記憶の無い男
短い
初めは翠玉かと思った。
すぐに違う、と打ち消した。そんな無機質な色ではない、もっと柔らかくて草木が芽吹くような活力に溢れた、若草色の緑の瞳。日に透けて金にも見える豊かな明るい茶髪は風に稲穂のように靡いていた。
──絶対助かる。大丈夫。
生命力の化身のような少女。
その唇が放つ言葉は暖かい火を男の胸に灯す。
握られた掌が火焔鼠の革手袋越しだというのに──熱い。
▲▲▲
「本当に記憶がないのか」
山小屋の裏口に立てられた便所から出ると、頑健な身体つきの老人がじろりと男を睨んでいた。
男──名無しは無言で頷いた。
どこから来たか、何者なのか。自分の事がわからない。
鏡を見ていないので、自分の目と髪が本当に赤いのかすらわからないのだ。
炎の民──誇り高き赤い民族。そんな自覚は沸かなかった。あるのは本の中の知識のような客観的な情報のみ。
(俺が炎の民?)
冷たい風が、短い髪を撫でていく。
心も冷えていくようだった。
覚えていない。何も、わからない。
豆だらけの手は炎の民が乗りこなすと言われている火食い鳥火食い鳥の手綱を握って出来たものなのだろうが、男には火食い鳥が恐ろしい火を吹く怪鳥──という知識しか残っていなかった。
確かなのは目の前の老人の隠そうともしない敵意だけ。
老人が背後に隠し持っていたナイフをアクリの首に当てる。その眼光のように鋭く磨がれたナイフ。首が簡単に落とせそうだ。
「知らずに来たんだな?」
「……なに?」
「鳥だ」
妙な問いだ。老人の試すような言葉に反応できない。思い当たる事は空っぽの記憶には何もなかった。少女が昨日教えてくれた自分の言葉を反芻する。
──風の民狩りが始まる。
記憶に無いその言葉。老人の問いは、なにか関係があるのだろうか?
(鳥──……。)
「……知らない。なにもわからない」
正直に答えるしかない。
「……そうか」
老人はナイフを引いた。殺す気は初めから無かったのはわかっていた。
あの娘がいる。
山々の間にぽっかり作られた小さな居住空間ではアクリを殺したことを、娘に隠しようもない。
──絶対助ける。か……。
柔らかく、苛烈な光を灯す意思の強そうなあの瞳。
(裏切れやしねぇだろうよ爺さん)
「いいか。俺の孫には近づくな」
(おっと)
考えていることがわかったのだろうか。
アクリは口の端を上げて挑発する。
「娘から近づいてきた場合は?」
恐ろしい目で睨まれる。この老人は、本当に人を殺した事があるのだろう。
あの娘とは似ても似つかない鉄鉱石のような冷たいダークグレーの瞳。
「殺す」
芸の無い脅しだ。アクリは笑った。