★青い春、黒い雲
彼女が最近、妙なことを言う。
彼女と言うのはつまりそういう意味の彼女であり、しかし正確に言うとそういう意味の彼女ではない。要するに俺は、だから、結局のところ……一度ふられた。だがそれは、俺の魅力が彼女の理想に届かなかったからとか、眼中になかったとか仲いいふりして実はむしろ毛虫のように嫌われてたとか、そういうわけじゃないんだ。彼女は(これはそういう彼女ではなく、単なる三人称だ)俺のつとめてさりげない一世一代の告白に対し、まず五秒ほど真顔で沈黙した。次にしまったという様相で右斜め三十度下に真ん丸い黒目を流し、それもまたしまったというふうにすぐ俺を見た。最後に、なんとも器用に耳たぶだけを真っ赤にして、逃げた。いつもはきはきして生徒会の会議なんか仕切ったりもする彼女(三人称な)らしからぬ、極度の上がり症とどもりを併発して満員御礼の劇団四季舞台上にでも上げられたかのようなもごもご声で、ごめ、と言い残したのが辛うじて聞こえた。辛うじてしか聞こえなかったので、俺はその後三時間ばかり、現実を拒否した。
その夜、俺が高校に上がって以来の一年と半年の間で最多の涙とその他の分泌物とに濡れたのは、無理もないことだ。
そう思うよな。思ってるだろ。告白に対して「ごめん」とダッシュの合わせ技はそりゃ、ノーだよな?
ま……実際ノーだったわけなんだが。
次の日事態は悪化した。
「真壁さん」
昨日まで「一和」って呼ばれてた好きな女に名字呼びされる哀愁。しかも「さん」づけ。
「購買行こ」
その割りに用事はフランク。
まだ周囲に俺の玉砕が知れ渡っていない(と俺が幸せに信じこんでいた)時だったから、俺は何食わぬ顔でおうと言い、鞄から財布だけを抜いて席を立った。
午前最後の授業終了直後の廊下には、弁当片手に委員会へ急ぐ集団、朝練から着替えていないに違いない汚いかっこで昼練に向かう運動部員、午後を空けてて颯爽と帰宅するやつまでいて、生徒たちが縦横無尽に動き回っている。二階分階段を降りて、生物部のやつらの聖地と恐れられて一般生徒のあまり寄り付かない方向へ曲がる。昼休みの頭にだけは、そちらに行列ができる。購買部があるからだ。
うっかり購買部入り口を越えて奥へ踏み込もうものなら、ハエや魚類や奇妙な爬虫類との蜜月に余念のない白衣の亡霊の餌食……いや、生命の神秘を探ろうとする彼らの学徒としての志には深い感銘を受けると言わざるを得ないものの、一般生徒が彼らを避けて通ることにもまた理解を示さざるを得ない。やつらは人類との蜜月に飢えている。ありていに、慢性的な部員不足なのだ。近づく者は別け隔てなく入部希望者としてもてなすからいけない。そのもてなし方がもっといけない。理系に分別される特性の中でも一般受けしない部分だけを抽出して徹底的に遠心分離して得た沈殿のごとしだ。こんな例え方をしてしまう俺だって実は理系なわけだが、やつらと同一視されるのは看過しかねる。人間十七にもなったら、文理に関わらず、相手の心の機微には敏感でいなけりゃならない。そうだろう。
ほどほどの行列の後、彼女(三人称)はメロンパンを、俺はソースカツサンドとハッシュドポテトと二個入りのおにぎりパックを購入した。うちの購買のおにぎりパックは、食べてみるまで中身が何か分からない。粋なもんである。
袋をさげてぷらぷら外へ出ると、西の空だけが異様に真っ暗になっていた。あの下は絶対大雨になっていると確信させるだけの、真っ黒い雲だ。背後の真昼の青空とその黒とが同じ一枚の空だとは、なかなか信じがたい。
天気は西から東に移るから、あの黒雲もその内こっちへ来るんだろうな……なんて言うと百パーセント「うわ、理系」と引かれるから、思うに止める。
「私ね、考えたの」
人目につかないせいで逆に”そういう”スポットとして有名になってしまった、体育倉庫裏。数々の恥ずかしい名場面と青春の分泌物を見てきたに違いないでっかい銀杏の木の下で、その話は始まった。最初のひと言だけで、俺はソースカツサンドの命ソースカツを取り落とした。平常心なんざくそくらえだ。ちっ。
「昨日の……その……アレね? 真壁さんは一年の時から友だちだし、一番いろいろ、一緒に遊んだりした仲間のひとりだし、よくよく考えてみたら、そういう対象として見たこと、全然、さっぱり、まったく、いーーっさい、なかったんだよね」
否定語を伴う副詞のオンパレードは、三人称彼女の場合、ほんとはなんの意図もない。その後に続ける言葉に真実味を持たせたい時の、前置きを強くする癖だ。俺は決して傷ついたりしなかった。ソースキャベツサンドをひと口に頬張りつつ、紳士的に受け流した。そうに決まってる。
「だからさ。急に言われても、返事に困っちゃったって言うか。でも思い返せば、あれは、きっぱり断ったに等しい行為であったなあ、などと、反省したり、いたしましたので」
ああ。この気恥ずかしさを紛らわす時の妙な丁寧語がたまらん。俺だけか。なぜだ。
「謹んで謝罪の意を表明いたしますとともに、試用期間を設けたいと存じますが、いかがでしょ」
つぼなポイントにこっそり身もだえていた俺は、途端に指先に変な力をこめ、ハッシュドポテトをもろっと折った。石灰で白くなった地面の上でソースカツと半分重なって、角張った茶色いハート型みたいなのができた。
この女はいったい何をのたまうか。俺の耳は四時限目の物理の高崎の大声にやられて機能停止に陥っていたのか。中間試験を前にして、生徒会役員のくせして壊滅的な成績を誇る彼女の頭の中でとうとう何かが瓦解したと言うのか。
「一ヶ月くらい、真壁さんのこと、そういう目で見てみる努力をね、いたしますので。そんなふうに見えてきたら、素質はあったってことだし、いつまでたっても見えてきそうもなかった場合は、まあ、そこはかとなーく、通知いたします。はい」
その発言の語尾が消え入らない内に、まるで政治家のとんでも失言を慌てて訂正しに走る秘書たちのように黒い雲が多いかぶさってきて、冗談みたいに突然、大雨になった。盛夏の銀杏の大木も役には立たなくて、俺たちは無言のまま、一番近いところから校舎へ駆け込んだ。駆け込んだ時にはもう、雨足は弱まっていた。そう言や、結局なんだったのか両方とも覚えていない。おにぎりの具。
つうか俺、あれいつ喰ったんだろうか。
……。
すまん。思い出したらまためちゃくちゃ疲れた。おにぎりのことじゃなくて、あの一連のできごとのことだ。
まあそんなこんなをきっかけにいろいろあり、二〇一〇年九月六日現在、遊喜よしみは俺の彼女だ。この彼女はシーではなくてガールフレンドのことだ。ただし、前述の事情により、最後にカッコ仮がつくんだが。
俺が聞いてほしかったのは、その彼女カッコ仮の挙動不審についてだったんだけど……疲れたからもういいや。俺はこれから、この胃痛、眼精疲労および偏頭痛と軽度の躁鬱症状についておじさんに相談に行ってくる。遊喜が最近、俺がさす傘の上に女の子が見えるなんぞとほざく話は、またの機会にしようじゃないか。
にしても、遊喜って、ほんと幸せな名字だな。鬱状態時に言うとがつんとくるわ。




