★しずく渡り
こんにちは、日野です。拙作をご覧くださりありがとうございます。
評価・感想等いただければ嬉しいです。それでは。
子どものころに起きることって、奇妙に受け入れてしまいがちだと思いませんか。
大人になって何かのひょうしに思い出すと、そういえばあれはなんだったんだろう、それともこれは夢の記憶かしらと不思議に思うのですが、当時の自分にとってみればまったく自然なことだった、そんな思い出はないでしょうか。もしかすると、普通はないものなのかも知れません。私は、私にそういう思い出があるから、こんなふうに言うのです。
その思い出の主人公は、ひとりの痩せっぽちのお兄さんです。お兄さんは、今もたいがいこの街にいます。どこに住んでいるとか、学校に行っているのか仕事をしているのかとか、私はなんにも知りません。
最初にお兄さんを見たのは、私が小学校三年生の時です。ある日の、帰り道でした。
給食の後くらいからしとしと降り始めたこぬか雨が明けず、傘を持って来なかった多くの児童が昇降口でかたまりになって、うごうごとしていました。プリントばさみや体育着を詰めた袋、ランドセルなんかを頭の上に乗せて、わっと走りだす子どもがいます。傘の持ち合わせのある友だちを見つけて、肩をくっつけあって歩き去る女の子がいます。それに勝手に加わってこっぴどく閉め出される男の子がいます。濡れたグラウンドに入っちゃだめだと誰かが金切り声を上げ、置き傘がなくなったと誰かが騒ぎ、家族に迎えを頼んでいるらしい誰かが、携帯電話を学校で使っちゃいけないんだと主張する誰かともみあいます。
みんなが傘を持っていなかったのは当然でした。だってその日は、どのチャンネルのお天気お姉さんも、雨が降るなんて言わなかったのです。朝でかける時も、父も母も、傘持った? なんて言いませんでした。ぴかぴかに晴れた、初夏の朝でした。昼時が近づくにつれ、白っぽくかすんだ青空がずんずん冷めていき、半袖から突き出た二の腕がうすら寒くなり、さあっと夏らしくない風が吹いたと思ったら、それにのって霧のような雨が始まりました。世界で一番細い白い糸が、空をおおった白い雲から、いくつもいくつも縒り上げられて垂れ下がっているようでした。
そういうわけで、私もまた傘を持っていませんでした。私がみんなと違ったのは、雨に濡れて帰るのがまったく苦ではなかったところです。いっそわくわくするのです。うごうごする友人たちの間を知らん顔で抜けて、しゃらしゃらするおしゃれなのれんをくぐるように、私は雨の中に踏み出しました。あっ、かなちゃん。と誰かが言います。雨だよ、と引き止めようとしてくれたのか、目に入ったものの名前を口に乗せただけだったのかは分かりません。私はなんにも答えずに、のっぺりしたグラウンドをつっきり、校門を出て自分の家の方へ歩きました。
実際私は、夢中だったのです。産毛のはえた両腕や、ゴムでくくった髪の先が見る間に白い小さな宝石に彩られていくのです。感触は、期待とは全然違っています。ふわふわして、しっとりして、けれどなんの手触りもないのです。時折吹く風はひんやり首筋を撫でましたけれど、暑さの日増しに濃くなる頃合い、心地のよさが勝っていました。
私の家は住宅街のすみっこの小さな一軒家です。ゆとりはま総合病院の真新しい建物の、裏に広がる住宅地です。瓦の色と柵の形が少しずつ違うだけのそっくりな家が四つ並んでいる場所があるのですが、その中でひとつだけ専用車庫がついているのがうちです。父が特別車好きだったようには思いませんが、どうしてかうちにだけありました。
お兄さんはその車庫の銀色の屋根の上にいて、短距離走に臨む人のように片方の膝と両手をついてかがんでいました。
そんなところに人がいるのを初めて見たもので、私はぽかんとそれを見上げていました。口もだらしなく開いていたかも知れません。心底びっくりしたのです。
父よりも学校の先生よりもずっと若いのですが、私よりははるかに年上に見えたので、私にはその人はお兄さんでした。今から思うと、十二、三歳くらいの男の子でしたでしょう。まっすぐな黒い髪に、私と同じに、小さな小さな真珠のような霧の粒がびっしり宿っていて、光もないのにしんしん輝いて見えました。灰色に染まった空の中にTシャツの黄色が鮮やかだったのも覚えています。彼は、短距離走の姿勢でしきりと空を見つめて、いかにも困り果てた顔をしていました。ちっとも下を見ないので、私にはさっぱり気付かないようです。
さて、あんなところに上るのには、いったいどんな理由があったでしょうか。より高いところに用があるか、そこに何かを乗せてしまったか、または、遠くの何かを見たいのか。お兄さんの表情は、どれも当てはまらないようにも、どれでもしっくりくるようにも見えます。
本当の理由は、そのどれもをこの細かな雨のようにぼかして、全部重ねたような理由でした。
私にはそれまでとその時とで、何か違いがあったようには思えませんでしたが、お兄さんにとってだけ、その時何かが変わったらしいのです。困り果てた顔が、ぱっと明るみました。短距離走の姿勢からは、短距離走は始まりませんでした。だいたい車庫の上では、短距離にもほどがありますものね。お兄さんは雲を見上げたまま、その方向に片手を差し伸べたのです。その手が空中で何かを掴んだかに見えた後、するするすると、細い体が空へ昇っていきました。はじめはためらいがちだったものが、次第に流れを掴み、ある瞬間に突然勢いを得て、ひょーいと飛び上がります。あっという間に、お兄さんは空の高いところを飛ぶ鳥の影のようになってしまいました。
糸だ。
だらしない顔のまま、鳥になったお兄さんを見上げて、私は思いました。
あのお兄さんこそ、白い雨雲から世界で一番細い糸を縒り上げる、糸紡ぎに違いありません。彼はあらゆる糸を紡いだので、あらゆる糸のことをよく知っていて、それらを自由にたぐり寄せてどこまででも行くことができるのです。
その日お兄さんは、住宅地の上空をひらりひらりと渡って、巨大な壁のような総合病院の建物の向こうに消えていきました。私はその姿が完全に見えなくなるまで、ぽかんとしたまま見送りました。階段の踊り場の窓から、自分の家の前で棒立ちに立っている娘を発見して、母が声をかけました。何やってるの、かな、そんなとこで。私は意味もなく、はあい、と返事をし、家に入りました。また濡れて帰って、と言いながら、母は上りかかった階段を下りてきて、一番にランドセルを拭きました。革は濡らしておいたらいけないというのが、母の教えです。
おやつを食べる時にも、晩ご飯の間にも、私は学校で起きたことだけを、父と母におもしろおかしく話しました。雨の日の楽しみが私だけのものであるように、お兄さんのことも、自分の胸の中だけにとっておきたいと思ったのです。




