2. 日が昇り火が墜ちる
一応異世界恋愛カテゴリなのにそんな気配が未だない
星も月も隠れた完璧な黒い夜だった。
男は指針の無い暗闇をただ進んでいる。──火喰い鳥の燃えるように輝く翼は目立つ上に夜目は効かない。わざわざ夜に飛ぶのは馬鹿のすることだ。夜間は洞窟かどこかに隠れ昼間に行動するだろう──追っ手も同じ事を考えるはずだ。どの辺りまで来ているかわからないが、彼らが休んでいる夜のうちに出来るだけ遠くへ行きたかった。
本当は火喰い鳥を置いて一人で歩いて逃げることも考えた。しかし傷だらけの相棒を置いて逃げるなど男には出来なかった。
(相棒…か)
自嘲染みた笑みを浮かべて男は火喰い鳥の嘴に回した手綱にぎゅう、と力を込める。
「急げ」
男は首から下げた銀の笛を吹く。すると火喰い鳥は苦し気に呻き、翼を大きく動かした。
「恨め。恨みは力になる。…お前が死ぬときは俺を焼き殺してくれよ」
▲▲▲
「疲れた~!」
野稲の山に腰をかけて、私は昇る朝日を見ていた。来年の豊作を願って少し残してある稲穂が風に波立ち金色の細かい光の粒子を散らす。刈り取った後の地面を、野生の朽葉牛の母子がその名の通り朽葉色の躰をのそりと動かして落穂をのんびり食べている。
「平和だ…」
毎年この長閑な光景を見るのが私は好きだ。ほう、とため息をついていると目の前にマグカップに入れられた珈琲と木皿にクズモモのジャムをたっぷりかけられた野稲パンをのせた盆を差し出された。
「シナト、食い終わったら刈り取った野稲を干すぞ」
「は~い」
クズモモの香りが腹に響く!
「毎年毎年よく感傷に浸れる」
片手で珈琲を飲みながらシオ爺は岩の裂け目から覗く鉱石のような鋭い瞳を無感動に朽葉牛に向けた。
「まだ感性が若いんだよ。シオ爺みたいに枯れてないからね」
へへ、とわざとらしく笑うと、背が高く七十という歳の割に頑健なシオ爺が睨む。中々の迫力。怖くはないけど。
「飯抜きにするか?」
でも盆を引っ込められると降参するしかない。
「食~べ~ま~す~!食べる食べる!」
慌てて盆を受けとると、シオ爺はフン、と鼻をならして小屋に戻っていった。一口珈琲を啜ると深みのある香りが鼻から抜ける。温かい。
珈琲を淹れるのはシオ爺の唯一の趣味だ。毎朝濃く淹れた一杯の珈琲を飲むことが日課で、ついでにパンも焼いてくれるので朝ご飯は殆どシオ爺の担当だった。珈琲以外の食には興味が無いらしく、上に乗っているのがチーズかジャムかの違いで、毎朝大体同じ献立だけれど文句は無かった。「食べられるだけでありがたい」というのは旅をする度に実感する。
「うーん…」
味の違い──苦味、酸味、甘味…の違いはわかるけれども、美味しさの違いは正直よくわからない。苦い。
珈琲を半分飲んで、小屋をちらりと見る。シオ爺が出てくる気配はない。盆を野稲の山に落ちないよう置いて、パンを食べつつそろそろと朽葉牛に近づく。ブオウ、と鳴く牛は私が近づいても逃げることなく、呑気に落穂を食べている。
「危機感がないなぁおまえ…」
パンを吼えて屈み、腹からぶら下がる乳首を握って半分に減った珈琲にミルクを入れた。
シオ爺に見つかると「俺の珈琲に何をする!」と言う目で見られてしばらく拗ねるから面倒なのだ。
気性の穏やかなこの牛は自分の乳が絞られているというのに恐ろしく無関心だった。鞭を打たれても痛みに鈍感なのか草を食べ続けるし、朽ち葉の名の通り所々に虫食いのような醜い斑点があるせいで毛皮としての需要もない上に加工に向かないほど固い。肉も不味く乳も不味い…となれば殆ど利用価値の無い牛として見向きもされないでいたけれど、野稲の刈り入れ時のほんの十日の間に格段に乳が美味しくなるのは、各地を渡り歩く私達風の民の間では常識だった。
「よしよし、いいぞぉ、いい子だね」
温くなった珈琲ミルクは甘酸っぱいクズモモジャムパンととても合う。朽葉牛の首をうりうり撫でてやると、迷惑そうに尻尾でぺちりと太股をはたかれた。
サァ、と気持ちの良い風が吹く。
「あっ」
被っていた麦わら帽子が風に舞い上がり、私の頭上でくるくる回った。
「こらゲール、遊ばないでよ」
どこからかクルルルル…と歌うような鳴き声がする。
マグカップを置いて頭上の麦わら帽をジャンプして取ろうとするが、私が飛び上がるたびにギリギリ届かない高さまで帽子が上にぴょんと飛び上がってしまう。
「ちょ…っと」
ぴょん。
「こら」
ぴょーん。
完全に遊ばれているな?
「こっのぉ…」
首からぶら下げている木笛を思いっきり吹く。
私の耳にはなにも聞こえないけど朽葉牛は「ブモ?」と不思議そうに耳をピクピクさせた。
ザザア、と木々がざわめき逆巻く風がスカート状の上着をふわりと捲り伸ばしっぱなしの私の髪を撫で上げると、見えない風が私の周りをくるくる回って、落穂が螺旋状に舞い上がる。
やがて風にうっすら色がつき始めた。薄氷のように冷たい青、新芽みたいな柔らかい緑、春に咲く野花に似た優しい赤や黄色──次々と色を変える半透明の風の正体は大きな鳥だった。
風巻く鳳と呼ばれる風を纏い食らう実体の無い大きな鳥で、私の親友。私はこの子に疾風の意味を持つゲールという名をつけていた。
「ゲール!うわっ」
──クルルルルルル!
ゲールは楽しそうに私の周りを低く飛んで、小さな竜巻を起こし私の身体を浮かばせる。
「わ、わ、わ!こら、降ろせ!」
無様に足をバタつかせる私の目の前で、ゲールは小さく鳴き半透明の嘴を頬に当ててきた。絶えず躯の色は変わるのに、丸い二つの目だけは深海の蒼や鬱蒼とした森の碧が混じったような不思議な色に輝いている。好奇心が強く悪戯好きな癖に色のせいかその目が寂しそうに見えるのだからいけない。
「こっのぉ~撫でろって!?」
わっしわっしと実体の無い頭を撫でるとゲールは嬉しそうにクルクル鳴いた。半透明の輪郭をすり抜けた私の手はゲールの体内の吹き荒れる風に当てられる。すごい。嵐のようだ。
満足したのかゲールは私を下ろして帽子をぽふんと頭に乗せてくれた。
「髪ぐっちゃぐちゃ…」
わしわしと手櫛で髪を整える。ゲールと遊ぶともともと枝毛だらけで森みたいな髪がジャングルになってしまう。
「ご機嫌だね」
パンを契ってあげるとクルクル鳴きながら啄んで半透明の躰の中で徐々に小さくなり消えていった。何度見ても不思議だなぁ。
「昨日はどこに行ってたの?」
風が強い日はゲールは風に乗ってどこまでも行く。基本的に気まぐれで自由な奴なのだ。
「…なんだか焦げ臭い」
実体が無いくせに、異国の地の匂いをゲールは会うたびに纏っていた。食べて体内に閉じ込めた風の匂い。今日は何かが燃えたような焦げた匂いがする。硫黄、鉄、土の匂い……。あまり良い匂いとは言えない。
「お願いだから気をつけて。おまえは…、ん?」
その時、
ゲールを見上げていた私の視界に半透明の躰の向こうに見える空から何かが落ちるのが見えた。
あれはなに。
赤い──火?
いや違う、あれは──大きな鳥と…。
「ゲール!!!」
私は叫んだ。
空から人が──炎の民が落ちてくる!