア。往生際が悪いです」
にこにこと一見優しげながら実は目は笑っていない表情で釘を刺され、それ以上の反論が出来なくなった。落ち着きなく胸元で手を握り合わせながら、アルレイシアの脳裏に焔を宿した切れ長の翡翠の瞳が浮かんでは消える。
(そんな……)
思ってもみなかった事態に、最早狼狽えることしか出来ないアルレイシアを遠巻きに見ながら、フェレンティーアはため息を零した。
「まったく……お姉さまももういい年なんですから、そろそろ覚悟を決められるべきですわ。この程度のことで狼狽えるなんて、仕様がありませんこと。とりあえず、ウィル」
「なんでしょう?」
僅かに低められた声に変わらない笑みを浮かべたまま首を傾げれば、予想以上に鋭い翡翠の瞳が見返してきた。
「その方、ちゃんと本物なんでしょうね? どこぞの貴族の馬鹿息子みたいな連中と同類なら、私が燃やしますわよ?」
全く冗談の色を含まないどこまでも本気な声音にウィルトゥースも表情を改めて頷いた。
「ええ、まあ。大丈夫だと思いますが。もちろん、僕だって例え隊長であろうとも、シアを傷つけるような人間は赦すつもりはありませんよ」
そんな二人の様子を眺めやって、アウタディエースが柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなに心配をなさらなくても大丈夫ですわ」
「ディーエ様?」
目を瞬くフェレンティーアに美しい王女はどこまでも美しい女神のような笑顔を向けた。
「だってお兄さまにとってもシアは特別ですもの。お兄さまがシアを傷つけるような方を選んだりするはずがありませんわ。ですから、絶対に大丈夫です」
全幅の信頼が籠もった言葉に笑顔を返しながら、妹には見せない王太子の一面を知っている二人はこっそり目配せしあうと気づかれない程度に肩を竦めるのだった。