お弁当をもって
「ブラッドさん!」
覚束ない足取りで宿へと戻ろうとしていたブラッドはその声に立ち止まった。振り返れば、そこにいたのはアイシャだ。今回の事件を気に病んでいるのは恐らく彼女も同じなのだろう、声の調子とは打って変わって浮かない顔つきだ。
「やあ、アイシャ。大丈夫かい?」
「いえ、それはコッチの台詞かと……大丈夫ですか?」
「ああ、リューのことかい?彼女は大丈夫だよ……多分」
この場では嘘でも「大丈夫」だと伝えてあげるべきなのだろうが、それまでの振る舞いからは考えられないくらいの取り乱し方と、外すことの出来ない漆黒の鎧を目にしてしまっては、どうしても取り繕う言葉が出てこない。
「違います。ブラッドさんのことですよ。ひどい顔をしています」
「え?」と、思わず自分の顔を触って確かめる。鏡も見ていないので、自分がどんな顔をしているかなんて分かるはずもないが、リューの中に潜む「死の騎士」や、恐らく遠からず訪れる深淵の魔女との決戦のことを考えると、少しばかり気が重いのは確かだ。それが表情に出ていたのだろうか。
「それにとってもお酒臭いです。もしかして今まで飲んでいたんですか?」
アイシャが顔を顰める。確かに今後の事を考えながらついつい何杯も飲んでしまった気がするが……そんなことまでバレてしまうのだろうか。天上界の飲食といえば無味無臭の霞ばかりだったので、つい忘れがちになってしまうが、下界の人間はよく匂いを気にするらしい。
「いや、酒場の主人が勧めるものだから、つい……」
「そんな顔じゃあリューさんが逆に心配しちゃいますよ。会う前に一度顔を洗っておくべきですよ」
「それを言うなら君もそうなんじゃないかい。浮かない顔をしている」
「あー、その……私のは洗って落ちるものではありませんから……と、とにかくまずは顔を洗うべきですよ」
「そうか……じゃあそうするよ」
アイシャに言われるがまま、顔を洗おうと宿へと歩き出したところで彼女に再び呼び止められる。
「待って下さい。その手に持っているのは……お弁当ですか?」
彼女はブラッドが小脇に抱えている小包を指さして言った。
「ああ、コレかい?酒場の主人が教えてくれたんだ。『もめ事なんて飯を喰えば解決できる』ってね。だから少し持って帰らせてもらったんだよ」
「……その中身はなんですか?」
彼女がわなわなと震えている。……はて、今日はそんなに寒かっただろうか。
「私が酒場でつまんでいた残り物だね。初めて食べたんだよ。干し肉とか、塩辛とか。リューも好きかと思ってね。食べたら元気でるかなぁって……あれ、何でそんなに怒っているの?」
アイシャがブラッドの首根っこを掴んで酒場へと殴り込んだのは言うまでもない。
―――――――――――――
「全く、人間の趣味嗜好に合わせるのは難しい事ですね……」
一人でブツブツとぼやきながらブラッドは夫婦で逗留している宿へと帰還した。彼の手には先ほどと同じように小包がある。だが、中身はアイシャがわざわざ作り直してくれた正真正銘のお弁当だ。あの後、首根っこを掴まれて酒場へと連れ戻されたかと思えば「お見舞いに酒のつまみを持っていく奴がいるか」と尋常ならざる叱責を受けて、せっかく自分が見繕ったおつまみを全て没収されてしまったのだ。危うく人目を憚らず悲嘆に暮れるところだったが、代わりにコレを渡された次第である。
コッソリと中身を覗かせてもらったが、確かに干し肉や塩辛に比べて、色とりどりの華やかな料理が敷き詰められていた。彼女曰く「冒険者の師匠が元気を取り戻せるよう、自分なりに力を尽くした」らしい。ならば弟子の渾身のお弁当を手渡すことが自分の役目、という所だろうか。
「干し肉や塩辛も美味しかったのに……」
ちなみにアイシャは宿には着いてこなかった。「夫婦水入らずの時間を邪魔したくないので!」と言って足早に去ってしまった。この間は顔面に思い切り拳を叩き込まれてしまったので、今度はもう少しロマンチックに過ごせれば良いのだが、生憎、今はそんな状況ではないことぐらい分かっているつもりだ。
魔女は必ずこの街にやってくる。奴を捕らえるためには愛する妻―――リューの力が不可欠だ。残念ながら深淵の魔女相手に一人で戦えるなんて考えるほど自分の能力を過信しているつもりはない。彼は閉ざされたままの扉の前に立った。
三回、扉を叩く。
「リュー……起きていますか?」
返事はない。
「ご飯を用意してもらったんです。もう部屋に籠もって二日くらい食べていないでしょう。そろそろ何か食べないと……リュー、本当は起きているんでしょう?」
もう一度尋ねると、扉の向こうからは弱々しい声が聞こえてくる。
「……起きてない」
「起きているじゃないですか」
その声を合図にブラッドは扉を開けた。彼の愛する妻―――リューはベッドの上で頭から王歩をかぶったまま、うずくまっている。
「ご飯、用意してもらったんです。一緒にいただきませんか?」
「……いらない。お腹空いてないし」
「そう言わずに、ほら」
「いらないってば」
「一口だけでも良いですから、ほら」
スプーンですくって口に持っていっても、彼女は毛布から一向に顔を見せようとしない。
「どうしてもいらないんですか?」
「どうしてもいらない」
「では、仕方ありませんね。私が全部いただくことにしましょうかね」
ブラッドはそう言うと、一人でそそくさと食事を始めた。
「うん。このオムレツとても美味しいですよ!」
彼は満面の笑みで毛布に話しかける。毛布は身動き一つしないが、代わりに「そうかい、良かったね」と、ぶっきらぼうな言葉が返ってくる。
「……食べたくなったんじゃないですか?」
「残念だけど、その手には乗らな―――」
と、言いかけたところで、彼女のお腹が小さく鳴った。
「……残念ながら身体は正直なようですね?」
ブラッドがニヤニヤとして毛布をめくると、そこから現れた彼女の顔は真っ赤になっていた。




