アルレイシア
<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
ラウダトゥール(ラウダ):ジール王国王太子。シアの乳兄弟。出張ってますが脇役。
レイディアル:ファーブラー公爵。シアの父親。
シェレスティーア:ファーブラー公爵夫人。シアの母親、故人。
ユースティティア:シアの上の妹。
フェレンティーア:シアの下の妹。
ジール王国内でも有数の領地を持つファーブラー公爵家は元々、四代前の国王の弟を祖に持つ家系であった。その王族に連なる尊い血筋と代々の当主の有能さで、代を重ねる毎に着実に富と名声を積み重ねてきていた。
当代のファーブラー家当主ファーブラー公爵レイディアルもまた、その先祖から受継いだ地位にのみ満足せず国のために尽くし、現在の国王から最も信任の厚い貴族の中の貴族と言われていた。
ジール王家の血を引くことを現す濃い金髪と紫紺の瞳を持つ、未だ若かりし頃を彷彿とさせる年齢よりも若々しい美貌。壮年を迎えてもなお、衰えることを知らない鍛えられた背の高い体躯。明晰な頭脳、巧みな話術。人望もあり、宰相と共に国王の片腕の有能な大臣として、多くの人の羨望と尊敬を集めていた。
しかし、そんな彼にも抱えている問題はあった。彼自身がそれを問題と思っているか否かは別として、周囲の大多数の人間はそう認識していた。
国内で王家に次いで高貴な血筋を誇るファーブラー公爵家。そんな公爵家の問題といえば、跡取り問題であった。
現公爵レイディアル自身は先代公爵の一粒種の嫡子だったが、彼には息子がいなかった。彼はかつては大層な愛妻家で知られており、妻を亡くして既に十年以上が経っていても、後妻を迎える気はないと公言して憚らない。
そして彼には故ファーブラー公爵夫人シェレスティーアとの間に三人の娘がいた。否、三人の娘しかいなかった。
ジール王国では女性にも相続権は存在しているため、公爵家の相続自体はできないことはない。だが、問題はジール王国では女性が相続人である場合、結婚しなければ爵位も財産も相続することが出来ないということであった。
結婚しなければ相続できないとはいえ、国内でも一、二を争う裕福で高貴な血筋の相続人である女性。男性から見れば、彼女と結婚すればその富と名誉が手に入るのだ。
そのため、彼女は多くの貴族の次男以下の成人男性より、最も妻にしたい(正確に言えば婿になりたい)女性として日々数多のアプローチを受けていた。
さて。そんなジール国内で最も妻にしたい女性であるファーブラー公爵家の女相続人、ファーブラー公爵の長女は名をファーブラー女伯爵アルレイシア・アルテース・ドミナ・ファーブラーと言った。
彼女の母はジール王国の現在の王太子が誕生した際、彼の乳母を務めていたため、彼女自身も王太子の乳兄弟として王族とも近しく育ってきた。
またジール王国では女性にはあまり政治への関与が認められておらず、名家の子女といえどもそれは変わりなかった。そのため、彼女は父のように国政に参加することはせず、王宮に併設されている王立研究院の研究者となった。要するに、学者である。
アルレイシアはその職業に相応しく勤勉かつ真面目な性格であり、日々研究院の与えられた自室に籠もって、研究と趣味と実益を兼ねた読書に明け暮れていた。
王立研究院にはそんなアルレイシア目当てにかつては多くの求婚者が訪れていたが、在籍する研究員から研究の邪魔だとの苦情が相次いだため、現在は王太子の命で正式な許可証を持つものしか立ち入れないようになっている。それを良いことに、アルレイシアはますます研究院に入り浸るようになっていた。しかし敵も然ることながら、あの手この手でアルレイシアの気を引こうと、彼女にしてみれば傍迷惑でしかない努力を続けていたのだった。
「やあ、相変らず凄い花の量だね、シア」
研究院に出勤してきてすぐ、自室の机に山積みにされたものを親の仇のように睨みつけていたアルレイシアの耳に、良く馴染んだ実に耳に心地良い美声が届いた。笑いを含んでいても、その艶やかな天上の音楽のような声音が損なわれることはない。
ついさっき入ってきたばかりの入り口を振り返れば、そこには人をからかうような楽しげな笑みを浮かべた、その美声を裏切らない背の高い豪奢な美貌の青年が佇んでいた。
「ラウダ」
ため息混じりに名を呼べば、青年は断ることもなく悠々とした足取りで室内に入ってきた。貴重な書物が痛むことを考慮して、必要最低限の光量しかない薄暗い室内でも、その青年の光輝くばかりの美貌は見劣りすることなどない。
形の良い額にかかる少し長めの豪華な純金のごとく美しい髪。すっきりとした細い輪郭。美しい金色の弧を描く柳眉の下、長い睫を持つ涼やかな切れ長の目は、晴れ渡った夏の暮れゆく夜空のように星を浮かべた濃い瑠璃色。すっと通った鼻筋、少し薄いが形の良い唇。白い大理石のような肌。口元にある小さな黒子でさえ、彼の美貌を際立たせこそすれ、損なうことはなかった。
光の少ない室内であるにもかかわらず、彼が一歩歩くごとにまるできらきらと光が散るような錯覚さえ覚えさせるほどの美しさ。
この美貌を誇る青年こそ、アルレイシアの乳兄弟でありこのジール王国の王太子、ラウダトゥール・プロビタス・レーグム・ジーウェンダールだった。
「我が敬愛なる乳兄弟殿は、今日もご機嫌斜めのようだね。外を見たかい、シア。そんな陰気な顔は相応しくない良い天気だよ」
からかい混じりの言葉に笑顔を返すこともなく、アルレイシアは頭痛を覚えるようにこめかみを押さえるだけだ。その眼鏡の奥の目は不愉快そうに、机の上の罪のない花束を見つめている。
「残念ながら、あなたの言うような美しい空を見たのなんて、どれほど前のことか思い出せないぐらいよ、ラウダ。もういい加減、研究院への私用の贈り物は、受け付けないようにしてくれないかしら。毎日毎日来るたびに憂鬱で仕方がないのよ」
「花に罪はないよ、シア」
置かれている花束から目に留まった一輪をその端整な指で抜き取り、ラウダトゥールはその花にそっと顔を寄せた。甘い花の香りが鼻腔を満たし、満足げに笑みを浮かべる。そしてその花を流れるように優雅な動作でアルレイシアに差し出した。
実に様になるその美しい仕種に、見慣れているとは言え思わず目を奪われたアルレイシアは、やつあたりも兼ねて少し乱暴に差し出された花を受け取った。向けられるアルレイシアの険しい視線などものともせず、『光輝なるジールの珠玉の君』ことラウダトゥール王太子殿下は、その美しく整った顔にまさに光り輝くばかりの笑顔を浮かべた。
対するアルレイシアはと言えば、一つにまとめてひっつめた長い髪は上の妹ユースティティアや父、目の前の王太子のように美しい金髪でも、下の妹フェレンティーアや亡母のような鮮やかに印象的な赤毛でもない、見栄えのしないオレンジがかった朱色をしている。幼い頃に周囲の人間に嘲笑を込めて人参色だと揶揄されて以来、彼女は自分の髪の色が好きではなかった。
瞳の色も、青なのか紫なのか判別のつかないぱっとしない色だと本人は思っている。いっそユースティティアのようにはっきりと濃い紫紺色ならば、髪の色との兼ね合いだってまだましだったかもしれない、と彼女は常々自分の容姿の不器量さにため息をついていた。そのため、目が悪くなってからはこれ幸いと、目の色を隠す意味もこめて分厚い眼鏡を愛用していた。最も、それがただでさえ十人並み以下の容姿を、更に不器量に見せている自覚はあったが。
また、体型もユースティティアのように細くとも豊満で女らしい体でも、フェレンティーアのように華奢でいてしなやかな若木のような体でもない。痩せてはいるが女性にしては背が高く骨太で、それでいて痩せた体に見合って胸も腰周りも貧相だった。そのくせ肩幅は背の高さに合わせて普通の女性よりも広く、妙に体格が良く見えるのも見苦しかった。
肌は白いがそれは研究のための引き篭もりで不摂生な生活が祟って、白いを通り越して蒼白くなっており、不健康そうな印象ばかり与える。
ようするに、ジール王国一妻にしたい女性と言われているアルレイシア・アルテース・ドミナ・ファーブラーは、自分が実に美しくない女であると認識していた。それこそ莫大な財産でもない限り、到底男性が妻にしたいなどと考えるはずもない女であることを。
彼女はその事実を嘲りに満ちた視線と揶揄を含む潜められた声、目の前では阿るように笑いながら陰で囁かれる悪意ある言葉によって、今までに何度も突き刺される程に思い知らされてきたのだ。
壮年を超えてなお、美丈夫と名高い父。今は亡き美貌で知られた母。社交界の名花と謳われる妹ユースティティア。亡き母の面影を余りあるほどに受継ぎ、それでいて更に父の凛とした気高い雰囲気と知性深い眼差しまでをも持ち合わせた末の妹フェレンティーア。
このように恵まれすぎるほどに恵まれた人たちと血がつながっていたりしなければ、アルレイシアとてここまで蔑まれることもなかったかもしれない。けれど現に、アルレイシアは彼らと同じ血を分けた家族であり、それ故幼き頃から秀麗な家族の中でただ一人、物の数にも入らない存在として周囲に扱われてきたのだった。
もちろん、家族が彼女をそんな扱いをすることはなかった。父も母も娘たちに皆平等に愛情を注いでくれたし、幼馴染で兄弟のような王子や王女もその両親である国王や王妃も、彼女たちの個性をそれぞれ認め、一人の人間として尊重してくれた。妹たちもアルレイシアのことを優秀な姉として尊敬し、慕ってくれていた。
それだけでなく、アルレイシアが人間として尊敬の念を抱く相手は皆、アルレイシアのことを認めてくれている。それを知るからこそ、彼女は殊更に卑屈になることなく、顔を上げて生きてくることができた。まだ周囲の人間の評価が大きかった幼い頃に受けた傷と、味わわされた屈辱を忘れることは出来なくとも、それを己が秀でていると思う能力を磨くことで克服してきたのだ。
だからこそ、彼女にとって今のこの状況は不本意で仕方がなかった。
かつて自分を嘲笑っていた者たちが手のひらを返したように、思ってもいない美辞麗句を並べ立てた手紙を送りつけ、似合いもしない花やら宝石やらを贈りつけてくる。何かの拍子に顔を合わせれば、その目は変わらず彼女の不器量さを嘲っているのに、口では甘い砂糖の如き甘言を垂れ流す。
それもこれも全て、彼女がファーブラー公爵家の跡取りだからだ。
(いっそはっきり言えば良いのよ。女として妻にするには不満はあるけれど、お前の財産は魅力だから、夫になってやるって)
そのほうが、どれほど快いか知れない。思ってもいない褒め言葉を口にし、心の中で彼女を嘲笑う人間よりは、そういう人間の方が少なくともまだ人として信じられるだろうと思っていた。
考えれば考えるほど腹が立ち、アルレイシアはつかつかと窓辺に歩み寄る。勢い良く窓を開け、その勢いのまま手に持った花を窓から投げ捨てた。そしてその剣呑な目が机に残された花束へと視線を移した。花に罪はないと分かっていても、見るだけで不愉快になりそうなこんなものを手元に置いておく気は更々なかった。
厳しく細めた瞳でラウダトゥールを見やると、ゆっくりと腕を組んで顎を逸らす。並の男性では釣り合わないぐらいに背が高いアルレイシアは、そういう態度を取ると自分がどれだけ威圧的に見えるか自覚があった。そうは言っても、彼女と釣り合いが取れるほど遙かに背の高いラウダトゥールに対しては、効果がないことは分かっていたが、怒っていることを知らしめることはできる。
事実、そうして睥睨されたラウダトゥールは彼女の怒りを察し、浮かべていた楽しげな笑みを苦笑に変えて軽く肩を竦めて見せた。そうしてゆっくりと首を横に振った。サラサラと流れる髪から、まるで光の粒子が零れるような錯覚。彼はどこかおどけた仕種さえ、とても絵になる男だった。
「シア……君が腹を立てる気持ちは理解できるつもりだよ。けれど、僕がしてあげられるのはここまでだ。これで贈り物まで禁じたら、君は本当に研究院から一歩も出られなくなる。本当にこの状況を早く終わらせたいのなら、一刻も早く正式に婚約者を決めるべきだ」
正論に思わず唇を噛む。それでも今日は引くことは出来なかった。こんなくだらないやり取りに、彼女はもういい加減、本当にうんざりしていたのだ。
だからアルレイシアは目の前の美しい乳兄弟の顔を見上げて、ふと思いついた言葉を口にした。最も、冷静になって後から考えれば、思いつきと言うより半ば投げやりと言った方が正しい考えではあったけれど。
「なら、あなたが決めてちょうだい」
「は?」
青い双眸が見開かれ、困惑の彩を映してその青が更に濃くなる。唇から零れた他の人間が口にしたなら間抜けに聞こえる声も、彼ならばそう感じさせない。けれど、そんな青年の美貌にも既に長すぎるほどの付き合いで耐性のある彼女は、怯むことなくむしろにっこりと不敵な笑みを向けた。
「私はこんなくだらないことに煩わされるのはいい加減うんざり。将来のファーブラー女公爵の夫だもの、あなたにだって十分関係のある話でしょう。だからいっそ、あなたが適当な相手を選んでちょうだい。私は特に想う相手がいるわけでもなし、結婚しても研究を続けさせてくれる相手ならば、誰でもいいわ。そうでなければ、あなたからお父様に話をして後添えを迎えるように言って。お父様だってまだお若いもの。妻さえいれば今からだって男子の跡取りを望むことが出来なくはないはずだわ」
「シア、君ねぇ……」
呆れたような呟きにも構うことなく、彼女は言いたいことを言い終えると、満足したように頷いて机の上の荷物(花束)を手にした。それをそのまま窓の外へと捨てる。彼女の部屋の窓の外にはそのための穴が掘られており、そこにはここ数日で届けられた花達が積み重なっていた。
手紙は封を切ることなくくずかごへと捨てられ、綺麗になった机に彼女は満足げににんまりと微笑んだ。そして、未だに何事かを思案するような表情で立ち尽くしている青年をくるりと振り返り、部屋の扉を指差した。
「さあ、話は終わりよラウダトゥール王太子殿下。あなたもあなたの仕事があるでしょう。邪魔だからさっさと出て行ってくれないかしら――――ああ、私の婚約者が決まったら連絡をちょうだい。面倒だけど、最低限の義務は果たすわ。それじゃあね」
ひらひらと手を振って取り付く島もなく言い捨てると、彼女は本棚から数冊の本を取り出し、机の上の丸めていた羊皮紙を広げ始めた。
仕事を始めてしまったアルレイシアには何を言っても無駄なことを、今までの経験から身を持って知っているラウダトゥールは、それでも暫し往生際悪く彼女の背中を見ていたが、やがて諦めのため息を一つ零して踵を返した。部屋の出入り口でもう一度だけ、彼は背筋の伸びたアルレイシアの背中を振り返る。数ヶ月違いで産まれた乳兄弟。ラウダトゥールにとって、彼女は正に姉であり妹である大切な存在だった。
(婚約者、ね)
確かにアルレイシアの判断は彼女にとっては悪くはないだろう。彼女を大切に思うラウダトゥールが、彼女を不幸にするような結婚を強いる訳がないと、信じるからこその言葉だと分かっている。
そうは言っても体良く面倒を押し付けられたことに変わりはない。やれやれと苦笑して、今度こそ部屋を後にした。
静かな研究院の廊下を歩きながら、さてこれからどうするべきか、とラウダトゥールは優秀な頭脳を回転させ始めていた。