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<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。
ウィルトゥース(ウィル):第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染でアストの元部下。
ラウダトゥール(ラウダ):王太子。シアの乳兄弟でアストの上司。
ユースティティア:シアの上の妹。
フェレンティーア(ティーア):シアの下の妹。
ゆったりとした足取りで歩きながら、アルレイシアは彼が向かっている方向の先にあるものに気づいて首を傾げた。
「ウィル、王宮に何のようなの? 今日は休息日なのでしょう」
その問いに、ウィルトゥースは楽しげに悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべる。
「本日は王女殿下とティーアにお茶会に誘っていただいているのですよ。シアもご一緒しましょう。シアのお菓子があれば、二人も喜びます」
ウィルトゥースの手がバスケットを掲げて見せれば、アルレイシアは軽く眉を寄せた。
「ケーキは私が一人で食べるつもりだったから、それほどの量はないわよ。それにディーエ様のお茶会ならば、きっと料理長が張り切ってお茶菓子を用意しているはずだわ。持っていくのは失礼だと思うのだけれど」
「そんなことはありません。シアの作ってくれるお菓子は僕たちにとっては思い出の味ですから、特別なんです。ラウダ様が知ったらきっと残念がりますよ。あの方もシアの焼いたケーキが好物でしたから。昔は競って取り合いながら食べてましたよ」
「そういえば、そうだったわね」
まだお互いの立場による遠慮が少なかった子どもの頃、残った最後の一つを誰が食べるのか本気で喧嘩をしていた。幼い頃の懐かしい思い出に、アルレイシアは思わずくすりと微笑んだ。
元々アルレイシアの菓子作りの腕は亡母に仕込まれたものだった。アルレイシアの母はもちろん王宮の料理人ほどではなかったが、かなりの菓子作りの腕前だった。アルレイシアやユースティティア、ラウダトゥールの幼い頃は、午後のお茶の時間には彼女の作った様々なお菓子が何よりの楽しみだった。
その頃から妹がいたこともあって長女気質だったアルレイシアは、母の手伝いをよくしており、いつからか彼女とともにお茶の時間のお菓子作りをするようになっていた。そのためフェレンティーアを出産し、産後の肥立ちが悪く寝付いた後に亡くなってしまった母の代わりに、成人するまで子どもたちのお茶会のお菓子を作るのはアルレイシアの役目だったのだ。
「シアは、どうして恋をしないのですか?」
全く前触れのない唐突にも思える問いに、昔を懐かしんでいたアルレイシアはピタリと笑いを止めて呆然とウィルトゥースの顔を見上げた。先刻までの柔和な笑みを消して、ウィルトゥースは真剣な表情で彼女を見下ろしていた。
「唐突に、何を言い出すの? 恋って……一体、何の……」
「子どもの頃は、僕はシアはいずれラウダ様の后になるのだと思っていました。周囲でも、そう考えていた者も多かったと思います。だからこそ貴女は公爵家の長子でありながら、成人し社交界に出た後まで正式にファーブラー家の跡取りとはならなかったのでしょう。けれど、結局そうはならなかった。何故ですか?」
アルレイシアとラウダトゥールという乳兄弟として育ってきた二人を、長く傍らで見てきた人間でさえそう思っていたのだ。事実、アルレイシアが正式にファーブラー公爵の跡取りとなった時、驚きとともに最有力の王太子妃候補がいなくなったことに、年頃の娘がいたジール王国の全ての貴族は色めきたったものだった。そしてまた、莫大な財産と爵位を継ぐことになったアルレイシアの婚約者となる者が誰なのかも、注目の的となったのだったが。
ウィルトゥースの問いに、アルレイシアはしばし沈黙した。石畳を靴が踏む軽い足音だけがその場を満たす。
「……貴方は私が答えるまでもなく、理由なんて知っているでしょう」
「そう、ですね。確かに貴女とラウダ様の間には男女の色めいた想いなど存在しなかったことは知っています。それでも、陛下も公爵も長くそのおつもりで貴女を教育されてきておりました。ラウダ様が貴女を妻にするおつもりはないと陛下と王妃殿下に申し上げたとき、それでもそこにラウダ様の想いはあっても、貴女の想いはなかったでしょう」
やっと絞り出した答えに淡々と返されて、アルレイシアはたまらずに足を止めた。自分の視線が自然と厳しくなっていることを自覚していた。睨むように、見下ろしてくる端整な美貌を見つめる。
「本来なら、貴女はファーブラー公爵の跡取りとなった時点で婚約者が決まっていても不思議ではなかった。もっと言うならば、ラウダ様とのことがなければ、幼い頃から相手が決められていてもおかしくない立場のはずです。なのに貴女は今だにその候補すら、決めておられない」
「だから……一体、何を言いたいの?」
ウィルトゥースの言葉に詰問するような口調で言い返せば、静かに見下ろす青年の琥珀の瞳がふっと緩んだ。
「ラウダ様に貴女への想いがなくとも、貴女はラウダ様のことを想っておられたのではないのですか?」
「ありえないわ」
一瞬の躊躇いもなくきっぱりと答えた。今までにも幾度か尋ねられたこと。その度に、同じように返してきた。その答えが嘘ではないことを証明するように、視線を逸らすことなく見下ろしてくる瞳を真っ直ぐ見据える。けれど、ウィルトゥースが確かめたかったのはその問いへの答えではなかったようで、アルレイシアの言葉にあっさりと頷いて見せると再び矢継ぎ早に言葉を続けた。
「ならばなぜです。なぜ、本来ならばもう結婚していてもおかしくないような身で、未だに婚約者すら決めておられないのですか?」
「それは……」
鋭く切り込んでくるようなウィルトゥースの問いかけに、アルレイシアは唇を噛み締めた。そして険しい瞳でじっと足元を見つめる。ウィルトゥースが何を求めてそのような事を尋ねてくるのか分からないが、それでもその理由を彼が知らないはずはなかった。だからこそ、そんなことを聞いてくる彼の意図が掴めない。
「貴女の研究に理解がないから? 貴女に求婚するときに、貴女の容姿を褒め称えたから? 真心のない愛の言葉を捧げたから? それとも、貴女に求婚してくる人間は皆、ファーブラー家の財産が目当てだからですか? けれど、それを誰が証明できるのです。貴女が相手の言葉を偽りだと、またはそうではないと判断する、その違いは何なのですか?」
「………」
返す沈黙に、容赦のない声が続ける。
「答えられないのですか、シア? 貴女らしくもない」
まるで揶揄するような言葉にもかかわらず、告げる声音はどこまでも真剣だった。答えられずに唇を噛んで俯くアルレイシアを、その真摯な光の宿る琥珀の瞳でじっと見つめる。
「分かりましたか? たいちょ――――アスト殿や僕が言った、あなたの目を覆っている思い込みというのが何なのか」
理性では、理解できていた。それが出来ないほどアルレイシアは愚かではなかったが、けれどその言葉に素直に頷くことができるほど素直でもなかった。だから、ただくっきりと眉根を寄せて口を噤んだまま俯くしかできなかった。だが、ウィルトゥースはそんな素直に頷けない彼女の意地っ張りを見透かしたように、厳しい眼差しを緩めると柔らかく微笑んだ。
「シア、貴女が自分自身のことをどのように思っていらっしゃるのか知らないわけではありませんが、それでも、私から見ても貴女は十分女性として魅力的な方ですよ。自分で自分を貶しめるのはやめて、自分を見る相手の目を真っ直ぐに見てみるといいです。そうすれば、きっと分かることもありますから」
「ウィル……」
自分より二つも年下の青年にそう諭されて、アルレイシアはしばし逡巡する。悔しさと羞恥で反論したい気持ちを理性が押し留めていた。しばしの沈黙の後、きゅっと唇を引き結んで言い返したい言葉を飲み込むと、渋々ながらも大人しく頷いた。
(自分のものの見方が斜に構えていることぐらい分かっているわ)
自覚していても、簡単に直せるものではない。それでも。
(よく、分からないけれど……傷つけてしまった気がする……)
ウィルトゥースの言葉を聞いて、改めて思い返して気づいたのだ。その目で見ないで、と言ったときのアストラスのあの様子は、怒ったのではなく傷ついていたのではないかと。その後に見返した翡翠の瞳には、確かにはっきりと痛みが見えたのだから。彼女の言葉の何がそんな風に彼を傷つけたのかまでは、やはりよく分からなかったけれど、少なくとももう二度と彼に対してあんなことは言わないようにしようと心に決めた。
自分や自分の大切なものを傷つけようとする人間に対しては牙を向くことは厭わないアルレイシアだが、それでも生来の長女気質から、むやみに人を傷つけるようなことは嫌悪していた。だからこそ、無意識とはいえアストラスを傷つけてしまったことへは自己嫌悪を感じている。
(今度お会いしたときには、まずきちんと謝罪しましょう)
そう決意すると、何となく吹っ切れた気がしてアルレイシアは顔を上げた。上がった目線の先に僅かに呆れたようなウィルトゥースの顔を見つけ、折角の晴れた気分に水を差された様な気がして眉を寄せる。
「その顔は何なのかしら、ウィル?」
「いいえ、やっぱりシアはシアなんだなぁ、と思っていただけですよ。シア、アスト殿が貴女に出した課題は二つ、今の答えではまだ半分です。その状態で謝罪などしても、余計アスト殿を傷つけるだけですよ。出さなければいけない答えは、もう一つあります」
「もう一つ」
遅れるから、と促されて再び歩き出しながら鸚鵡返しにしたアルレイシアに、ウィルトゥースはやれやれとばかりにわざとらしく肩を竦めて見せた。
「貴女は自分の言葉の何が隊長を傷つけたのか分からないままでいる。あなたにとってはそれは大したことではないのかもしれませんが、アスト殿にとってはとても重要なことなんですよ。シア、どうして貴女の言葉にアスト殿が傷ついたのか、その答えが分からないままならば貴女はきっとまた同じことをするでしょう」
「失礼ね、分からなくても繰り返さないよう、気をつけるに決まっているわ」
思わず言い返したアルレイシアの言葉にウィルトゥースはその琥珀の瞳を僅かに厳しくする。そして見せつけるように大きくため息を吐いた。
「いいえ、繰り返しますよ。僕には分かります。そもそも貴女がその理由を『分からないままで平気』だと思っている時点で、それがアスト殿を傷つけるんです――――シア、少しは自覚してください。貴女はご自分が思うよりも遥かに、世間知らずで鈍感なんですよ」
薄々自覚していないこともなかったが、それでも弟のように思う相手からのはっきりとした指摘にアルレイシアは眉を釣り上げた。図星を衝かれて怒るなんて八つ当たりだと分かってはいるが、それでも視線が睨むように厳しくなるのは止められなかった。
「なら、どうしろというの?」
尖った声を全く気にした風もなく、ウィルトゥースは僅かに考えるように首を傾げた。その端整な美貌になぜか少し切なげな笑みを浮かべて、けれどすぐにそれを消すと真剣な顔でアルレイシアを見つめた。
「分からないままで良しとせず、きちんと考えて差し上げてください。そして貴女の中できちんと答えが見つかったのなら、謝罪でも礼でもしてください。そうではないのなら、絶対に謝ったりしてはいけません。いいですね?」
確かめるような問いかけに今度こそ大人しく頷いたけれど、それでもアルレイシアには彼がそこまで言う理由が分からなかった。だからこそ、ウィルトゥースの確信に満ちた言葉に疑問が湧く。
「ウィルはまるで、どうしてアストラス殿が傷ついたのか分かっているみたいね」
「分かっていますよ。だから言っているんです。シアにも、もうヒントは差し上げました。これ以上は自分で考えることですよ」
あっさりと首肯したウィルトゥースにアルレイシアが何か言うより早く、彼はその言葉を封じてしまった。言おうとしたことを見抜かれ、渋々と口をつぐんだアルレイシアは大人しく、彼の言うところの『ヒント』を探すように、先刻のウィルトゥースとの会話を思い返していた。そしてふと思いついた疑問を、思考が他のことで占められていたために、彼女にしては珍しいことに対して深く考えないまま口に出した。
「そういえば、ウィル。まるで貴方は、恋をしているような口ぶりだったわね」
「………」
ピタリ、とウィルトゥースの動きが一瞬止まった。不意を衝いたりするつもりは全くなく、単純に浮かんだ言葉を口にしただけだったために、アルレイシアはウィルトゥースの突然の反応を察することができないまま数歩行き過ぎた。隣を歩いていた背の高い影がついてこないことに気がついて、慌てて振り返った。振り向いた視線の先にウィルトゥースの顔を認めた途端、青紫の瞳を零れるほど大きく見開いた。
「ウィル……?」
はっきりと痛みを宿した琥珀の瞳に、アルレイシアは今度こそ自らの失言を心の底から後悔していた。深く考えて言葉にしたわけではない、そんな言葉で大切な相手を傷つけてしまったことに、自分の方こそ悲しげな顔をしたアルレイシアを目にして、ウィルトゥースは大きく深呼吸をしてから微笑みかけた。
「すみません、シア。シアがそんな顔をする必要はないんです。先に言い出したのは、僕の方なんですから」
「ウィル、貴方、まだ……」
口にするか否かを逡巡するようなアルレイシアの言葉を、ウィルトゥースは遮るように声を上げた。
「それ以上は、言わないでください、シア。諦めることと、忘れることは別なんですよ。僕はもう、自分の気持ちには決着をつけています。けれど、だからと言ってそう簡単に忘れられるものではないですし――――想うことぐらいならば、罪にはならないという考えは、甘いのでしょうか」
苦い笑顔で告げられた言葉に、アルレイシアは目を瞠り。すぐに表情を戻すと踵を返してウィルトゥースの傍らまで歩み寄った。そしてそっと手を伸ばし、背の高い青年の頭をゆっくりと撫でた。
アルレイシアの女性にしては大きな手が、サラサラと癖のない陽に透けて薄茶色の綺麗な髪を梳る。柔らかな仕種で頭を撫でられて、ウィルトゥースは一瞬大きく肩を震わせてからゆっくりと息を吐いた。そうして幾度か深い呼吸を繰り返して落ち着くと、その端整な顔に泣きそうな笑顔を浮かべた。
「シアにこうしてもらうのもずいぶんと久しぶりです。ありがとうございます、もう落ち着きました」
その言葉にアルレイシアはゆっくりと手を下ろして真剣な瞳でウィルトゥースを見上げた。こんな時でも気休めを口にするのは好きではなかった。甘言も大言も彼女にとっては唾棄すべきものだ。だから、自分が真実だと胸を張って言える言葉だけを口にする。
「ウィル。例え何があっても、私は貴方の味方よ。それを忘れないで。一人で抱え込まないで、力になれることがあったら言ってちょうだい」
幼かった頃は、いつも一緒にいた皆がそうだったけれど。大人になってそれぞれの立ち位置を得て、今ではそうありたいと願ってもできないことも多かった。誰よりも彼の幸せを願っているだろう人でも、言いたくても言えなくなってしまった言葉を、だからこそ彼女は決して違えないと誓っている。
「ありがとうございます、シア……」
震える声で告げられた言葉に、アルレイシアはまるで彼を安心させるように柔らかな笑顔を向けた。