第3回
自転車は電気屋の正面に到着した。利成は壊れたゲーム機を小脇に抱えて中に入った。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませぇ!」
店内から客を迎える挨拶の声が人工的にこだまする。しかし今の利成の耳にはそんなものはまるで入ってこなかった。彼は店内を見回して修理品等を受け付けする、サービスカウンターを探した。そしてそれを見付けると一目散に目的地へダッシュした。
「すみません!これ見てもらいたいんですが!」
「は、はあ!?」
利成の必死の形相に受付の店員は驚いて、半ばビビっていた。ヒゲ面のちょっといかつい顔をしたおっさんなのだが、それだけの男を尻込みさせる程の迫力が今の利成には備わっていたのだ。周りの他の店員は「何か変な奴が来た」という顔をしてジロジロと彼を見回していた。
「だからこれを…」
机に置いたゲーム機を見て、ようやく店員は状況を理解した。黙って頷くのを見て利成もやっと少し落ち着いた。そして店員は目を皿のようにしてじっくりと壊れたゲーム機を眺め始めた。見るだけ見た後、今度は電源を繋いで動作するかどうかを確かめようとする。もともとの顔の造りもあるが、点検している間、終始その店員の顔は渋かった。利成はその間無言で己れの魂にも等しいゲーム機をただ見つめていた。
「うーん…」
一通り検査した店員は開口一番唸り声を揚げた。それを聞いた利成は悪い予感が的中したようにドキッとして、全身から血の気が引くような思いをした。
「ど、どうなん、ですか?」
利成はどうしようもない焦りからドモり混じりの口調で尋ねた。
「申し訳ないけどこれは修理したら新品を買うより高くつきますね…。完全にCDを読み込む部分が破損しちゃってますから…」
地獄の死刑執行のように店員から判決が下された。その言葉が耳に入った瞬間、利成の目の前は真っ暗になり、立ち眩みがしてその場で身体がふらついた。
「お、おい、大丈夫かい、君ぃ?」
利成の只ならぬ様子を見た店員は慌てて、心配そうに声を掛けた。しかしその声は利成には届かず、この時彼には何かのサイレンが頭の中でウオーンと音を立てているようにしか聞こえていなかった。視覚的には壊れたゲーム機と『ファイナルドラゴン3』の映像が彼を嘲笑うかのようにグルグルと回っていた。この一瞬、彼は現実世界から切り離されていた。あまりのショックによって、現実を直視することを本能的に拒否させられたのであった。
「うわーっ」
突然、利成は叫びを揚げて電気屋を飛び出した。店員達は呆気に取られたようにそれを見つめるだけだった。パニック状態で自転車にも乗らずに走り去る利成。わめいて走る彼の目には周囲の風景などまるで入ってこなかった。対照的に街を歩く人々は、奇声を揚げて疾走する男を物珍しげに眺める者、気味悪がってその場を離れる者、面白がって写真を取る者など様々な反応を見せていた。ただ、如何なる人間が利成の前に立ちはだかろうと、その者は彼にとってその辺の電柱や看板と同じ障害物に過ぎなかった。可哀想に、何も知らずに赤いランドセルを担いで下校していた少女などは、非力とはいえ成人している利成の突進を避けられずに吹っ飛ばされた。
「はあっ、はあっ…、うわあああ…」
息を切らしうめき声を発しながら走る利成。その表情は、目が血走って大きく見開かれ、鼻孔が豚のように荒く空気を発し、頬はリンゴみたいに真っ赤になり、肉食獣みたく歯を食いしばっているという、傍目から見ると恐ろしくも可笑しなものだった。まだ彼の頭の中には不快な映像が駆け巡り、ウォーンウォーンとサイレン音を鳴らしていた。ゲーム機同様、彼の頭からも煙が出てきそうな雰囲気だった。今や別世界の住人であり、交通ルールなんかも彼の世界には存在しない。そのため信号などおかまいなしに車道を横断する。路上にクラクションが鳴り響き、利成を避けたカローラと対向車線を走行していたベンツが正面衝突した。パトカーや救急車が急遽駆け付け、本当のサイレンがこだまして利成の頭の中以上のパニックを引き起こした。
当の利成の足は広い市民公園に差し掛っていた。ここは約3km四方の広さを持ち、市民の憩いの場として利用されている所だった。緑が多くて自然を感じさせるこの公園を、利成は何処という目的地もなく、ただ闇雲に突き進んでいく。時にはプレイヤーのいるテニスコートを横切り、また林の中を草木に絡まれながら通り過ぎたりもした。もう何km走っただろうか、彼は運のいいことにようやく当てのないゴールに到着できた。
「うわっ、冷た…!」
正気に戻った時、利成の身体はずぶ濡れだった。彼は盲目的に『平和の泉』と呼ばれる噴水に飛び込んだのであった。ザンブリと勢いのある水を浴びて、やっと現実世界に帰ってくることができた。びしょ濡れの彼を見て、周りの人々は悲喜こもごもの表情を見せていた。恥ずかしくなった利成は逃げるようにその場から退散した。
利成自身には何故自分が市民公園にいたかはよくわかっていなかった。彼が覚えているのは、ゲーム機の故障を宣告されて頭が真っ白になったところまでだった。それから如何なる経緯で『平和の泉』に辿り着いたかは全く記憶になかった。そういった訳で帰り道に自動車同士の衝突事故が発生し、人々が大騒ぎしているのを傍目に見ても、その原因が自分にあるなどということは微塵も感じていなかった。
彼にしてみればそんな訳もわからない事故よりも、壊れたゲーム機を新調しなくてはならないという事実の方が余程重大事だった。これ以上の出費は苦しい、しかしゲーム機本体がなくてはプレイすらできない。ここにきて利成は腹をくくってゲーム機を買いに行くことにした。彼には何をおいても家でゲームができない程の辛さはなかった。
利成は一度家に戻って、濡れた衣服の着替えを済ませると、銀行で預金を降ろして、流石に先程の電気屋へ行くことは憚られたので、別のゲームショップへ急いだ。恥ずかしさの為、自転車も昼間の内に取りに行くことは諦めた。
その夜、利成はいつものようにテレビの前に陣取り、買い替えた為新しくなったゲーム機のコントローラーを片手にして、画面上の世界にのめり込んでいた。そうやってゲームをしている分にはいいのだが、やはり予定外の出費による金銭難は彼の心を苦しめた。『ファイナルドラゴン3』が出るまでに買えるゲームソフトの数がこれであと1本になってしまったのだ。元は6本も買える筈だったのに、いろいろな難題により何時の間にかそれが1本になっていた。
利成は悔しさを紛らわす為、ゲームに没頭した。もし素のままでいたら(利成的に言えばゲームをしていなかったら)、今日の昼間のように買えなくなったゲーム達が頭の中に現われて、再びパニックを引き起こしかねなかった。彼は泣く泣く購入予定を変更し、三日後に『大津城240万石』というソフトが発売されるまで、ロクに表に出ず、家に篭もって麻薬のようにゲームだけに全てを捧げた。