年下のおねえちゃんは好きですか?
隣に住むお姉ちゃんは、自ら科学の棺に入った。
冷凍睡眠装置。
それが棺につけられた名前だ。
これから、お姉ちゃんは長い眠りにつく。
一年、二年、三年、十年、二十年?
やっと十年生きた僕からしたら、途方もない長さだ。
病気の治療法が見つかるまで、目覚めないと聞かされていた。
「もー、だいちゃん」
上半身を起こして、お姉ちゃんは僕の頭をくしゃくしゃにする。
「なんで泣いてるの。別に死ぬわけじゃないんだから」
死ぬ、という単語が引き金になって、僕はさらに泣いた。
「平気だって。約束する。ぜったい、お姉ちゃんはまただいちゃんに会いにいく。だから泣かないで、見送って。強くなって、いつか私を守ってくれるんでしょう?」
守られるばかり、かばわれるばかりなのが悔しくて。
だからそう誓った。そのときの熱い気持ちが、僕に勇気をくれた。
見送る勇気を。
「よし。じゃ、お父さんお母さん、おじさんおばさん。そんでだいちゃん」
お姉ちゃんは、映画の軍人みたいに、人差し指と中指を振る。
「またね」
こうしてお姉ちゃんは長い眠りについた。
中学三年生の心と体のまま、眠り続けた。
お姉ちゃんは変わらない。
けれど世間の時間は動いていく。僕も、俺もまた、時間を進めていく。
早く目覚めてほしいと、早く治療法が見つかってほしいと、願った。
けれどある時から、疑問が芽生える。
俺はお姉ちゃんの年をすぐに追い越し、さらに突き放していく。
年下と年上から、同い年へ。同い年から、年上と年下へ。年齢差はどんどんついていく。
それにつれて、恐れのようなものが大きくなる。
果たして俺は、お姉ちゃんと、あの十二歳の時と同じ関係でいられるのだろうか?
そして十二年後、お姉ちゃんは目覚める。
その時、俺は二十四歳だった。
三歳年上だった美月は、当時と同じ、十五歳だった。
* * *
「だーいーちゃん、だいちゃんってば」
俺の肩が何者かに揺り動かされている。
春先こそ眠くなるとはよく言ったものだ。決して布団から出たくないという意志を固める。
「起きろー!」
布団がひっぺがされ、体が一気に冷える。
ぶるぶると体を震わせながら、布団をたぐりよせる。
しかしほんの一部しか体を覆えない。大半は、何者か、元気な声の持ち主によって引っ張られていて用をなさない。
「もう八時だよ、太陽はとっくに昇ってるんだから」
俺からすれば『まだ八時』だ。昼の十二時になってようやくそろそろ起きるか、という気分になるってもんだ。
「なんだよ、寝かせろよ……」
「だめです。規則正しい生活を。朝ごはんも作ったんだから、あったかいほうがおいしいでしょ?」
きっぱりとした口調で、何者かは諭してくる。
しょぼしょぼとまばたきをして、何者かが誰なのかを確かめる。わかっていたが、隣の家の美月だった。
全身を使って布団を引っ張り上げる、セーラー服姿の少女。それが美月だ。朝日を背中から浴びていて、まぶしかった。ヘアピンで前髪を留めたショートカット、という髪型は活動的な彼女らしい。猫めいた攻撃的な目つきと勝気そうな吊りあがり気味の口の端もまた、それぞれ彼女らしさを表している。
ご丁寧にカーテンは全開だった。容赦ない。
「はい起きた起きた。起きないと痛いことするよ」
「勝手にしろ」
いま力ずくで布団を奪わなくても、美月が諦めて一階に下りた後、また布団に包まればいい。ベッドで寝返りを打って壁に向かって寝る。二度寝最高。
「ご、よん、さん、に、いち」
カウントダウンも無視。
「ぜろ。――てい」
「わっきばっら!?」
えぐりこむように何かが俺のわき腹に突き刺さった。
思わず振り返ると、勝ち誇るように手刀を構える美月がいた。やめろ。素振りすんな。
「美月お前、ほんと、そこに直れ。まんま同じことしてやる」
「だいちゃんのえっち、朝から何するつもり?」
くねくね美月は体をかばう。
「あ、ほ、かああああああ!」
けたけた笑いながら美月は部屋から飛び出す。
二度寝はするがその前に仕返しをしないと気が済まない。階段を駆け下り美月を捕まえられるというところで、
「大悟、起きれたの。さすが美月ちゃんね。ありがと、美月ちゃん」
「いえおばさん、これくらい、お姉ちゃんですから」
リビングでうちの母親が待ち構えていた。
これには我に返るというか冷静になる。客観的に見れば、二十四歳の男が十五歳の少女を追いかけていたのだ。
「お母さん出かけるから。美月ちゃん、大悟をよろしくね」
「普通逆と違うか」
「はい、おばさん。いってらっしゃい」
愛想よく、美月は手を振ってうちの母親を見送る。
玄関のドアが閉まる音を聞いてから、俺は美月に向き直る。
精神的にも肉体的にも、俺のほうが年上なのだ。そのことを考えさせるためにも、やり返しておく必要がある。
――わけなのだが、美月はテーブルについて、手を合わせていた。
「だいちゃん、いただきますしよ」
「いや、その」
「食べないの?」
「……食うよ」
どうも調子が狂う。
食事時、暴れるものでないとゲンコツを入れられたことを覚えている。これでは手が出せない。後で出そう。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
「俺の家なんだけど」
美月は隣の家に上がりこんで朝食をいただいているだけだ。
「私がこれ作ったんだけど?」
「これを?」
「いやー便利になったよね、あんなに調理器具が多機能になって」
「なんかババアみてえ」
「は?」
「だからババアみてえだなって」
「いやいやいや待って。私、十五歳だから。ね?」
「コールドスリープっつっても、完全に時間を止めてられるわけじゃねえだろ。ほら読むぜ、夢を見てたって体験記。そりゃ人よりはずっと遅いかもだけど、年は取ってるんじゃねえか」
美月から反応がない。
そちらを見てみれば、顔をうつむけて、固まっていた。
言い過ぎた。早く逃げよう。
朝食をかきこむ。
すると美月も同じくらいかそれ以上の速さで朝食を流し込みだした。
律儀だ。それは俺もなのだが。
「「ごちそうさま」」
食い終わるのは同時。食器を流しまで片付けるのもまた同時。
ならばここから先、明暗を分けるのは、純粋な力。
俺が有利だ。こちとら運動不足とはいえそれでも年下の少女に負けることは「あいててててててて!」
負けた。
流れるような合気道の技によって腕をねじ上げられ、床に跪かせられた。
体にしみ込んだ技は、どうやら十二年の月日でも欠片も衰えてないようだ。
「あのね、だいちゃん」
「うっせババア。だいちゃんはやめろっつってんだろこっちもう二十四だぞ」
美月はにこ、と笑いかけてくる。
「誰がBBAじゃクソガキいいいいいいい!!!」
「ギブギブギブギブ!」
イっちゃう! 間接がイっちゃう!
「ごめんなさいは!? おねえちゃんごめんなさいとは言わんのか!?」
「ババアごめんなさい嘘嘘嘘おねえちゃんごめんて!」
いま嫌な音しなかったか?
腕を放された後、調子を確かめる。痛みは順調に引いている。動かしてみても違和感はなかった。
「こっわ。ゴリ……」
「ん?」
「なんでもない」
またやられては敵わない。
ソファに寝転び、休憩することにする。
上からは美月の声が降ってくる。
「ほんともう、ちょっと見ない間に体以上に態度がでかくなって。おねえちゃん悲しい。すごく悲しい」
「いつまでもガキと思ってんじゃねえよ」
「なにそれ、どういう意味?」
「聞いたまんまだよ。オレは」
体を起こして、テレビの黒画面に映りこんだオレと美月の姿からよくわかる。
もう、年下と年上の関係でなく、年上と年下の関係なのだと。
オレは大きくなった、強くなった、賢くなった。
美月は、変わらないままだ。
「なんでもねえ」
ソファに倒れこむ。
「何いじけてるの? おねえちゃんに話してみんさい。あと三十秒で」
「無茶言うな?」
こちとらフクザツなお気持ちの真っ最中なのだ。
本当に、美月は変わらない。
「部活なのよ、これから」
美月は高校に通っている。
手続きはたくさんあったらしいが、一応普通の女子高生になっている。
生まれたのが二十七年前でも、体と心は十五歳なのだから。
「部活、大丈夫なのか?」
「だーいじょうぶ、間に合う間に合う」
「じゃなくて……」
ああ、気恥ずかしいったらない。
けれど、オレのほうが年上で、大人で、男なのだ。
かつてはっきり紛うことなく姉のようだった人に向けて、言うべきことやるべきことがある。
「どうしたって、あんたは普通の女子高生とは違うんだ。『吸血鬼』だって、バカな話を流すやつもいる。そうじゃなくても人は自分と違うやつをのけ者にする、だから」
言葉の途中で、頭をなでられる。
前髪を指先でかきわけられ、整えられる。
ざわつく心を押さえつけて、オレは美月になでるのをやめさせた。
「やめろ」
「うはは、照れてる」
「そっちこそ」
「うはは」
美月がはにかみがちに笑う。
そのことに、オレは安心していた。美月だって、まるきりわかっていないわけではないのだ。なんでもないことのように思いながらも、事実は事実としてある。
一度公式に死人扱いされ、また蘇った俗称『吸血鬼』なのだと。
美月は、取り立ててそのことを隠していない。
同時に、弟だと思っていたやつが大の男になっていた、そのことから目を背けてもいない。
強い人なのだ、昔から。
それでもオレは――、
「ありがとね、心配してくれて」
「ちっ、……がわねーけど」
「かわいい弟分が心配してくれるんだから、大丈夫」
「そんなことが」
「家族以外の他人で、心配してくれる人がひとりいてくれる。それはとても、この上なく、幸せなことなんだよ。いくらだって、私は強くなれる」
いとおしさを胸に詰め込んだように、美月は微笑む。
こんなことだったのか。
こんなことでよかったのか。
結局、美月のことが心配で。
かつて底抜けに明るく頼れた姉のような人が、コールドスリープから目覚めて生きて、それでも大丈夫なのか。
それが、ひとつも劇的でない、朝の数十分で、解きほぐされた。
大丈夫だ、この人は。
少なくとも、成長したオレがそばにいる限り。
たったそれだけの支えで、このひとは、世界最強なのだ。
「じゃ、いってきます」
「お」
送っていこうか、と口にしかける。
車で送っていけば、助けになれる気がしたのだ。
けれど思いとどまる。
たぶん必要どころか、足を引っ張るかもと。
だからごまかす。
「おう」
美月はスクールバッグを肩に、颯爽とリビングから出ていった。
オレの見送りに振り返りもせず、風のように。
ドアの閉まる音を余韻としてから、オレはキッチンに戻る。
洗い物が残っている。