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雨夜の星  作者: 千歳
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☆幻灯オアーゼ

『オアーゼ』は、今時珍しい、昭和初期の香り漂う飴色のバーである。オーナーがぼくの所属していた部活動のふるういOBで、その関係で部活関連の集まりというとそこに集合させられた。古き良き体育会の伝統を守ることが、そのOB(当時四十九)の道楽みたいなもののようで、現役はその店ではどれだけ飲み食いしようと無料であった。むしろ、先輩の前で財布を見せることは失礼とさえ言われたものだ。

 まだまだ肌寒さの強い、春先の日だった。ぼくはその夜も、遊浜駅南口から徒歩でバー『オアーゼ』を目指していた。当時大学二回生。九回も上の先輩のご結婚を祝うための集会であった。その先輩はとっくに社会人だったが、OBを呼び集めての試合や現役交えての同窓会など、イベントへの出席率は高い方で、ぼくらもだいたい面識があった。一年坊どもが確か、その時初対面だっただろうか。それは瑣末な問題である。

 さて、一回生のみぎりから剣道……やりたくて入部したのだから、もちろん……のみならず行事ごとやコンパ系にも真面目に参加する優等部員であったぼくだが、『オアーゼ』でのコンパだけは少々億劫だった。なぜかというと、あの店が蜃気楼だからだ。仲間と連れ立って行くときはまったく問題なく辿り着く。ひとりになるといけない。確かにそこにあるはずなのに、ぼくひとりの時には決して姿を見せないのである。不思議なものだ。

 そういうわけで、毎度なんとかして誰かと一緒に行くことを画策していたのであるが、その夜は直前までバイトを入れてしまっていたため、そもそも予定到着時刻が他の面々より遅れていた。公認遅刻だ。十九時に駅の反対側のコンビニでバイトを終え、南口に回り、記憶をたどって『オアーゼ』を探す。空は真っ黒で、立ち並ぶ飲み屋やパチンコ屋、ゲームセンター、健康ランド的な施設にドラッグストアなんかの灯りがが眩しい。黒服の怪し過ぎるお兄さん方が、横断歩道の車止めに座って煙草を吸っている。駅北側は住宅地だが、南側はちょっとさびれかかった繁華街だ。大学入学以来丸一年、馴染んだその街を……徒歩十分のはずなのに……ぼくはやはり二十時近くまで彷徨った。最終的に、コンパの真っ最中であろう同輩に電話を入れて、途中まで迎えに来てもらった。ぼくは現れた店を見て、「ここはさっき三回は往復した。絶対に通った」とひとり拳を震わした。夜の繁華街には魔物がいると思う。やつらは得物を陥れるために、毎夜街の様相を複雑怪奇に作り替えている。

 そんな魔物どもの餌食になったぼくは、結果非常に目立つ形の登場を余儀なくされたわけである。考えても見て欲しい。体育会離れのはしりであったぼくらの代は、とかく少人数、ぼくの同期などひとりしかいなかった。二十名近いOBの方々の中にあって、現役は目立つ。出たり入ったりも衆目監視を免れない。

 当然の帰結として、ぼくは主役の先輩とその嫁さんらしい女性の隣に引き出され、駆けつけ一杯を皮切りに相当呑まされるはめになったわけである。ぼくは春生まれなので、ぎりぎりの二十歳であった。

「コンビニかあ」

 めでたくご結婚された九回上の先輩……真壁一斉まかべいっさい先輩は、ぼくの遅刻の理由にそんな感想を述べながらウヰスキーを舐めた。

「そう言えば、一斉先輩も学生時代あそこでバイトされてたって聞いたことがあります」

 ぼくもシングルのグラスを揺らしつつ、そう返した。畏まった場面ではフルネームに先輩づけで呼ばなければならなかったが、一斉先輩はフランクな方であるし、だいたいの者が普段は名前呼びしていた。酒が入ると「一斉さん」と呼ぶ者さえあった。

「混ぜ方がなってないね」一斉先輩は唇を舐めてさらりと苦言を呈し、「なつかしいなあ、もう十年近くも前になる」

「すみません、すぐ指導して参ります」

 新入部員たちの水割りの作り方に喝を入れようとぼくが立ち上がるのを、一斉先輩は軽く止めた。正直、ぼくのシングルもシングルとは思えない濃厚さであったので……実際、一本指シングルを縦に使ったのではないかと疑った……その文句を言いたくもあったのだが、当の先輩に止められては座りなおす他ない。

「指導は後でするもの。お前はこいつを取り替えるのが正しい」

 その割にさらりとぼくの行動を正され、後輩の不得手で異様に濃厚になった水割りによるぼくの酔いは、一瞬覚めた。一斉先輩はフランクだが、言うことはおっしゃる。嫁さんらしい女性が、隣で面映そうにした。

「ま、今はいいけどね」

 奥ゆかしい美人に見入っていたら、謝罪する前に先手を打たれてしまう。

「人も減ったしなあ。下の指導も大変だろ。俺の同期なんか二十三人もいて、しかもほとんど下宿組でさあ。あそこのバイトの八割がうちの大学だったんだけど、その半分が剣道部でね。笑っちまったよ」

 後輩に重ねてみずからも失態を演じ、しかも言い訳まで用意していただいてしまったぼくは、先輩が滔々と語る思い出話や嫁さんを交えての職場の話題なんかに、心からの笑顔で応じるしかなかった。いつの間にやら、ぼく、一斉先輩、その嫁さんの三人で一組のようにされており、他の者は銘々で、酒を作ったり料理を運んだり別のOBと談笑のグループを作ったりしていた。もっとも顔を売るべき一回生を差し置いてぼくが主役を独占するのはどうなのか、という思考も頭をかすめたが、一斉先輩の話が途切れない。酒豪の先輩に触発されるようにウヰスキーをあおり……『オアーゼ』は飴色であるがゆえ、ウヰスキーか麦酒しかない……酔いが回って部活の秩序について考えるのも徐々に面倒になる。ちなみに、ぼくはアセトアルデヒドには勝てない体質である。が、『オアーゼ』はまともに払えばけっこうな額になる店であるがゆえ、酒の質が良く、いちいちがうまいのだ。判断力の低下に伴い、ぼくは先輩の話をBGMのように聞き流しながらウヰスキーを呑みまくる。次々と呑む。浴びるように呑む。あんまり浴びるように呑んだので、先輩が身を守るべく傘をさした。酒を浴びるというのは周囲に迷惑をかける行為である。

「……先輩」

「ん」

 が、その時のぼくには、周囲を気遣う余裕はとうになく。

「自分、だいぶ酔ってるようです」

 そのくせ、酔っぱらいの自覚をするだけの理性はあった。いや、自覚せざるを得なかった。

「分かってんならよかったよ。お前強くないんだから、そんながぶ呑みしちゃ。だいたいな、ウヰスキーってのはそう……」

「いえ」

 ウヰスキーの正しい嗜み方を教授しようとする先輩の言を畏れ多くも遮り、ぼくは一斉先輩の紺色の傘の上空をうつろに指差した。

「先輩の傘の上に、世にもかわいらしい女子が見えます……」

「……浜中」

 嫁さんがきょとんとし、一斉先輩は一瞬の内に哀れみに溢れたまなこでぼくを見た。酒の魔力からぼくを守るように、傘をさしかける。

「いや、分かる。分かるよ。うちの部には女子部がない。マネージャーも応募がなくなって久しい。それでも入部してくれて、二回生になっても続けてくれるお前を、卒業生として頼もしく思う。また同じ境遇にあった者として、女日照りの生活の内にそうゆう妄想に耽ることを、俺には止められない」

 先輩は嫁さんを気にするふうの小声で、熱のある弁をふるう。

「けどな。そうゆうのは部屋でひとりでこっそりやれ」

「ちがいます……」

 部屋でひとりでこっそりすべきことは言われずともやっている。そうではなくて、本当に見えたのだ。男物の色気のない傘の上、ちょこんと正座をして悲しげにこちらを見る少女の姿が。ランドセルを背負い、水色の夏物のワンピースを着た、もの言わぬ少女の姿が。

「遠藤!」

 見える、見える、とトランス状態の霊媒師のように主張する酔っぱらいを前に、一斉先輩の決断は速かった。下宿が同じであったがために酔ったぼくの面倒をいつも見るはめになっていた、ある三回生の先輩を呼びつけたのだ。

「こいつ、いつにも増して酔ってるから。よろしく頼む」

 優秀な猟犬のスピードで傍らにやってきた遠藤先輩に、一斉先輩の指示が飛ぶ。

「違うんです。遠藤先輩、見てください、ほら、そこに」

 目の前の光景があまりにも突飛に過ぎ、ぼくは必死で少女の存在を主張し続けた。が、大先輩の手前、現役の全責任を負う三回生という立場にあった遠藤先輩は、

「ばかなこと言って先輩方を困らすな。いったいどんだけ呑んだんだ? 真壁一斉先輩、申し訳ありませんでした、確かにお預かりしましたから。さ、来い浜中っ」

 大袈裟に迷惑そうな表情を作り、ぼくを捕まえて上座から引き離した。しかも、傘をさされた。

 よくよく見ていれば、席の間を引きずられるようにしてぼくが移動するごと、周囲の人々が酒気を避けるべく傘をさす。しまいにはバーのマスターであるワカコさん(当時三十四)までが番傘みたいな古めかしい傘を取り出した。室内で万人が傘をさし、何食わぬ顔で酒席を楽しんでいるのは、酔った頭にとっても大変不可解であった。ぼくはその段になってようやく自認した。いつもとは違うが、自分が過去最高に泥酔しているのだということを。酔っている自覚、すなわち意識があるから泥酔もなにもないのだが、あんなくっきりとした幻覚を見たのはあれが最初で最後なのだから、酔っぱらいレベルとして最高に達していたのは間違いあるまい。

 自己の状態に奇妙に納得し、ワカコさんの面白そうな視線を受けながら外へと連れ出されるまで、ぼくはしつこく現れる幻覚を見続けていた。酒精のまったく似合わないワンピース姿の女子児童は、満場の傘の上をぴょこぴょこと渡り歩き、真っ赤なランドセルの食い込んだ肩越しにぼくに一瞥をくれた。口が動いたが、声は聞こえなかった。

 子どもらしい動作とは裏腹に、終始、悲しそうな顔。

 幻覚ならもう少し夢のあるものを映せばいいものを、これだからぼくという人間は面白みがない。

 結局、翌日には部活の全員からからかわれ、主将からは先輩方の前で前後不覚になったことについて軽く叱られ、唯一の同期である男から「ロリコン」の二つ名を授けられて、この件は幕を閉じた。


 卒業後十年以上も経った今、なぜ『オアーゼ』のことなど思い返したかと言えば、最近、一斉先輩と再会を果たしてしまったからである。今月一日づけで地方の病院からゆとりはま総合病院に栄転となったところ、そこの精神科に先輩が所属していた。都市部を離れているとそうした人間関係図にすっかり疎くなるもので、まったく知らなかった。

 当然、慌てて挨拶に行き、

「おー、ロリコン」

 と迎え入れられたわけだ。

 一斉先輩は昔とまったく変わらず、つかみ所のない所作の内にずばりと核心を突く、ある意味一番恐ろしい存在であった。他の医師たちからの評価もおおよそ同様であるようだ。科違いとは言えこれからどのような仕打ち……もとい、お引き回しを受けることやら、想像もつかない。

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