父親
〈暖かさ日に日に増せば肌に沁む 涙次〉
【ⅰ】
人は、小説のやうなものを書けば、その登場人物に家族の影響を叛映させる事となる。それは必定だ。どんなに荒唐無稽な作品を書いても、その中に家族への慕情を忍ばせる。
特に男性作家であれば、父親への叛發と云ふ要素が、滲んでしまふものだ。
私の父は、じろさんのやうに「強い」父親ではなかつた。
かと云つてカンテラの「父」、鞍田文造のやうな冷酷さにも、馴染まなかつた人である。
一言で云へば、「弱い人」であり、私たち兄弟を差し置いて、自分は勝手に【魔】の世界に行つてしまつた。家にカネを入れる事もなかつたし、兄弟を「守る」事などは、下らない事だと思つてゐた、のだと思ふ。
どちらかと云へば、私のカンテラ・シリーズの中では、由香梨の父、姫宮眞人に似てゐる。第二話だつたか、私は【魔】に墜ちた姫宮を、カンテラが斬つたかどうか、あやふやに描いた。實は結果として、カンテラは彼・姫宮を斬らなかつた。そして、今、姫宮は、蘇生したルシフェルに仕える身なのである。
【ⅱ】
姫宮は、その「弱さ」に於いて、比類なき【魔】であつた。【魔】であれば、魔術も使ふものだらうし、何かしら【魔】としての特性を發揮するのだが、彼にはそんな特技はなく、たゞ漫然と、魔界に佇む、【魔】にしては無能な者なのだつた。
そんな姫宮を、何故かルシフェルは側近として、身近に侍らせて置いた。その理由は、人間である私には分からない。多分、ヒトに近い者を身邊に飼つて置きたかつたのだと思ふ。心と云ふものを持つてゐる魔物は、他にゐない。ルシフェルは、その「心」を知る為に(人間の敵とはそんなものだ)彼を必要としてゐた。
【ⅲ】
多分、姫宮を斬らなかつたのは、カンテラの落ち度だつたのだと、私は思ふ。彼は今や由香梨の事は忘れ去り、父親としての義務を放棄してゐる。そんな彼は、カンテラ流の捻くれた温情を、裏切るばかりで、そんな場合、一介の【魔】が、【魔】としてのステップアップを、望むのは大體のオチだ。
姫宮は、ルシフェルの命で、悦美を拐帯しやうとした、【魔】たちの群れに混じつてゐたのだが、その事は、カンテラ・じろさんは氣付く迄もなく、たゞありふれた「小者」として放つて置いたのだ。
カンテラは、前回、霧子を斬つた。その自罰の落とし前として、霧子は自ら依頼料をカンテラに手渡した。その無殘さよ。そんな無殘は、姫宮の身に及ばなかつた(過去形である、飽くまで)。
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〈不安げな父親であるありやうは彼にはもはやないのだその實 平手みき〉
【ⅳ】
そんな姫宮が、執拗に人間の女をルシフェルの「祭壇」にする為に、八方手を盡くしたのは云ふ迄もない。人間であつた頃も、だうせ無能だつたのだ。彼は自分を庇護する、ルシフェルに恩義を感じてゐた。
テオの「はぐれ【魔】」リストには、ちやんと彼の名は、リストアップされたゐた。たゞ、由香梨の事を思つてか、それをカンテラにリークする事がなかつただけである。
様々な思はくが、彼・姫宮を生かしてしまつてゐた。
【ⅴ】
そして... 彼は再び三度、人間界に舞ひ戻つた。女優であり・モデルでもある坂崎玖紀子を攫ふ為である。彼女をルシフェルの「祭壇」としては、最適な女と見込んだのだ。
彼女の告發もあつて、處属する事務所から、カンテラ一味にカネが支払はれた。カンテラは、当然の成り行きとして、姫宮を斬る。人情などは、欠片もない話である。「しええええええいつ!!」と云ふカンテラの氣合ひも、今度ばかりは虛ろに響く。その無殘さの中に、一味は生きてゐるのであつた。
可哀相なのは、由香梨だけではない。斬つた当人、自分が何をしでかしたか、気付かぬのである。可哀相なカンテラ。それは、私が父親を、「無辜の人」だと思つてゐる現在に、余りに似通つてゐた。それが、父を知らぬカンテラへの私なりの「思ひ」であり、今回のサブタイトルに、「父親」と云ふ言葉を撰んだ理由なのである。
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〈古草を忘れて踏んで人は行く 涙次〉
お仕舞ひ。ちとニヒルな、カンテラ咄でした。本文に書き漏らしたが、これでルシフェルのカンテラ一味への憎しみが、倍増したのは云ふ迄も、ない。