プロローグ
人は死に瀕したとき、まるで時間がゆっくりと流れているように感じるという。これまでの人生が走馬灯のように脳内を駆け巡り、それまで自分が歩んできた足跡を味わうと共に一秒が一分に、一分が一時間に、そして一時間が、永遠のように……という風に、時間がまるで別れを惜しむかのように、その歩幅を緩めるのだ。だが、それらはあくまで個人の体感によるものだ。実際には時間は自分との別れを惜しみはしないし、その歩みはまるで変わってもいない。所詮、一秒は一秒なのだ。
しかし、僕はあの時、確かに感じた。一秒をまるで永遠の様に。
―――――
土埃が舞い上がり、閃く刃と刃が甲高い音を立ててかち合う。鎧兜を身に纏った兵士たちの怒声や奇声や歓声が様々な言語で入り混じって鼓膜に容赦なく押し寄せる。
「□□□□!」
「▲▲▲▲!」
何を言っているのかまるで理解できない。だが、理解できることが一つだけある。
ここは戦場だ。それもただの戦場ではない、彼らは言語だけでなく、肌の色やその質感はもちろん、僕がこれまでの人生で当たり前のように見てきたいわゆる「人間」と呼ぶべき者の他には、鬼のような角を生やした者や、豚の着ぐるみを着ているような者もいれば、カボチャ頭の者の様な明らかに人間と呼ぶべき範疇から逸脱した奴らもいる。あれは恐らく「魔族」と呼ぶべき奴らなのだろう。ここはどうやら人魔が入り乱れる正に混沌とした戦場のようだ。
「……本当に異世界転生ってあったんだね」
僕は誰にいうでもなく、そう呟いた。
―――――
事の始まりは簡単なものである。
今年で三十四歳になる僕―――美作悠里は仕事に於いては若手という年齢でもなく、かといって重鎮と言えるほどの肩書きもない、いわゆる板挟みの立場にあった。中途半端と言ってもいいと思う。
僕の所属する会社は、給与や人手も少なく、残業代もろくにつかない、休日に至っては書類上にしか存在しないという有り体に言えば「ブラック企業」であった。毎日のように早朝から深夜まで働き通しに加え、上司からの叱責に若手らの野次も相まって僕の心身は著しく摩耗していった。
その日も上司の前時代的な根性論をBGMに、若手のサポートを何とかこなしながら自分自身もパソコン相手に果てしないにらめっこを繰り返していた。
「今日の睡眠時間は何時間あるかな……」
独り言を呟きながら、キーボードのエンターキーを叩く。気づけば時間はすでに深夜と呼んで差し支えない時間になっていた。周りを見渡しても自分以外の社員はとうに退勤しており、会社にいるのは自分だけとなっていた。
―――何やっているんだろうな。
思わず胸の内にそんな言葉が浮かんだ。果たしてこの仕事に価値があるというのだろうか。自分の命を削ってまでやり遂げる必要があるのだろうか。その答えは恐らく「否」だ。
あくまで持論だが、世の中に代わりの効かないものなどない。どんなものにも必ず代わりは存在する。もちろんそれはパズルのようにうまくはまりはしないだろうが、空いた隙間を埋めるものなど、どこにでも転がっているのだ。こんな程度の人間ならば特に。
そう気づいてからの僕の行動は自分でも驚くほど早かった。パソコンを閉じると、身支度を整えて会社を飛び出した。もう知ったことか。クビでも何でも構うものか。幸いなことに遊びに出かける暇も、友人もいない僕には、少ない給与をコツコツと積み重ね、それなりの貯金もあった。次の仕事を探しがてらしばらく悠々自適な日々を過ごさせて貰うとしよう。駆け足で家路を急いだ。
だが、それが良くなかった。時間は深夜だったし、周りには人っ子一人いなかった。開放的すぎたその状況が自分に油断をもたらしたのだ。妙に良い気分になってしまった僕は、踊るように飛び跳ねて蹴躓き、盛大に倒れ込んだ。それは道路のド真ん中であったが、誰もいないと高をくくり仰向けに寝転んだまま、満天の星空をボーッと見つめていた。
その中に一つ、眩しいくらいに輝く星があった。それが自動車のヘッドライトの明かりだと気がつかなかった僕はやはり疲れていたのだろう。そのまま煌々とライトを灯す自動車に押しつぶされて僕の人生は呆気なく幕を閉じたのだった。