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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第二章~女伯爵に捧ぐ花
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<簡易人物紹介>

カッコ内は会話内で使用されている愛称です。

アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。

アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。

ウィルトゥース(ウィル):第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染でアストの元部下。

「花は、お好きなのですか?」

「え?」

 かけられた言葉よりも髪に触れている指が気になって、咄嗟には答える事が出来なかった。決して強く掴んでいるわけではない。少し身を引けば、髪はあっという間にその大きな手の中から逃げ出すだろう。そう思うのに、何故か体は動くことはなかった。髪に神経は通っていないはずなのに、その手の熱さを感じるようで。触れられている部分がどきどきと脈打っているようにすら感じられた。

「花、です。ずいぶんと熱心にご覧になっておられました。お好きなのですか?」

 身を強ばらせたまま目を瞬いて戸惑うアルレイシアに呆れることもなく、アストラスは再び同じ問いを繰り返した。大きく二度瞬きをした後、ようやく意味を理解すると、彼女はごく小さな動きでこくりと頷いた。

「ええ、好きですわ。花は神話の女神とは切っても切れない所縁のあるものですし……何より、心が和みます」

「そうですか。では」

 掴まえていた髪の先にそっと唇を落とし、そのままするりと解放する。そしてその大きな手は服の隠しから小ぶりのナイフを取り出すと、意外なほど慣れた仕種で咲初めた大輪の純白の花を摘み取った。馥郁とした香りを放つつるばらは鋭い棘を持っているが、その棘も丁寧かつあっという間に処理してしまった。

 まるでそうすることが当然のように髪にくちづけをされ、しかもそれを意に介した風もなく花を摘み取るアストラスのその様子に、アルレイシアはただ目を瞠ることしか出来なかった。そうして立ち尽くして彼の作業を見るともなしに見守っていると、再び彼の腕が伸びてきて、摘み取った大輪の花をアルレイシアの髪に挿した。

「とてもよくお似合いです」

 にこり、と笑顔を向けられ、驚いてアルレイシアは自分よりも大分高い位置にあるその端整な顔を見上げた。彼の手は花を挿しただけですぐに離れていき、アルレイシアはバスケットを持っていない方の手で、ゆっくりと髪に飾られた花の花びらに触れた。ふわりと花弁が揺れて、華やかな甘い香りが鼻腔を擽る。

 三度伸びたアストラスの手が、花に触れたアルレイシアの手を取った。手袋越しでないその硬く熱い手のひらに指を絡め取られ、びくりとアルレイシアの肩が震えた。そんな彼女の様子に気づかないはずもないのに、彼はその手を離すことなく掴む手に力が込められる。

「受け取って、いただけますか?」

 真摯な口調と同じぐらい熱の籠もった視線に、アルレイシアは見つめ返し続けることが出来ずに俯いた。だが、折角の花を落としてしまうことが怖くて、あまり頭を下げることが出来ない。結局頭は僅かに動かしたのみで、瞼を伏せることで視線を逸らす。意識しなくとも、自分の顔が赤いであろうことははっきりと自覚していた。

 伏せられた睫を小さく震わせて、否とも応とも答えられずにいるアルレイシアの朱を刷いた目尻を、手を握っているのとは反対の手のアストラスの硬い指先がそっと撫ぜた。ぴくりと睫が震えるが、それでも視線を上げることが出来ない。休息日だからと眼鏡を置いてきたことを後悔していた。それがあれば、この指先が触れてくることはなかったはずだ。

(きっとまた、あの瞳が見てる)

 触れられているのは絡んだ指と目尻を撫ぜる指先だけ。決して強い力ではないそれは、振り払うことなど容易いだろうに、そうすることが出来なかった。至近から降りそそぐ視線に、呼吸をすることすら躊躇われるほどの緊張を強いられる。彼女に出来たのは、ただ目を伏せて身を固めることだけだった。

「アルレイシア姫……」

 囁きは、まるで直に肌に触れるように響き。その低い声の持つ引力に激しく惹きつけられると同時に、今まで味わったことのないような緊張感に指先が震える。甘い口説き文句を言われた訳でもない、ただ名を呼ぶだけの声にどうしてこれほど心が揺さぶられるのか分からないまま、アルレイシアは無性に泣きたくなる。

 自覚が無いままの、それは紛れもない怯えだった。

 嘲笑も、侮蔑も、おざなりな甘言も。そんなものには全くかき乱されることはなかった。受けて立つだけの度胸もある。それなのに優しく触れる指や、向けられる笑み、熱の籠もった瞳からは逃げ出したくて堪らなかった。けれど結局逃げ出すことも出来ずに、ただ込み上げてくるものを堪えるように小さく唇を噛み締めることしか出来ない。

 浮かんできた涙に伏せた睫が濡れると、目の前の青年が驚いたように息を飲んだのが分かった。そして目尻に触れていた指先が、そこに溜まって零れることのない涙をそっと拭った。ぴく、と再び睫が震えたが、熱い指先はそのまま離れていく。

「申し訳ありません。貴女を怯えさせたりするつもりではなかったのです」

 絡められた指も解かれ、解放された手をアルレイシアは胸元でぎゅっと握り締めた。そんな彼女を見つめて、アストラスは少し切なげに苦笑したが、目を伏せたままのアルレイシアは気づかなかった。アストラスはそのまま大きく一歩後ろに体を引き、アルレイシアと距離を開けた。

「怯えてなんて、」

 いません、と言い切りたかったが、それが強がりであることは分かっていた。実際に、アルレイシアは彼が離れたことで確かに安堵を感じていたのだ。そんな彼女を見抜いているように、アストラスの言葉が彼女に言葉の続きを言わせなかった。

「いいえ、本当に申し訳ありません。少し、調子に乗りました」

 苦味を含んだ声は、それでも柔らかい。言葉の意味が分からずに、アルレイシアは首を傾げた。伏せていた瞳を上げて、アストラスの顔を見上げれば、彼はその声と同じように柔らかく苦笑していた。

「………?」

「貴女が微笑んでくださったから、少し浮かれてしまったのです。これからは、気をつけるようにいたします」

 訳が分からないと瞳を瞬いたアルレイシアに向けられた表情は柔らかいのに、その瞳は相変らず深い彩と熱を宿していて。真っ直ぐに見返してしまってから、驚いて慌てて目を逸らした。

「あ、の」

「なんでしょう」

 握り締めた手を開き、アストラスの瞳を見てどきどきと早鐘を打ち出した心臓を宥めるように胸元を押さえた。うろうろと視線を彷徨わせて、それでもその瞳を見返す勇気は持てないまま、再び僅かに伏せた目で彼の頬の辺りに視線を留めた。

「お願いですから……その目で見るのを止めてくださいませんか」

「……目、ですか」

「その、何だかとても居た堪れないので……」

 口ごもったアルレイシアは、アストラスがふっと零した吐息に気分を害してしまったかと申し訳なくなる。

「貴女は、ご自分が何を仰っているのか、分かっておられるのですか?」

「あの……そう、ですわね。ごめんなさい、私ったら、失礼なことを」

「そうではありません」

 やはり悪いことを言ったかと咄嗟に謝罪しようとしたアルレイシアの言葉を、アストラスの低い声が遮った。訳が分からず、困惑したまま落ち着きなく手で服を握り締めた彼女の様子に、アストラスの唇から再びふっと息が漏れ、微かな笑い声が喉の奥に籠もった。

「やはり、分かっておられないのですね」

 呟く声は変わらずに丁寧で柔らかいのに、何故かそこから先刻まで感じていた優しさが抜け落ちたような気がした。その理由が分からないまま、アルレイシアは顔を上げることも出来ずに震える。

「申し訳ありませんが、姫のその頼みを聞くことはできません」

 はっきりと告げられた拒絶に、息を飲んだ。そんなアルレイシアに構うことなくアストラスの言葉は続く。

「アルレイシア姫、貴女はとても理知的で聡明な方だ。観察眼にも優れていらっしゃる。それなのに、その貴女が分からないのは、偏に経験が足りない、と言うことだけが理由ではないのでしょう。分かろうとしていらっしゃらないから、分からないんです。違いますか?」

 確かめるように問われても、アルレイシアの中にはそれに答える言葉がない。そんな彼女の様子にアストラスは小さく笑った。その笑いはまるで自嘲のようにアルレイシアの目には映った。

「申し訳ありません。焦るつもりはなかったのですが、急ぎすぎたようです。貴女のその瞳を曇らせている思い込みを取り払って私を見ていただきたいと思いましたが、今の私が貴女にそれを求めるのは、性急過ぎるのでしょう――――そのようなお顔を、なさらないでください」

 最後の言葉は懇願するような囁きになった。言われたアルレイシアは、自分がどんな顔をしているかなど分からない。確かめるように胸元を掴んでいた手で自らの頬に触れた。乾いた感触にほっとした。少なくとも、泣いてはいない。むしろ、彼女を見つめるアストラスの翡翠の眼差しの方がよっぽど傷ついているように見えた。そう思って見返した澄んだ瞳には、途方に暮れたような表情の見慣れた顔が映っていた。

「今、このようなことを申し上げても信じていただけないかも知れませんが、私はただ、貴女に微笑んでいていただきたいのです。ですが、貴女の頼みを撥ねつけていながら厚かましいのを承知で、一つだけお願いをしてもよろしいでしょうか」

 緊張の連続でからからに渇いた喉から声を出すことが出来ず、僅かに頷くことで先を促したアルレイシアの青紫の瞳を真っ直ぐに見つめて、アストラスはしっかりと微笑んだ。

「できれば、差し上げた花を『落とし穴』に捨てることはしないでください。私は、貴女には白い花が良く似合うと思います」

 そう告げると、丁寧に礼をして踵を返した。

「それでは、また四日後にお会いできるのを楽しみにしています」

 まるでアルレイシアに断る隙を与えないとでもいう風に、アストラスはそのまま振り返ることなく足早に立ち去っていった。残されたアルレイシアは呆然と立ち尽くしたまま、風のように素早く去っていった青年の背中を見えなくなるまで見送っていた。未だに思考はぐるぐると回り、冷静にものを考えることが出来ないでいる。

(私が、分かろうとしていないから分からない? 思い込みって、一体……)

 考えても恐らく答を見つけることなどできないと分かっている問いが、頭の中を埋め尽くしていた。その場を動く気力すら起きなくて、ただぼんやりと立ち尽くしていたアルレイシアは、だからすぐ近くまで来ていた人の気配にも気づかなかった。

「まあ、確かに隊長にしてはらしくなく性急でしたね。でも、言っていることには一理あると思いますよ、シア」

 声を掛けられて初めてその存在に気づき、驚いたアルレイシアの唇から小さな悲鳴が零れた。びくりと大きく体が震え、握る力が緩んでいた手からバスケットが落ちる。いつの間にか近づいてきていた声の主が、その長い腕を伸ばしてバスケットを拾い上げた。

「ウィ、ル……」

 立ち去ったとばかり思っていた青年の姿に、アルレイシアは驚きから立ち直ると、かけられた言葉を反芻し僅かに咎めるような視線を向けた。けれど、ウィルトゥースはそんな彼女の眼差しを気にする風もなく、実に呑気な仕種でバスケットの中身を覗きこんでいた。そんな姿になおのこと苛立ちが増して、その心持のまま口を開いた。

「どういうことかしら、ウィル。アストラス殿といい、貴方といい、一体何が言いたいの。大体、人の話を立ち聞きなんて――――」

「八つ当たりとはらしくないですね、シア。それに隊長――――アスト殿の言いたいことはそのまま、言葉通りの意味ですよ。貴女はとても頭がいいけれど、自分の知的欲求に含まれないことに関しては驚くほど世間知らずです。そして思い込みも強い――――さて、参りましょうか」

 バスケットの中身を確認して嬉しそうににんまりしたウィルトゥースは、言いたいことだけ言うとアルレイシアの反論を待たずにさっさと歩き出した。言われた言葉の衝撃に思わず目を見開いていたアルレイシアは、あっという間に踵を返して歩き出した凛と背筋の伸びた背中を呆然と見送る。けれど、すぐに自分の荷物が彼の手の中であることを思い出して、慌てて後を追った。

「待ちなさい、ウィル。私のバスケット――――」

「お茶をするのなら、いい場所を紹介いたしますよ、シア。僕も今日は休息日なんです。折角ですから、ご一緒しましょう」

 楽しげに答えながらも、その言葉が彼は手の中のバスケットをアルレイシアに返す気がないことを伝えてきた。

 アルレイシアとしては、正直に言えば遠慮したいところであった。ただでさえアストラスとのやり取りで異様なほど消耗しており、また、まるで謎かけのような二人の青年の言葉に混乱してもいた。一人で落ち着くところでゆっくりと考えたかった。

(全く、折角の休息日だというのに、ちっとも休めていないわ)

 むしろ余計に疲れているような気がする。アルレイシアはため息を吐いて自らの指でこめかみを押さえた。常よりもゆっくりと歩いているのではあろうが、それでも立ち止まっているアルレイシアに構うことなく歩いていくウィルトゥースの背中を眺め、一瞬このまま踵を返して立ち去りたい欲求に駆られる。ついていくのは何だかとても嫌な予感がした。

 けれど彼らの言葉の意味が気になるのも事実で。きっと自分の頭で考えるだけでは、答なんて見つけられずに悶々とするだろうことも予測がついた。

 アルレイシアとて自覚しているのだ――――悔しいけれど、ウィルトゥースの言っていることは、的を得ていると。研究者として生きてきて、知識量には自信がある。けれど、それは研究している分野に関しての知識であり、それ以外の部分でのことは知らないことも当然多い。また、研究にばかりかまけ引き篭もって生きてきた弊害として、自分には圧倒的に経験が足りないことも分かっていた。

 要するに、揶揄されずとも自分が世間知らずであることを、アルレイシアはきちんと認識していた。そしてそれを取り繕うために、自分によってくる他人に対して必要以上に警戒してしまっていることも。元々母親を亡くしてからは妹たちの母親代わりとして、彼女自身のみならず父親や妹たちに下心を持って近づいてくる人間を警戒して生きてきたため、彼女のそれはとても根深いものだった。

 アルレイシアが『可愛くない』と言われる所以がそこにあることを、二十一年も生きてくれば悟らざるを得ない。そのことをきちんと自覚してからは変わりたいと思わなかったわけではないけれど、実際にそれができるかと言えばそれもまた難しく。何より、寄ってくる人間が財産目当てな人間ばかりなため、警戒心は薄れるどころか強まるばかりだった。

 それでも。研究を愛し、引き篭もって生きているとはいえ、アルレイシアは決して人嫌いではない。だから、もう何年も王太子以外がほとんど訪ねて来ることのない研究院に閉じこもって生きるのには、苦痛はなくとも寂しさを感じてはいた。研究院にも友人はいたが、基本は皆研究第一のため、かつての幼馴染たちや妹たちと過ごしたような楽しい時間を過ごせるような相手ではなかった。

 だから、アストラスとの出逢いは、彼女にとってとても喜ぶべきものだった。ユースティティアのことを思えば、彼を自分の婚約者などにすることは到底受け入れられないが、それでも彼が本当に学者であるアルレイシアに偏見を持たずつきあえる人間ならば、ぜひ友人になりたいと思っていたのだ。

 そう思えば、今アストラスとの間に溝を作っているこの問題を見てみぬふりは出来ないだろう。きちんと原因を知り解決しなければ、彼との友人関係など築くことは出来ないに違いなかった。

(そうだわ、答が出ないと分かっているなら、人の知恵を借りることだって必要よ。それにウィルには、彼の言うとおり八つ当たりをしてしまったし、それでウィルの気が済むなら、気分転換につきあうぐらい、いいじゃないの)

 ぐるぐると回っていた思考がようやく落ち着き、冷静になった頭でそう結論付けると、アルレイシアは大急ぎでウィルトゥースの後を追うべく歩き出した。足早に歩き出して顔を上げれば、道の先でウィルトゥースがまるで彼女の答えを分かっていたかのように、常の柔和な笑顔を浮かべて彼女を待っていた。

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