受験戦争に負けた人たち
***最初の授業***
教室に先生が、
「こんちはー」
と言いながら入ってきた。
背が小さく、短髪で、DIESELのTシャツを着ている。
第一印象は、普通の男性という感じだ。
チャイムが鳴った。
教室は、これから約一年間、浪人生活を送る生徒たちがギュウギュウに詰まっていて、サウナのように蒸し暑い。
先生は、教卓に座り、教室を眺めている。
僕を含めた教室中のみんなが先生の第一声を待つ。
「はい、化学Ⅱを担当します、豊川です。よろしくー。授業の前にちょっとお話があります」
先生は、にこにこしている。
これは、アタリの先生かもしれない。
「君たちは、負け犬の集まりだよね?」
教室の空気が、サッと凍り付く。
「ん?だってそうでしょ?受験戦争で負けたんだよね?だからここにいる」
誰もピクリとも動かなくなった。
「君たちは、高いお金を予備校にはらって、来年再チャレンジするために力をつけに来ている。でも本当に上手くいくかな?一年勉強しても、どこにも受からないかもしれない」
誰だ。誰がこんなひどい言葉を、僕たちに投げかけているのだ。
机に置いていた手が汗ばんでいるのがわかる。
「おお。みんな、すごい怖い顔して、俺をにらんでる」
豊川は、そう言いながら、ケタケタ笑っている。
「君たちが、なんで負け犬か教えてあげよう」
少し声のトーンが変化した。
「メタ認知力を鍛えてないからだ」
メタ認知力?
「今の自分に何が足りないか、を考える力がない」
急に何を言ってるんだこの人は。
開始早々、浪人生達の傷口を豪快にえぐり、よく分からない話をしている。
豊川は、続けて言う。
「メタ認知力を鍛えないと、一年後また同じ結果になっちゃうよー」
負け犬という言葉が、頭に木霊して、話が入ってこない。
「まあ、この教室も最初の授業だからギュウギュウだけど、2週間後にはチラホラ席が開き始めます」
嫌だ、そんな現実聞きたくない。
「頑張るか、頑張らないかは、皆さん次第なので、メタ認知力をしっかり鍛えながら、リベンジに向けて勉強してくださいねー」
教室には、この先生やばい、という音のない心の声が飛び交っている。
「よし、雑談はこの辺にして、さっそく始めよう。みんなもそっちの方がいいでしょ?もう、耳障りな話聞きたくないもんねー」
豊川は、ニコニコしながら黒板へ向かう。
僕達の浪人生活がはじまった。
あと1年、リベンジに向かって少しずつ勉強していけばいい。
そしたら、きっと第一志望に受かるだろう。
そんな甘い気持ちが、今、打ち砕かれた。
***最後の授業***
僕は、メタ認知力を鍛えることはできただろうか。
あの衝撃的な最初の授業のすぐあとに、メタ認知力について自分で調べた。
無知の知とも言うらしい。
今思うと、憎たらしいが、たしかに豊川の言う通りだった。
自分を客観的に見ること。
自分の認知の範囲を知ること。
これが、いかに大事かを、この1年過ごして痛感した。
人間が思考を重ねた挙句、最後に対面するのは、自分自身なのだ。
豊川は、無機分野の最後の総復習をしている。
「はい、ここをこう変換しまーす。これはこの前やった計算方法ね」
もうこの人の授業を聞くのも最後か。
授業の参加人数は、最初の授業と比べて、目に見えるほど減ったのがわかる。
これも、豊川の言う通りだった。
なぜか、少し泣きそうになる。
ここまで、頑張ってこれたのは、この人のおかげかもしれない。
毎週、僕たちに皮肉ばっか言っていたこの人に、知らず知らず助けられていたのではないか。
理由はわからないが、なぜかそう思ってしまった。
「俺は先生じゃなくて、チョーク芸人だよー。チョークをもってペラペラ喋ってる人。君たちにはそう見えてるよね?」
豊川は、こちらの反応を伺っている。
「だってそうでしょ?俺が解くコツとか教えても、結局模試とかでは、そのコツを使わないじゃん。それなのに、成績が上がりませんとかいう相談をしにくる」
また、ニコニコしている。
「教えたこと使ってくれないなら、俺は先生じゃなくて、ただ話してるだけの芸人だよねーって」
最後の授業も、豊川は、変わらず皮肉を言っている。
「よし、じゃあ、復習はここまで。皆さん本番も頑張ってくださいー。おつかれしたー」
豊川は、初めて、深く一礼した。
この一礼は、お疲れ様の意味を込めた一礼じゃない。
授業料を払ってくれてありがとう、の意味を込めた一礼だろう。
それでもいい。
この先生は、世の中は甘くないことを教えてくれたんだ。
そう。
世の中は、甘くない。
全て上手くはいかない。
でもそんな時こそ、自分を客観的に見る力が必要なんだ。
メタ認知力が。
ありがとうチョーク芸人。
教科書とノートを閉じて、シャーペンを筆箱にしまう。
よし、努力を成果に変えにいこう。