冬の天使
大学で勉強を終え、スーパーで食料を買い込んだ俺は帰路に付いていた。
十二月となった北海道はすっかり冬模様と化している。寒空から降り注ぐ白い粒は、どこか天使の羽を彷彿とさせた。雲の隙間から見える月から差し込む明かりは、ただ周囲を照らしている。
ほうっと息を吐くと真っ白なカーテンが視界に掛かる。この、少しぼやける景色が好きなんだ。
俺が住んでいるアパートは築四年、五階建て、オートロック付きの1LDKだ。管理人も常駐していて、防犯設備も充実している。
男の一人暮らしには贅沢だと思うが、時世は物騒になって来ている。実際に近隣では観光に来た外国人のトラブルが多発していると聞いた。
防犯には神経質なくらいがちょうど良いのかもしれない。
暗証番号を入れて自動ドアを開けると、エレベーターに乗り込む。最上階の五階に辿り着くと異変に気が付いた。
「……ほぅ」
天使がいた。
違う、隣人の女子大生だ。
だがそう見間違っても仕方が無いだろう。
もこもこと触り心地の良さそうな真っ白い外套に身を包み、黒白のボーダー柄のシャツ、黒いズボンと洒落たスニーカーを履いている。この寒空の下に長い時間晒されていたのか、寒さで赤くなった掌にほうっと白い息を吐いている。
思わず見惚れていると、彼女はちらりと顔を動かして俺に気付いた様だ。
「こんばんは」
「あ、こんばんはっ」
突然の事に声が裏返り、羞恥心で顔が赤くなった。
普段、女子と会話する機会が無いので動揺してしまう。
しかし、こんな挨拶程度以上の事がこの後、起こった。
「あの、少しの間、家に入れて貰えませんか?」
「へぁ?」
ん? うん? 今、何と言った?
心の中は完全に混乱状態と化す。
彼女はそれからぽつりぽつりとどうして今、こんな事を言ったのかを語り出した。
どうやら彼女の部屋の扉が電気関係のトラブルで開かなくなってしまったらしい。管理人に電話して確認したところ、今日中に業者が直しに来てくれるらしいが、後四、五時間もかかってしまうらしいのだ。
近くに頼れる友人もおらず、途方に暮れていたところに俺が来た……。という事らしい。
「えっと、じゃあ……。入る?」
俺の提案に、こくりと頷く彼女。
冷静を装って「今、鍵開けるから」と伝えて扉にパスワードを打ち込んでいく最中、鼓動が激しく高鳴っていた。
(ん? ん? んんん!?)
動揺。困惑。
何故、こうなったのかと記憶を掘り起こす。
ただ、この状況が自分にとってそんなに悪い事では無いと分かる。
普段から女性と話す機会が無く、半女性恐怖症みたいになっていた節がある。この機会に女性との会話をマスターして、人生初の彼女を手に入れられるんじゃないか!? と邪な考えを巡らせた。
部屋の中に彼女を招き入れる。
1LDKの俺の部屋は、隣に住まう彼女の部屋と内装も変わらないだろう。
集金が嫌でテレビは設置しておらず、代わりに巨大な本棚を部屋に置いてある。漫画やラノベが好きで大量に集め、今では三百冊を軽く超えているほどだ。カーペットを敷いてその上に小さなテーブル、ソファの代わりに人を駄目にするクッションを二つほど置いてある。
まあ、シンプルな内装だとは思うがな。
「適当に座っていて。何か飲み物出すから」
「はい」
彼女を座らせて、買って来たものを冷蔵庫に入れながら思考を巡らせる。
彼女は長時間、外にいたのだ。相当身体を冷やしているはずだ。
何か暖かい飲み物を出してあげたい。
そうなって、目に入って来たものを手に取る。
……これで良いのか?
いや、これ以外に暖かい飲み物なんてお湯くらいしか無いから選択肢が二択になってしまう。
味が付いている事は間違いないが、そもそも飲み物と呼んで大丈夫か?
多分駄目だな。
だが、お湯か……。
ううん……。
……。
…………。
………………。
置かれた食器の中に入る液体を見た彼女は目を瞬かせて、言った。
「お味噌汁……?」
「いや、その反応になるのも分かる」
けど、言い訳させて下さい。
「えっと、俺和食派だったからさ……」
「っ、ぷ。そうなんだ。私も洋食より和食の方が好きかも」
「そ、それは良かった」
美味しそうにちゅるちゅるとお味噌汁を啜る彼女を見てから、俺も自分の分の味噌汁を啜った。
味噌汁を飲み終わった後もまだ業者が来るという時間までかなり余裕があった。
無言の時間が続く。何か会話をしないと。そう思い、とりあえず質問から始めようと口を開こうとすると――――。
「あっ、この漫画。最近流行ってるやつだよね?」
「え、ああ。うん。そうだな。流行りの乗じて買ってみたんだけど」
「ふうん」
彼女が本棚に手を伸ばした先にあったのは、アニメ化したと同時に爆発的に有名になった某少年漫画である。漫画の絵柄はお世辞にも上手とは呼べないが、その細かな作品設定とキャラクターの個性の強さで固定ファンを得ていると言ってもいい。まあ何が言いたいかと言えば、面白い作品という事だ。
彼女は何気なく漫画の1頁目を開き、そのまま2頁目、3頁目と漫画の世界に意識を吸い込まれて行った。
そんな彼女の姿を見て、何か話さないと!と義務感に動かされていた自分が馬鹿らしくなっていった。
自分の好きな漫画を彼女が呼んでくれている。楽しんで読んでくれているのだろう。
それだけでいいじゃ無いか。
わざわざ俺が話しかけて彼女の邪魔をする事も無い。
俺も自分が読んでいた途中のラノベを手に取り、開いた。
時折、家の近くにある線路の上を電車が通る音が聞こえる程度の、静かな部屋に漫画の頁を捲る音だけが響く。
その時間は不思議と心地よくて、一人でいるよりも、誰かが傍にいると思うだけで物語を読んで心弾んだ。何かを話そうと義務感に背中を叩かれている時とは違い、二人で同じ部屋にいるという事実は変わらないのに自然体でいる事が出来たんだ。
いつの間にか業者がやって来る時間に近付き、自然と彼女は玄関に立っていた。
「今日はありがとうございました」
「いや、全然だよ」
「今度、御礼の品を……」
「そんなの構わないから。鍵、直ると良いな」
「はい。では、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
玄関が閉まる。
部屋に戻り、自分の定位置に戻って途中まで読んでいたラノベを読む。
しかし、視線がさっきまで彼女が座っていた位置に向いてしまう。
たった数時間、そこに彼女がいただけなのに、ぽっかりと穴が空いた様に寂しく感じてしまう自分がいた。
いつも通りの日常に戻っただけのはずなのに、何故か読書に集中できない日々が続いた。
その週の土曜日。タッパーに詰められた筑前煮を持った彼女が訪ねて来た。
「こんにちは」
「えっと、こんにちは」
「これ、御礼です。和食が好きだって言っていたので」
「あ、ありがとう。大事に食べるよ」
「それからこの前の続き、読ませて貰っても良いですか?」
「っ、ああ。勿論良いよ」
二人の物語が続くのか、俺は分からない。
ただ次は彼女の名前を聞くところから、初めて見ようと思うんだ――――。
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