5. 名無し
仮名普通にナナシにしようかと思ったけど名前変換機能つきの小説サイト読み専時代わ思い出してやめました。
暖かい。そうだ今日はヤマセと眠っているんだ。
私より五歳上の兄──ヤマセは優しくて頭が良くて、皆にいい子だって誉められていた。私以外には。
ヤマセは私には意地悪で皮肉屋で、大人げなくて楽しい兄だった。私はヤマセが大嫌いで大好きだった。
そのヤマセが。人前では絶対泣かないはずの兄が私を抱き締めてワンワン泣いていた。理由を聞いても答えてくれない。一日中離してくれなくて、結局寝るときも一緒のベッドに入った。泣きつかれて先に眠ってしまったヤマセに、私は束の間の姉の気分を味わっていたのだ。
あの日はゲールと友達になった日だった。
▲▲▲
「貴様!俺の孫になにをする!!」
朝、突如雷のような怒号が響き、眠りから無理やり覚醒させられた。
ああ、結局あの後寒さに耐え兼ねお兄さんの布団に潜り込んで眠りについてしまったんだ。手首はまだ握られていて、そこからお兄さんの体温が伝わってくる。懐かしい夢を見た。
「その手はなんだその手は!シナト、その男に連れ込まれたのか!?」
「違うんだよ~寒くて……嘘でしょよく寝ていられるな……起きて、起きて~」
一人では分が悪い。怒りの矛先をお兄さんに移してもらおう。ぺちぺちとお兄さんの胸を叩くと筋肉を感じた。すごい。
お兄さんが「うう、」と唸り、私の方に寝返りを打った。
「お兄さん」
眉間に皺が寄り、赤い睫毛がふるえた。
あ、起きる。
ぱちりと紅玉の瞳が開く。目と目ががあった一瞬──。
「……ッ!」
「うわっ!!」
突き落とされた。いったい!床に頭ぶつけた!!
頭上でギイッとベッドの悲鳴。お兄さんが勢いよく起き上がったのだろう、が、すぐにボフンと枕に倒れる音がした。頭から血を流して眠っていたのに急に起き上がったらそりゃそうなる。
ぶつけた頭をさすりつつ、立ち上がる。お兄さんは横になったままシオ爺と私を交互に睨んでいた。
野性的な風貌だ。二十代後半くらいだろうか。男らしい濃い眉は寄せられ、鋭い眼光、高い鼻梁、無精髭。頬についた三本の傷とその炎の民特有の燃えるような色彩が苛烈な殺気に迫力を加えていた。
──少しでも近づいたら噛み殺す。
まるで手負いの獣のようだ。
「助けた人間に噛みつくとは。炎の民というのは犬畜生にも劣りやがる」
まずい、シオ爺本気で怒っている。
「炎の民だと!?大層な名だが風前の灯火のようなその情けないナリで何ができる?水でもかけてやろうか」
シオ爺の怒りを突きつけられたお兄さんは無言のままゆっくり上半身を起こした。
緩慢に辺りを見渡し私達の顔をじっと見る。その顔には敵意の他に、明らかな困惑があった。
「ここは……」
「え?」
「ここはどこだ」
「え?昨日、」
話したじゃないか。
「お前達は……?」
「お兄さん?」
様子がおかしい。お兄さんは呻いて目をつぶった。
「クソ、頭が痛い……俺は何故……」
頭を抱え込んみその手を自分の頬に滑らせる。傷をなぞり下へ。顎、唇、鼻、目と顔全体を触っていた。まるで自分の顔の造作を確かめるように。
「俺は。俺は……誰だ?」
ふいにヤヴじーちゃんの言葉が聞こえた気がした。
──目に見えん頭の芯のことはどうしようもないからの。祈れ、祈れ。
▲▲▲
再びヤヴじーちゃんに伝書梟を飛ばすと、そんなに遠くへ行っていないのか案外早く返ってきた。伝書梟の足にくくりつけられた筒の中から出てきた返事にシオ爺は顔をしかめる。
「『なるようになる。ならぬときはならぬ。全ては天の思し召し』……ヤブ医者め!」
「治るか治らないかわからないってことかぁ……」
呆然とするお兄さんに私は説明した。
昨日の早朝に空から落ちてきたということ。
不眠不休で何日も飛んでいたかのように酷く衰弱していたということ。
そして──昨夜のこと。
「お兄さんは私に『逃げろ』って言ったんだよ。『風の民狩りが始まる』って。それも覚えてない?」
「風の民狩りだと?」
シオ爺の眉間の皺がさらに深くなる。怒りに不信感が加わった表情だ。
不穏な警告の真意はわからず、ただただ不気味だった。
お兄さんは記憶を辿るよう米神に指を当てる。
「俺が言った?まったく覚えていない」
「そっか……」
嘘をついているようには見えない。……けれど、そんなのはわからない。
私はこの人の名前すら知らないのだ。
どうしてそんな判断ができる?
「やめよう!」
パンッと掌を打ち合わせると強面二人が同時に眉をあげた。何を言っているんだ?という顔だ。
「疑ったって悩んだって仕方ないんだしやめようこの話!シオ爺、ご飯にしようよ。お腹へった!」
ぎゅう、とお腹が鳴る。一発に収まらず次いでぎゅる~とすごい音。うーんちょい恥ずかしい。
──ぎゅう。
お?これは私のじゃない。
──ぎゅるるるる~!
お兄さんのだ。見るとお兄さんは気まずそうに腹を押さえている。それでも鳴り止まない腹の虫に私は大笑いし、シオ爺は毒気を抜かれたようだった。
「ふん、一度助けた犬めを飢え死にさせるのも後味が悪い。……貴様、珈琲は飲めるか」
「こーひぃ?」
「知らんのか!人生損しとる!!」
シオ爺は足音荒く寝室を出ていった。あ~あ、不幸中の幸いというか──。
「……怒らせたか?」
お兄さんはぽかんとしている。強面なのにアンバランスでちょっと可笑しい。
「もう怒ってないと思うよ。シオ爺はあれで優しいし面倒見がいい。でも……お兄さん、面倒なのに捕まって御愁傷様ってかんじ」
私のにやけ面が気にくわなかったのかお兄さんは不機嫌そうな顔になった。
「いつまで笑っているんだチビ」
あっ!この人短気だ。
「チビ!?」
「お前が助けてくれたんだな?」
そのうえ傲岸不遜だ!なんだその威圧するような声は。……今までの好感度というかどきどきが一気に砕け散った。なんだこいつ!!シオ爺じゃないけど噛みつかれた感じがするぞ!!
「そうですけどぉ!?」
「怒ったのかガキめ。あのじいさんに似て短気だな」
あんたに言われたくはない。
ほとんど初対面の人間にガキやチビ言われたら誰しもそうなる。
お兄さん──ええい、親しみマイナスで青年に格下げだ。青年は不機嫌そうな顔から口の端を上げて意地悪そうな顔になった。
あっこいついじめっ子だ!この笑い方ヤマセそっくり!
ぬう、と革手袋が外された大きく乾いた豆だらけの手が私の髪の毛をわっしわっしとかき混ぜる!やめろ!犬じゃないんだぞ!
ははは、と笑った青年は今度は手櫛で髪を整え始めた。
なんだこいつ!なんなんだこいつ!!
「礼を言う。しかしガキでも女なら髪にもっと気を遣え」
「礼を言う態度じゃないし余計なお世話だっ!」
グゥ~ッと青年の腹が鳴る。
「……ふ、」
あっはっはとわざとらしく笑ってやると両頬を結構な力でつねられた。
「いはいいふぁい!」
頬を下に引っ張り上に引っ張りぐり、と回し青年はつまんだ指をピッと離してベッドに横になった。頬がピリピリする!
「そういう風に頬を赤らめておけば可愛いげがあるかもな。ガキの相手は疲れる。頭痛が悪化した」
「こ、この……大人げないっ!」
バタン、と扉が開いた。
「おい犬、貴様俺の孫に手を出すな」
「ふん、出すかこんなガキに」
「こっのぉ~」
青年は私を無視してシオ爺からトレイを受け取りじいっとマグカップの中身を見る。
「これがコーヒィか。……黒いな」
マグカップを軽く傾け舐めるように一口飲むと、ん?という表情になりもう一口飲んだ。
ふん、苦いだろう!
「……うまい」
「ほお、そうか」
あ、シオ爺の表情がちょっと緩んだ。
「子供舌には飲ませがいがなくてな」
青年が鼻で笑ってこっちを見てきた。
こ、こっのぉ~~~!!
▲▲▲
青年は自分の名前すら忘れていた。
「拾い犬に名前なんぞいらんだろう。情が移ったら困る。名無しで十分だろう」
なんてシオ爺が言うもんだから、青年の名前はアクリで定着した。酷い名前だけど十分だッ!
朝飯前は食に興味の薄いシオ爺にしては胃に優しいメニューだった。(珈琲と合わせるのはどうかと思うけど)
ジャロ芋とセン草と野兎の干し肉の入った朽葉牛のミルクスープに野稲のパンを浸して、アクリは無言であっという間に食べ終える。
「足りんかも知れんが急に食べたら胃が驚く。悪いが我慢しろ」
「いや、充分ありがたい。それよりコーヒィをもう一杯もらえるか?」
「あれは高いだから駄目だ。一日一杯。そう決まっている」
「そうか……残念だな。すまない、便所はどこだ」
「外にある。案内しよう」
一人になった寝室から盆を下げて自分の分の食事を終え、食器を二人分龜にくんだ水で洗う。
なんだか腹立たしい気分だった。
長年の憧れを打ち砕かれたというか。
(火の民というのはもっとこう……!)
がっしがっしと食器を洗う手が荒くなる。
それにしても、何か忘れているような?
「あ」
火喰い鳥の無事を伝えるの、忘れてた。