今夜、従魔は魔女のもの #1
「ホラ……起きて……起きなさい」
まどろみの中で誰かの声が聞こえる。冬の日の朝に荒々しく毛布を剥ぎ取る母の怒声では無い、日だまりのように優しい呼び声だ。
「……ホラ、起きてお嬢ちゃん?」
「ううん……」
優しく身体を揺すられることすら、何だか心地よい。出来ればずっとこのままこうしていたい……。
「いいや……もう少しくらい寝させて……」
「起きなさい、お嬢ちゃん。起きないと……」
声がグッと近づいてくるのが分かった。耳元で囁かれるようなむず痒い感覚が、僕を徐々に覚醒へと誘っていく。
「―――会社に遅刻しちゃうわよ?」
「うわぁぁぁああああああ!!」
突然の台詞に心臓が跳ね上がった。眠気は一撃で吹き飛び、無意識のうちに身体は跳ね上がる。
「今何時だ!早く行かないと!今日中に仕上げないといけない仕事がある、の、にぃ……」
慌てて辺りを見回して、ようやく現実を認識する。そうだった、僕はもう会社員じゃない。というよりは最早、人間ですらない。しがない従魔にすぎないのだった。
だが、この世界で僕の事を会社員であったことを知っているのはニクスの他にはブラッドくらいだ。先ほどの声は、そのどちらでも無かった。あの声の主は誰なんだ。そもそもここはどこだ。宿でブラッドに危うく×××されそうになって……その後どうしたんだっけ?
そう思いながら辺りを見回すと、不意に背後から押し殺しきれない笑いが聞こえた。振り返ると、そこには一人の女性がどうにか笑いを堪えようと腹を抱えて耐えている。
「……ププ、ククク」
「ええと……どちら様でしょうか」
呼びかけても、相手は笑いを堪えるのに必死で、まともに返事をしてくれない。
「……ププ、未だに会社員が忘れられないなんて……フヒヒ……」
笑いを堪えながらでも、その言葉の中にあからさまに僕を馬鹿にしているワードが含まれていることはすぐに判別できる。初対面から失礼な奴だな、コイツ。
「アンタは誰だ。ここはどこだ」
「フヒヒ……頭では働くのがイヤだと分かっているくせに、身体はすっかり会社のために働く忠実な社畜になっているなんて……皮肉ね……ククク」
いつまで笑っているんだ、コイツ。そのトンガリ帽子とローブという誰かさんに酷似している恰好も助けて何だか腹が立ってきた。僕の感情に呼応するようにして、呪文によって増幅された怒りの奔流が押し寄せてくる。何だかコイツくらいなら我慢しなくてもいいような気すらしてくる。
僕は無意識のうちに鎧を纏った腕を持ち上げようと―――
「おおっと。そこまでよ」
「死の騎士」の能力を発動させようとした正にその瞬間に、彼女は僕の腕を掴んだ。そこに至って僕も正気を取り戻し、慌てて腕を引っ込めるが、目の前の彼女は僕の腕を掴んだまま、話そうとしない。僕が何をしようとしたのか、分かったのだろうか。
「危ない危ない。その能力を使われてしまうと、私だって正気を保つのが難しいくらいなんだから、無暗に使うもんじゃないわ」
「そのアンタは何者なんだよ」
「またまたぁ、知っているくせに」
彼女はそういうと、僕の腕に何やら指を走らせる。
「……はい、コレでオッケー」
指を離すと同時に、なにやら呪文が浮かび上がってくる。何と書いてあるのかは読めないが、ゲームや漫画で散々見たファンタジーなやつだ。
「これで貴女は私を攻撃することができなくなったわ。まあ、私が新しいご主人様なんだから、従魔の管理も仕事のウチよね?」
……は?目の前の彼女は何を言っているのだろうか。新しいご主人様?誰が?
「ちょうど貴女を探している最中に新しい魔法道具をぬす……開発したのよ。ジャーン。名付けて『魔女の鉄錠』!どうかしら?」
いや、どうかしらって言われても……。鎧の上に浮き出た呪文以外には、別段何か変わったところがあるわけでは無いが、先ほどの発言からも確信出来る。どうせろくなものじゃないに決まっている。
こんな奴はさっさと倒してしまうに限る。僕はもう一度「死の騎士」の能力を発動させようと念じる……うん。先ほどまでは呼吸するように発動していた能力がまるで反応しない。どうやら本当に攻撃できないらしい。
「うふふ、能力を発動させようとしてもダメよ。私からの大事なプレゼントなんだからそんなに邪険にしないで?」
どうやら言葉にしていなくても考えを読まれていたらしい。まあ、黙って睨んでいたら攻撃を仕掛けようとしているくらいバレるか。
「悪いけど手持ちが無いんだ。コレでも競売に出された身だからね。クーリングオフは出来る?」
「残念だけど対象外ね」
「そんなこと言って後で高額な請求をするんだろう?それとも、筋肉ムキムキの黒服が出てきて『ちょっと奥の部屋で……』とか?」
「やけに具体的ね?」
「身に覚えがあってね。この世界に来てからもあるよ。僕自身はよく覚えていないけど!」
咄嗟に彼女が腰に差していた短剣を抜き取って突きつける。それでも彼女はポカンとした表情で切っ先を見つめるだけだ。
「あら、お上手」
「こんなことするのは初めてだけどね。上手く行って良かったよ」
薄暗い部屋の中で短剣の刃先だけが鈍く光る。
「聞きたいことは色々あるけど、まずはこの呪文を解いてもらおうか。僕は君の従魔にはなれないよ」
僕の言葉に彼女は口元に弧を描いた。その笑みに思わず切っ先が揺らぐ。
「いいえ、心配要らないわ。貴女はもうこの私―――深淵の魔女のものですもの」




