今夜、従魔は魔女のもの #2
足下でコツン、と小さな音が鳴った。視線を向けると、そこには僕が握っていたはずの短刀が落ちている。
「―――え?」
「貴女にはもう私は殺せないの。魔術だけじゃなくて、物理的にもできないのよ」
そんなバカなことが。口に出すよりも先に床に落ちた短刀を拾い上げて、もう一度突きつけようと―――
「だから無駄だって言っているでしょう?」
先ほどまでの笑みとは打って変わって呆れたような調子で彼女は言った。彼女の足下には拾い上げたはずの短刀がまたしても転がっている。
「理解できたかしら?」
すでに自分でも無駄だと理解しているにも関わらず、何度も短刀を手に取っては床に落とす、という行為を繰り返す。その余裕綽々の態度がやけに気に入らないからだろうか。誰かさんと同じ名前を名乗ったからだろうか。それとも誰かさんと同じような恰好をしているからだろうか。というか、その全てかもしれない。
「もう飽きたんだけど?」
すでに100回近く同じ事を繰り返したところで彼女は言った。その表情はウンザリといわんばかりのものだ。
「僕を解放してくれたら止めてやるけど?」
「……ほんの数ヶ月会わなかっただけで随分と横柄な態度になったわね?」
「コッチだって従順になる必要がないからね」
息を弾ませながら、すでに何度目か分からない短刀を拾い上げる。
「僕にはアンタの言う『ほんの数ヶ月前』の記憶が無いんだ。その時の僕がどう振る舞っていたのかは知らないけど、アンタの名前には覚えがある。それだけでこの嫌がらせを続けるには十分だよ」
「子犬の割に強がっちゃって。カワイイわね」
「僕をこんなにした張本人のくせに。『カワイイ』とか言うな!」
振り上げた腕から握力が無くなる。蹴り上げようと振りかぶった脚は縫い付けられたように床を強く踏む。今の自分に出来ることと言えば精々、歯がみすることぐらいだ。
「あら、そんなことまでもう知っているのね?」
「ブラ……知り合いから聞いたんだよ。アンタが天上界をメチャクチャにして僕をこんなナリにした、って事までな」
「……じゃあ、その知り合いから私がどうしてこうなったのかは聞いた?」
「聞いてないね。聞きたくもないし」
「それなら聞いておいた方が良いと思うわ。少なくとも貴女は」
「その話は僕じゃなくて天上界の奴らにでもしてくれよ」
「いいえ、私は貴女にこそ聞いてもらいたいのよ」
魔女が僕の腕を掴み上げた。抵抗がままならないのは刻まれた呪文のせいか、それともこの魔女が腕力ゴリラなのか。
「ちょ……暴力反対!」
「暴力?これはしつけよ。言うこと聞かないワンちゃんはお尻ペンペンです」
身長差もあって自由が利かない状態から、床板が砕けるほどの勢いで頭から叩きつけられる。
「コレ、お尻ペンペンのレベルじゃないだろ!訴えてやる……パワハラとかで」
悔し紛れに吐き捨てると、魔女は小さく鼻を鳴らした。
「前世でもそれぐらい強気になれれば人生楽だったでしょうね?」
「……そうかもね」
僕の前世を知っているというのは呪文以上に厄介だ。いちいち心の傷をつつかれるのは想像以上に辛いものがある。どうにかして反撃してやりたいが、その前にこちらの心が擦切れてしまいそうだ。
「あらヤダ、落ち込んじゃったの?」
「誰のせいだと思っているんだ!」
「イヤねぇ、似たもの同士じゃない。仲良くしましょ?」
「僕とアンタが?ジョークにしてはつまらないな」
「そう?その割には随分と笑顔だけど?」
「―――は?」
思わず自分の顔を触って確かめる。頬が引きつっている。口角が持ち上げられている。後頭部にも鈍い痛みがある。自分はどうやら笑っているらしい。だが、そんな自覚はなかった。コイツのつまらない冗談に無意識のうちに笑ったというのだろうか。
「信じられない、って顔をしているのね。なら……ほぉら」
魔女が嘲るようにして手鏡を取り出す。そこに映された自分の顔は確かに笑っていた。
「……僕に何をした?」
自分の顔を強引にもみほぐしてどうにか表情を元に戻そうとする。
「従属の契約よ。前のご主人よりもずっと強力なやつ」
魔女は僕に先ほどかけた呪文を指さした。
「貴女を『死の騎士』に覚醒させてしまえばこちらに靡くと思っていたんだけどね。そこは私の計算ミス、ってところかな。だからこの『魔女の鉄錠』を使わせてもらった、ってわけ」
魔女は悪びれる様子も無く言い切った。
「でも、それは貴女のためなのよ?」
意味が分からない。勝手に契約を上書きして、人を床にたたきつけておいて一体、どこが僕のためになるのだろうか。
「あら、まだ理解できていないみたいね。それなら……」
魔女は指をそっと僕の額に当てた。そのまま撫でるようにして指を滑らせる。
「『ほんの数ヶ月前の記憶』とやらを思い出してみましょうか?―――――」
頭を金槌で殴られたような衝撃が走った。もちろん実際に殴られたわけではない。だが、突如として脳内に流れ込んできた大量の情報にはそれだけの衝撃があった。目眩がして腰から崩れ落ちてしまう。
「ふふ、その顔からするとやっぱり貴女の記憶は意図的に封じられていたみたいね?大方、225893号あたりが私を捕らえるための純粋な戦力に加えようとした、ってところかしら?天上界も人手不足甚だしいみたいね。まあ、その原因は私にあるんだけど」
「な、なんで……」
それまで断片的にも思い出すことのなかった記憶。それらが全て昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。僕はあの夜、目の前の女性―――深淵の魔女と出会い、大いに心を乱された。そして死の騎士へと覚醒した。それらはブラッドが話していた通りのことだ。
だが、それから先のことはブラッドは話してくれなかった。魔女の言うとおり「話すとマズいと知っていて意図的に隠蔽した」のだろう。僕がミリッサやグエンやニクスにこの力を使い、自らの主であるエルナすら手にかけようとしていたことを。
「これで思い出したわよね?」
へたり込んだ僕の耳元に魔女が囁きかけた。
「言ったでしょう?貴女は私と同じこの世界に災厄をもたらす化身みたいなものなの。この世界のどこにも貴女を受け容れてくれる所なんてないのよ」
「そんな……わけ……」
否定しようと思っても、言葉になりきらない。心の内ではあの夜の言葉が絶えず繰り返されている。「魔物、化け物、裏切り者」と、容赦なく投げかけられてくる。
「人間たちだって気づいているわよ。誰も貴女を仲間だなんて思っちゃいない。だって所詮従魔なんですもの……」
ニヤニヤと笑う魔女を前にしても、混乱する頭では反論も出てこず、ただただ「ちが……ちがう……」しか出てこない。
「みんなもこう思っているわ。『所詮、従魔も魔物の一種』ってね。うわべでは仲間だと思わせておいて、危険な仕事は全部貴女任せ。独りぼっちの従魔はちょっと優しくしてあげるだけで逆らいもせずにホイホイ従うんだもの。魔獣だって討伐してくれるし、お金も貸してくれる。こんな都合の良い存在はないわよね!」
魔女が高笑いする。
「でもね、私も同じなのよ?」
「―――え?」
「225893号から聞いていないかしら?私は元々、天上界で神様の一人として働いていた、って」
「……聞いた」
「でも、私が神様という職業を投げ出した理由は聞いていないのよね?」
言葉にするのも億劫で、無言のまま頷く。
「実はね……天上界という所も所謂『ブラック企業』だったのよ!」




