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雨夜の星  作者: 千歳
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★傘の端隠し

 家の最寄り駅に着いた頃には、すっかり本降りになっていた。

「みーえ! 何やってんだよ、早くしろ」

 改札を出た所で、あまりの降りように見とれていた美枝みえを、ぼくは怒った声で呼んだ。

「でもよっちゃん、傘持ってこなかったよ」

 我に返った美枝が、濃い眉毛をきゅっと寄せる。ぼくらがよくやっている、ランドセルを頭に乗せての全力疾走を、美枝は嫌う。

「こっからもらえばいいんだよ」

 切符を買う所の脇に、色も長さもちぐはぐな傘を何本かさされた、小さな傘立てがある。ぼくはそこから、短いビニール傘を一本、勝手に取り出した。

「ああ、いけないんだあ」

「これはそういうもんなの!」

 残りの傘を指して、ぼくは怒鳴った。

「ほら、早く選べよ。始まっちまうだろ」

「ほんとにいいの?」

「いいの!」

 なんだってこいつは、こうとろくさいんだろう。ぼくは水曜日には全速力で帰らなきゃいけないのに。でないと毎週欠かさず見ているアニメを見損なう。

 なんだか納得いかない顔をしつつも、美枝は大人しく、明るい水色の小さな傘を選び出した。西口階段を駆け下り、傘を開く。美枝が続いて開いてみると、そこには青い大きな水玉が散っていた。

「ちぇ、かわいいの」

「かわいいの、いいじゃん!」

 ぼくらは小突き合いながらにわかに強まった雨の中に飛び出した。すごい猛暑の日だったから、空の上もさぞ熱いんだろう。飛び散ってむき出しの腕に当たる雨粒が、なんだかぬるい。

「とばすぞ!」

「結局走るんだあ!」

 豪雨に紛れて、お互いの声も、足音も見る間にかき消える。

 不思議と明るくて、これは本当は晴れてるんじゃないかと、見上げた途端に空全体がぴかっと光る。理科の時間に習った時からのくせで、ぼくは走りながらも、いち、にい、さん、と心の中で数えてしまう。四秒、雷鳴が轟く。夕立に特有の、高いのか低いのか分からないけれどもとにかく激しい音だ。壁も屋根もブリキでできた巨人の家を、巨大な重機で一気にめちゃくちゃに潰す音。うしろで美枝が、悲鳴とも笑い声ともつかないでたらめな声を上げている。

 細い道路のおもてで水滴が次々にぶちまけられて、とても薄いレースを何枚も何枚も重ねられたみたいに、アスファルトが白く膨らんでいる。温い水がそのまま霧になって空気全体を濡らすので、辺り一面むわっと暑く、まるで自分もアスファルトと一緒に膨らんでいるみたいに感じる。ぼおうと膨らんだ世界にかっと光が差すたびに、いくつもいくつもブリキの家が建てられて、そのすべてが徹底的に、ぱらぱらのちりになるまでに潰されていく。そのちりになったブリキを、誰かが天からばらまいているんじゃないだろうか、雨と地球のぶつかる音は固くて、物騒に大きい。うすら汚れたビニール傘に、今にも穴があきそうだ。

 ぱんぱんの世界をかき分けて走り抜け、最後の四つ角を曲がると長い緩やかな坂になる。両側は住宅だ。最近になって建てかえられた建物のパステルカラーと、昔ながらの民家の土気色が平気で隣りあっている。さわがしく飛び回る雨の粒にもぼくらにも知らんぷりの、ぽかんとした町並みの間を転がり落ちるみたいにして駆け下りる。

 半分くらい下ったところで、世界が急に、すうっとしぼんだ。

 誰かが脇から大急ぎで巻き取っていくかのように、足許の白いレースが引いていく。空の上ではブリキがすっかり底をついたらしい。雨粒は、大きさばかりそのままで、唐突に数を減らす。今度辺りが光ったのは、雷ではなくて、本物の日差しのせいだった。ぼくは傘を持った手を大きく挙げ、夕立が走り去ったのを確かめた。つむじにひとつ、小人のげんこつみたいな雨が落ちて、頭の皮に染み渡った。

「すげえ!」

 坂で勢いづいた足を止めないままで、ぼくは叫ぶ。

「嘘つき雨だ!」

 雲も空も水も、レースの絨毯を敷いた誰かもブリキの家を建てては壊していた巨人も、みんなして嘘をついたのだ。雨なんて本当には降っていなかったのだ。そんなふうに思えるくらい、あっという間に太陽がすべてを舐めて、きれいに晴らしてしまった。隣の家がびっしり並べているプランターの緑の葉っぱや、つるりとした茶色い屋根瓦、コンクリートのブロック塀、スタンドも下ろさないまま立てかけてある真っ赤な自転車の金属が、したんしたんとしたたる水できらきら輝いて、夕方のはずなのに朝めいて見えるので、見慣れたはずの風景が余計に現実味を欠いていく。この世の始まりにひとりきりで生えてきた気分になって、吸いこんだ空気を全部音に変えるような大声を上げた。声はすかっと突き抜けた青空に吸い込まれた。

 それでぼくは、駅を出てから初めて、足を止めた。

 振り返って、おもちゃの国みたいにぴかぴか光る住宅地の坂道を見渡す。ぼくはそれを、だっと駆け上がった。膨らんでいた間は気にならなかった靴下や靴の中の水が、しぼんだ世界ではいちいち気になる。じょぶじょぶ言う音は汚らしいし、足指の間を這い回るこまかな泡ぶくはくすぐったいより気持ちが悪い。けれどぼくは、一度も止まらずに長い坂を登りきった。さっき曲がったばかりの角を、駅の方角に曲がる。途端、目の中に鮮やかな青の水玉模様が飛びこんだ。

 水色に青の水玉が散った傘が、開いたまま、地面にころんと転がった。

 全力で駆けったのに、少しも息切れしなかった。ぴったり閉じた唇をへの形にして、最後の敵を睨むアニメのヒーローみたいに傘の持ち手を睨みつけた。上を向いてしまった傘の中にはひとすくいの水が溜まって、表面が銀色にてかっていた。偽物になってしまった世界の中で、その青と銀色だけ、くっきりと本当だった。

 遠くの上の方から、すべての小道具と舞台とを片付けた荷車を引くような、重たい音がする。

 鏡の中にでも迷いこんだのかも知れないと疑ってしまうくらい、誰もいなかった。夏のひと時を横取りしていたよそ者がいなくなったのに今さら気付き、そこらじゅうのセミたちがいっせいに腹を震わせる。それを合図に、鏡がひっくり返った。ぼくのいつもの街の中で、青い水玉模様の傘だけが嘘っぱちになった。

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