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<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。
ウィルトゥース(ウィル):第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染でアストの元部下。
突然背後から割り込んできたアルレイシアの声に、ウィルトゥースのピンと伸びた背筋がびくりと震えた。一拍の間を置いて、その背が恐る恐る振り返る。
「まあ、確かに私も今更、自分のことをなんと言われようと、気にしたりするほど繊細に出来てはいないけれど? さすがに本人を目の前にして言うのはどうかと思うわよ?」
にっこり。
音がするような笑みを浮かべて、わざとらしく語尾を上げた話し方に、ウィルトゥースはいかにも困ったように情けなく眉を下げて苦笑した。けれどそこは幼馴染、幼少時からアルレイシアを怒らせたラウダトゥールが彼女の機嫌を取り成す様を見てきていたため、対処法は心得ている。それでも子どもの頃からラウダトゥールの子分として悪戯の片棒を担がされ、ことあるごとにアルレイシアに小言を言われていた記憶のあるウィルトゥースにとっては、アストラスの怒りは笑って受け流せても、アルレイシアのそれには冷や汗が出てくるのだった。
そんな内心の心情を第一騎士団の隊長であるという矜持で押し隠すと、言い訳などしたりはせず素直に優雅な仕種で頭を下げた。それでも常日頃の柔和な美貌は僅かに引き攣っていたのだったが、それを指摘する者はこの場にはいなかった。
「すみません、シア。失言でした。言い訳させていただくなら、決して貴女を馬鹿にしたりするつもりではなかったことだけは、分かってください」
反省していることを前面に押し出した殊勝な態度に、彼女に怒られて小さな子犬のようにしゅんとしていた幼い頃の姿が重なり、思わずアルレイシアは吹き出していた。春風に吹かれる若葉のように朗らかな笑い声を上げて、優しい瞳で目の前の体だけは大きく成長した幼馴染を見つめる。
「ふふふっ。大丈夫、分かっているわよ。それに私は、自分が一般的な貴族の令嬢たちのように瑕疵のない姫君ではないことも、ちゃんと理解しているしね。まあ、尊敬する隊長の相手としては、一言物申したい気持ちは分からなくもないわ」
嫌味のつもりなどなく明るく言い切れば、ますますウィルトゥースは落ち込んだように肩を落とした。その様子にますます笑い声が零れ、結局ウィルトゥースもつられる様に情けない表情を浮かべていた顔を苦笑に変えた。
「虐めないでくださいよ、本当にそんなつもりはなかったんですから――――それに、隊長のお相手と言う意味でしたら、シアでしたら全く文句の付けようもないですよ。むしろ納得するぐらいです」
「え?」
言われた意味が理解できず思わず首を傾げたアルレイシアに、さっきまでの落ち込みなど幻だったように人の悪い意味深な笑みを浮かべたウィルトゥースは、苦虫を噛み潰したような表情をしているアストラスをちらりと見やってから首を振った。
「いいえ、お気になさらず。こちらの話ですから、ああ、でも。隊長にきちんとした恋人を持って欲しいと思うなら、隊長に勧めるのもそうですが、相手の女性に隊長のいいところを分かって頂くのも重要ですよね」
「はぁ……?」
もの凄く気のない返事をしたアルレイシアの様子など取り合うことなく、自身の思いつきに実に楽しげなウィルトゥースは満面の笑顔でまさに立て板に水の如く話始めた。
「何せ、隊長は見たとおりの生真面目、無表情、無愛想の人ですから。騎士だった頃は美点だったそれらも、女性を相手にするならば欠点でしかないでしょう?」
「ええと、ウィル?」
一体何の話だ、と顔を引き攣らせるアルレイシアに構わず、その弁舌は留まることなく続けられる。
「シア、基本的に隊長は見た目はちょっと威圧感満点ですが、人は良いんです。部下にも好かれる方ですし、女性の扱いは上手いとは言えませんが、一度決めた相手のことは大切にすると思います――――多分、きっと。前例がないのでなんとも言えませんが。なので、シアがどうしても生理的に受け付けないとか、鉄面皮が気に入らないとか、顔が好みじゃないとか、性格的に合わないとか、そう言った事がなければ、ぜひシアの相手として考えてみてあげてください」
「ウィル!」
挟もうとした嘴すら蹴飛ばす勢いで続くウィルトゥースの話を、最早アルレイシアは諦めの境地で聞いていた。最も、彼女にとってその話の内容などは右から左に流れていくようなものだったが、とりあえず気の済むまで喋らせれば止まるだろう、などと幾分失礼なことを考えていた。
そんな流れる水のように続く彼の言葉尻に被さるように、痺れを切らしたようなアストラスの怒声が響いた。けれど、その怒鳴り声にすらウィルトゥースは相変らず嬉しげだ。
(駄目だわ、これは)
完璧にアストラスの負けを悟り、アルレイシアは同情半分で苦笑した。何せ、相手は怒られていることすら喜んでいるのだ。むしろ怒らせたくてわざとやっている部分も多いだろう。そんな相手に幾ら怒ったところで、微塵も堪えるはずがない。まさに怒り損、ただの徒労だ。
(お気の毒に)
実に他人事よろしく、そんなことを思いながらアストラスに怒られているウィルトゥースを眺めていた。真剣に怒っているアストラスは、真剣だからこそなおのこと気の毒になってしまう。そのため、しばらく黙って成り行きを見守っていたアルレイシアは、怒られているウィルトゥースよりも怒っているアストラスのために、助け舟を出すことを決めた。
「アストラス殿。そういえば、アストラス殿はウィルに何かご用事がおありになったから、ここにいらっしゃったのではないのですか?」
声を掛けられたアストラスは、アルレイシアが口を挟んだことに一瞬だけ僅かに驚いた顔をしたものの、彼女の言葉に当初の目的を思い出したのか、すぐに表情を引き締めて頷いた。そして、それ以上小言を続けることを止め、再び淡々とした無表情に戻る。それでもウィルトゥースを見つめる視線の鋭さが、彼の機嫌を表しているようだった。
「すっかり話が脱線してしまい、申し訳ない。ウィルトゥース隊長、今日お呼び出ししたのは、来週行われる演習の軍事費の件で――――」
聞こえてきた内容に、アルレイシアは自分が聞いていいものか判断がつかず、声が届かない距離まで離れることにした。別に立ち去っても良かったのだが、どうせなら先日の件をもう一度、きちんとアストラスに礼を言いたいと思って留まった。
ウィルトゥースが声を掛けてくる前までそうしていたように、遊歩道沿いに咲き誇る春の花を眺めながら、話が終わるのを待っていたが、いつの間にか花を見ることに熱心になりすぎていたらしい。気がつくと、さっきまで風に運ばれて途切れ途切れに聞こえてきていた二人の話し声が、いつの間にか止んでいた。
(あら、話が終わってしまったのかしら)
慌てて花に寄せていた顔を上げ、振り向いた瞬間、驚きに身を固まらせた。
「ああ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたか?」
全く気配を感じさせないまま、まるで付き従う影のように一定の距離を置いて、アストラスが彼女を見つめていたのだ。アルレイシアが体を強張らせたことに気付いた彼は、申し訳なさそうに小さな笑みを浮かべ、謝罪の言葉を口にしながらゆっくりと近付いてきた。
「あ、いいえ。気配がしなかったので、少し驚いただけです。ずっと見ていらしたんですか?」
言い訳を口にしながら、言葉にして初めて見られていたことに羞恥を感じた。白い頬が僅かに朱を刷く。そのつもりはなかったが、口調に責めるものが混じったのか、アストラスは申し訳なさそうに再び謝罪した。
「申し訳ありません。随分熱心にご覧になっていたようなので、お声を掛けるのも憚られまして」
「いえ、謝っていただく必要はありませんわ。責めるつもりではありませんでした。ただ、少し驚いただけで――――」
慌てて首を振れば、アストラスはほっとしたように目元を僅かに緩めた。騎士らしい毅然とした強い眼差しが柔らかさを帯び、それだけで嘗ての部下たちに揶揄される鉄面皮が崩れる。向けられる眼差しの柔らかさに、何とはなしに居心地の悪さを感じてしまい、アルレイシアは見つめてくる翡翠の瞳を直視することが出来なかった。
(何だか――――)
身分ある淑女でありながら学者などをしている変わり者、と異性から揶揄や嘲笑の混じった視線を向けられることには慣れていた。ファーブラー公爵家の相続人として値踏みされることも、嫌でも我慢せざるを得なかった。だが、今翡翠の瞳が向けてくるような真摯な視線を向けられたことは終ぞなかったために、何よりもまずアルレイシアが感じたのは、慣れないことによる戸惑いだった。
真っ直ぐな瞳に浮かぶのは、純粋に彼女に対する称賛や敬慕――――そして、瞳の奥にある光は、彼女の知らないもの。それは父や妹たちが彼女に向けるようなある種の情愛に似ていて、けれど、明らかにそれとは異なっている。それよりもなお深く、熱を覚えるようなものだった。見返す自身の瞳が躊躇いに揺れていることを、アルレイシアは自覚せずにはいられなかった。
「今日は、どちらかへお出かけですか?」
アルレイシアが手に持つバスケットに目をやり、小さく笑みを浮かべたアストラスが尋ねた。その笑みに、向けられていた眼差しに呪縛されたように動けなかったアルレイシアは、ようやくほっと肩の力を抜いた。そして彼女も少し強張りながらも春の陽に溶ける様な、柔らかな笑顔を向ける。
「ええ、足も大分良くなりましたし、少し気分転換に――――あ、先日は本当にありがとうございました。おかげさまで足の怪我もすっかり良くなりましたわ」
アストラスの問いに答えたところで、自分がここに留まっていた理由を思い出し、アルレイシアは慌てて姿勢を正すと丁寧に礼を述べた。その言葉に、アストラスは安心したように微笑む。
「それは良かった。怪我の具合は気になっていたのですが、突然お訪ねするのもずうずうしいかと思っていたところでした。良くなられたのなら、何よりです」
「ありがとうございます、アストラス殿のおかげですわ。あの後侍医にも見せたのですけれど、無理をしなかったことと、最初の手当てが良かった、と言われました。それで、あの――――お礼の、件なのですけれど」
「はい」
僅かに表情を改めて真剣な眼差しを向けてくるアストラスに、アルレイシアはやはり戸惑いを感じる。その眼差しは決して不躾ではないのに、とても強くて。真っ直ぐに見つめ返すと、自然と頬が熱くなるような気がした。それを誤魔化すように小さく咳払いをして雑念を追い払うと、何故か無意識に力が入ってしまう頬を宥めすかして笑顔を浮かべる。
「足の怪我のおかげ、と言ってはなんですけれど、仕掛かっていた論文が書き終わりましたの。ですから、しばらくは仕事はそれほど忙しくありませんので、アストラス殿のご都合の良い時に、『お礼』をさせていただければと思っているのですが、ご都合はいかがでしょう?」
「私の都合で、ですか? 本当によろしいのですか?」
「ええ、構いません」
にこりと頷けば、気遣う素振りを見せたアストラスも納得したように頷いた。そして鋭角的な線を持つ顎に手をあて、僅かに考える素振りをする。
「それでは四日後、火の二日ではいかがでしょうか。その日は仕事が休息日になっておりますので。急な話で申し訳ありませんが」
言いながら、それでも元々表情の乏しい顔にはあまり変化は見られない。それでも確かにその口調は申し訳なさそうに彼女を気遣うものだった。
(それでも、鉄面皮などと連呼される程ではないのではないかしら?)
先日からのやり取りで幾度か耳にした目の前の青年に対する周囲の評価に、アルレイシアは内心首を傾げた。確かに表情はそれほど多くないが、それでも彼女が接触した僅かな時間の間に、幾度もその無表情が変わるのを目にしている。その中でも一番多いのはごく控えめなものながらも柔らかい笑顔だ。今も、それほどはっきりとした変化ではないものの、その真っ直ぐな翡翠の瞳には彼女を気遣う彩がしっかりと浮かんでいる。
そんなことを頭の片隅で考えながらも、素早く自分の予定を思い返し――――四日後に特に問題がないことを確認して、アストラスに頷き返した。
「分かりましたわ。四日後でしたら大丈夫です。それではお時間は……お菓子をご用意すると約束しましたものね。昼の四刻に研究院までお越しいただけますか?」
「分かりました。研究院の方でよろしいのですか?」
アルレイシアの了承を受けて頬を緩めたアストラスが、柔らかな笑みとともに頷いた。だが、すぐに少し不思議そうに付け足された言葉に、アルレイシアは苦笑して肩を竦めた。
「ええ。確かに王都にはファーブラー家の邸がありますけれど、私、そちらにはほとんど帰らないのです。研究院に部屋を貰ってからはそちらに入り浸りで。先ほども、私がちっとも家に帰ってこないと妹が苦情を言っていたと、ウィルに言われてしまいました」
「……それほど帰られていないのですか?」
切れ長の瞳が驚いたように見開かれ、その眼差しにアルレイシアはばつが悪そうに苦笑した。
「ええ、まあ。かれこれ半年ほど」
その答えに、今度こそアストラスは言葉を失ったように絶句した。そんな青年の様子に、きまり悪げに視線を彷徨わせたが、アルレイシアは結局笑って誤魔化すことにする。
アストラスの反応も無理はなかった。アルレイシアが本来住んでいるファーブラー公爵邸は王都の一等地、王宮からも馬車で四半刻(約三十分)もしないところに建っているのだ。帰ろうと思えば、帰るのになんら支障になるものすらない距離だった。そんなところにある家に半年も帰らずにいるとは、驚かれても仕方がないだろう。
(私だって帰りたくなくて帰らないわけじゃないのだけれど)
内心でそう言い訳していると、それを察したようにアストラスが口を開いた。
「なるほど、噂には伺っていましたが、本当に研究院を出ることすらままならないご生活をされていたのですね。ですが、これからはそのご心配もなくなるでしょうから、近々帰って差し上げたらいかがです?」
「え、ええ――――それは、そのつもりですけれど。あの、ご存知なのですか?」
驚きに目を瞬いてアストラスを見返せば、彼は僅かに苦笑するように表情を緩めた。
「以前にも申し上げたと思いますが……貴女方ご姉妹は、ご自分たちで思っておられる以上にご高名なのですよ。ファーブラー女伯爵への求婚者の列と、彼らの貴女にとっては傍迷惑以外のなにものでもないだろう行為は、王宮では語り草でしたから」
「まあ……」
咄嗟に何と答えるべきか言葉に詰まったアルレイシアに構わず、アストラスは柔らかな表情のまま手を伸ばす。何をするつもりか分からずに、きょとんと行方を見守ったその手が、春の風によってほつれたアルレイシアの髪にそっと触れた。何の前触れもなく唐突に触れてきた手に思わず固まったアルレイシアに構わず、長い指を持つ大きな手はするりと彼女の髪を撫でるように滑り、離れていく。
頬に熱が上るのを感じながら、離れていく手を追いかけるように視線で追うと、その指先に摘まれているものに気づいた。少し大ぶりの、白い花びら。
「あっ――――」
「風で飛んできたのでしょう」
力の抜けた指先から、再び風が花びらを浚っていく。それを見るとはなしに見送りながら、柔らかい表情とは裏腹に彼女の表情を見つめてくる翡翠の瞳に感じる、ひたむきさにも似た何かに戸惑う。背の高い青年の顔を直視することが出来ずに視線を彷徨わせれば、花びらを逃がした指先が、再び風になびくアルレイシアの髪の先を捉えた。