表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

山田錦の里

作者: 田中 勝

山田錦の里



お酒好きですか。ちょっとひんやりしてきました。

熱燗で おでんでいっぱいもいいなぁーの季節になりました。

最近は部屋があったかいので 大吟醸の冷酒の人も、

日本酒の季節です。


六甲山の山あいをぬけると、丘陵と谷間の平地が幾重にも・・、そこは酒米の王様「山田錦」の里である。山麓をおおうように里へと連なる棚田は今こがね色である。

粘土質の土壌、朝夕の大きな気温差、大地の恵み受け良質の米を古へよりここ吉川よかわは産出してきました。

「雄町」「五百万石」など全国有数の酒米の中でも、ここ吉川の「山田錦」は酒米の王様と呼ばれ、大吟醸のブームもあって近年脚光を浴びています。ちょっと地図を広げて下さい。兵庫県美嚢郡吉川町は大阪、神戸のニュータウンとなったJR福知山線の三田市と金物の町三木市の中程にあり、中国縦貫道の吉川インターチェンジがあるところです。


藩政時代から続いた伊勢詣では、あちこちの村から老若男女が参加し、世間話に花を咲かせ楽しいものでした。また気候風土や習慣の違い、新しい知識を学ぶ場でもありました。吉川の田中新三郎氏は伊勢詣の道中、伊勢山田の近くで背丈が高く穂も大きい、惚れ惚れするような酒米を見つけ、それを持ち帰り栽培をしました。

その後、立派な酒米として実り、酒造家からも好評を博しました。豊受大神を祀る伊勢山田にちなんで「山田穂」と名づけられました。


大正12年(1923)兵庫県立農事試験場において「山田穂」を母に、「短稈渡船たんかんわたりぶね」を父として生まれました。品種比較試験の成績も優秀とあって昭和11年(1936)『山田錦』と令名。奨励品種に編入されました。

 酒造りは昔から「一に麹、二に酛(もと、酵母のこと)、三造り」と言われるように麹の良し悪しが酒質を左右します。よい麹とは?

「大粒であること」大吟醸では50%以上精米します。大粒な山田錦は精米がしやすく歩留まりがいいのです。

「心白があること」心白のある山田錦は水に浸漬した祭の吸水が早く、麹菌の繁殖が旺盛となり、よい麹が出来るのです。

「低蛋白であること」蛋白含量が多いと発酵がうまくいかなくなります。低蛋白な山田錦は雑味のないすっきりとした美味しいお酒となります。


 村米制度について少し述べましょう。

播州地方の酒米産地と灘五郷はじめ特定の蔵元との間で結ばれる酒米取引制度のことを云います。現在の契約栽培のことで吉川町では田んぼに「菊○酒造」「剣○」とかの契約先の幟が案山子とともに立っています。地租改正によって金納に変わりました。農家では収量を重視するようになり、品質が落ちてきました。品質のいい酒米を確保しようとした蔵元と安定した販売先を求める農家の思惑が一致して生まれました。水害、旱魃などの自然災害などもあります。単に取引だけでない助け合いの制度でもあったようです。この里で酒米作りを支えてきた制度であるのです。


 長々と酒米について述べましたが、お酒が好きなのは勿論ですが、ここ吉川町は私が生まれ育ち、大阪に一家が出る小学校3年生まで暮らしたところなのです。その頃は美嚢郡中吉川村でした。田舎で父は自転車屋であり、その横で母は駄菓子を売っていました。


 実は、吉川町50周年記念なる本を図書館で見つけて、山田錦についてはその本の受け売りなのです。その本を開くと昭和30年、口吉川、中吉川。奥吉川の三村が合併して吉川町が発足した所から始まります。祝賀パレードでしょうか、日の丸の小旗を振る小学生の隊列が見開き1ページに大きく写っています。なんと!そこの道沿いにある私の自転車屋だった家が大きく写っていたのです。度重なる引越しで(私の流転ゆえ)散逸してしまって今は見ることもないと思っていた家がです。感動でした。


 私が大阪に転校していったのは昭和29年でしたから、もう少しいたらその隊列に僕を見ることもあったかもしれません。まだその頃は、父は家を売らず、貸していましたから、まさにそれは僕の家なのです。農協や銀行やバス停があって村の中心が渡瀬にありましたから借り手もあったのです。

間口の広い家でしたから、半分に仕切って電気屋さんと〈ぼんさん〉として勤めていた藤原さんという人に自転車道具一式付きで貸していました。大阪の商売もなんとか軌道に乗って、売って欲しいとの話が出たところで売ったのでした。


 私の母方の実家は吉川町の西奥というところにあります。そこに法事があって全く久しぶりに帰りました。三田駅に着いて、バスの便がたくさんあるだろうと時刻表を見たのですが、昔のようにはありませんでした。仕方ないのでタクシーを奮発しました。

 三田は昔のような田舎町ではなくなっていました。道も舗装され広々としていました。

それでも山あいにかかると道はくねり、そう広くなくなっていました。突然、三木市と書いた道路標識を見ました。


「運転手さん、道間違ってるでぇ」

「西奥でっしゃろぅ。間違ってまへんけど?」

「でも、三木市と出てたで」

「ああ、3年前に三木市と合併したのですよ」

「知らなんだ、どうして三田市としなかったの!」と思わず口にしてしまいました。

「そんなこと、私に云われても・・」

道は違っているわ、合併相手が違う、何とうるさい客だと思ったことでしょう。


 三村は合併して神戸市に編入されたかったのですが、冷たくあしらわれましたが、舞鶴方面のジャンクションも出来、開けてきた吉川町は財政的にも困ることはなく美嚢郡吉川町で有り続けたのですが、近年の広域市町村合併の流れがあって三木市と合併したのです。でも、町民は買い物、仕事と三田市が便利なのです。両方から縁談を申し込まれたのですが、消防団が三木市のお世話になっていた繋がりが決め手になったようです。水臭いとは云いますが、水が取り持つ縁になったようです。


 昔こんな笑い話を田舎の叔父がしていました。

知り合いがなんとか百姓を息子に継いで貰いたいと、農機具をすべて最新のものに機械化しました。最後に車を買えと言うから買ってやると、息子はその車で神戸に通勤するようになったとか、神戸や大阪にも近く一時人口も減った時期もありましたが、今は昭和30年代に戻っています。人口は同じぐらいでも所帯数は断然増えています。田舎も核家族なんですね。


 学校に行く途中に狸や狐を見た道はその面影もありません。泳ぐといえばもっぱら川だったのに小学校にはプールがあります。三田と三木の間を、土煙をあげてバスが通っていた道を今はモダンな車がひっきりなしに走ります。2500人ながらもニュウタウンも出来、大阪や神戸に通勤する人が住んでいます。縁側で日向ぼっこをお年寄りはしていましたが、特別養護老人ホームもできています。昔、木造だった町役場、学校、公民館みんな真新しく立派です。「よかたん」温泉も出来たそうです。町民の暮らし、便利さは昔の比ではないでしょう。でも、変わった、余りにも変わりすぎたここで老後をとは思いません。

 昔と毎日比べては、浦島太郎の心境で、長く生きてきた思いは、もうぼちぼちと寂しい気持ちにさせられるだろうと思うからです。変わらないのは、田んぼの稲穂、山田錦です。


 早速写真をコピーして息子に送りました。

何や、貧乏たらしい貧相な家やと云うことでしょう。

「うるさい、僕はここで生まれ、この家で育った、そしてお前がある」と云おうと思っています。


 春3月、山田錦で醸された新酒が出揃います。酒米の生産者と蔵元が寄って「山田錦まつり」が開かれます。蔵元自慢の高級新酒がPRされます。当然人気は利き酒、試飲コーナーです。全部のブースを回ればいい気分請け合いです。地元の銘酒「白鷹」(『幻の試合』の真知子先生の生家として描かれています)も出品されます。

 是非一度行って見て下さい。左党の人は誰か飲まない人に運転してもらって下さい。


(ハァー)

山田錦の 黄金の波が

そよぐ豊作 日本一ソレ

名代酒米 生一本で

交わす笑顔が 実を結ぶ(ソレ)

ホンに吉川はよいところ

よいよい吉川でよいヨイヨイヨイ(吉川音頭 4番)


 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ