噛み合わないのに、前進
「私をカイザー様の愛人にしてください」
真剣な表情で告げられた言葉の意味を、カイザーは理解できなかった。
「あ?」
深く刻まれた眉間のシワ、地を這うような低い声。普通の令嬢なら気を失ったことだろう。だが、アディルはカイザーラブの、カイザー専用のラブフィルターが常時装着されている令嬢だ。
(眉間のシワ……、かっこいい……)
覗き見ではなく、目の前にあるお久しぶりな表情にアディルの胸は一瞬で高鳴った。けれど、自分が愛人にして欲しいと願ったことで、カイザーを困らせたのだと気が付くと、胸の高鳴りは裸足で逃げていき、残ったのは痛みだけだ。
(やっぱり、迷惑だよね。うん。見事玉砕だ。すっぱりとは無理だけど、諦めるしかなくなっ──)
「愛人って言ったか?」
(いや、まさかな。何かの単語との聞き間違いだろ)
カイザーは念のため確認をしたのだが、アディルは断頭台の上に立たされているような気持ちだった。
「はい。言いました……」
答えは、まさかのイエス。しかも、気まずそうときた。カイザーの眉間のシワはカイザー至上、最も深く刻まれた。その表情にアディルの誤解は加速していく。
(うぅぅ……。逃げたい。でも、ちゃんと終わりにするんだ)
アディルの瞳は瞬きをすれば、今にも涙が溢れそうだった。
「……そんなに婚約したくないのか?」
(俺の愛人になりたがるなんて、正気じゃない。泣くほど追い込まれてるなんて、無理矢理婚約させられそうになっているのか? それとも……)
(婚約したくないんじゃない。カイザー様じゃなきゃ、いやなんだもの。でも、私じゃどんなに頑張っても婚約者にはなれない。身分のせいにしたけど、それ以前に女性として見られてないんだから……)
「男が怖いか?」
「いえ。そんなことないです」
「親に無理矢理、婚約させられそうになっているのか?」
「違います!! 両親は私の考えを尊重してくれます」
「……なら、なぜ愛人になりたがる?」
「それは……」
アディルは、じっとカイザーを見た。眉間のシワは変わらず深いけれど、眼差しは優しい。
(困らせちゃったけど、拒絶はされてない。そのことに、こんなにも安心してしまうなんて、最低だ……)
自分の心なのに、まったく言うことを聞いてくれない。自分自身を嘲り、それと同時に、恋に情熱を燃やす姉の言葉を思い出す。
(頭で考えて、冷静でいられる間は恋じゃないわ。欲しくて、欲しくて、渇望するものなのよ‼ って、よく言ってたなぁ。恋って大変だな……って、人ごとみたいに思っていたんだけどな……)
アディルは、カイザーとの時間を振り返る。好意を隠したことはなかった。だが、その好意は恋情として伝わっていない。そのことをアディル自身理解していたし、それで良かった。カイザーの一番近くにいる異性が自分だと知っていたから、妹のような立ち位置でも満足していたのだ。けれど、それではずっと一緒にいることはできない。
(きちんと言おう。お慕いしているって)
「愛人じゃないと、駄目なのか?」
「……へ?」
「婚約者だと困るのか?」
「……婚約者?」
「あぁ。愛人を作る気はない。だから、婚約者はどうだ?」
アディルは何度も瞳を瞬かせた。予想もしていなかった展開に、頭が追いつかない。お慕いしていると言おうという決心も、カイザーの言葉の威力でどこかへ飛んでいった。
(都合の良い夢でも見てるの?)
自分の頬を全力でつまんだ。
「いひゃい……」
その痛みが、現実なのだと教えてくれる。
「何してんだ……」
赤くなった頬を冷たく節くれだった指で撫でられる。頬の痛みを瞬時に忘れ、アディルはカイザーの指に自ら頬を擦り寄せた。
「うれしい……」
頬を染め、はにかむアディルに、カイザーの口の端も小さく上がる。
(嘘みたい。カイザー様の婚約者になれるなんて……)
(両親を安心させたいからって、俺を相手に選ぶとは……。ストーカー被害にも合ってたし、本人は否定したが、男が怖いのかもしれないな。だが、愛人なんてもっと心配をかけるだろ。せめて、婚約にしてくれ)
「早急に婚約の打診を送る。帰ったら伯爵に伝えておいてくれ」
「分かりました。あの……よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく頼む。俺と婚約すると周りが煩いだろうが、大丈夫か?」
「はい!! まったくもって、微塵も問題ありません!!」
手を挙げ、元気に返事をするアディルの頭をカイザーは撫でる。
(好きな男ができるまで、仮の婚約者でいてやる。だから、焦るな。ゆっくり心の傷を癒せばいい。……問題は、俺の婚約者となると男が逃げてくってことか。まぁ、その程度の野郎にアディルを嫁に出すわけにはいかないが……)
思考はスッカリ娘を溺愛する父親……または兄といったところだろうか。こうして、意思疎通がまったくできていないまま、話だけはまとまったのであった。
「お仕事おじゃまして、すみませんでした」
「問題ない。お前なら、いつ来てもいい」
(うぁぁぁあ!! かっこいいぃぃぃ!!!!)
すっかりいつもの調子を取り戻したアディルは、心のなかで絶叫し、悶絶した。
「何かあれば、いつでも言え」
「ありがとうございます!!」
花が咲くようにアディルは笑う。いつもの笑顔だ。
(アディルには、笑顔が似合う)
カイザーはひらりと手を振ると、定例会議へと向かった。既に始まっているが、どうせ大した話をしていないだろう……と、急ぐことはない。のんびりと歩きながら、これからのことを考える。
(とりあえず、婚約するためには何が必要だ?)
自分の人生において婚約など無関係だと思っていた。だから、婚約や結婚というものへの知識を持つことはなく、その代わりに魔物や武器に関する知識や、戦略、応急処置など戦闘に役立つことを覚えてきた。
(仮とは言え、きちんとやらないとだな)
頬を染め、くったくなく笑うアディルを想う。そして、一つの疑問が頭を過った。
(あいつが好きになるのは、どんな男だ?)
そう考えた瞬間、眉間にシワが寄り、眼光の鋭さが増した。本人はそのことに気がつくことなく、重厚なドアを開いた。
「悪い、遅れた」
ちっとも悪いなどと思っていない表情と声。普段なら第一や第二騎士団長から文句の一つでも飛んでくるのだが、それも今日はない。
「カイザー、すごい顔だぞ?」
(何でこんなに機嫌悪いんだよ!?)
アディルが会いに来るようになってから、定例会議嫌いなはずのカイザーの機嫌は良かった。それなのに、今日は親の敵にでも出会ったかのような表情だ。いや、表情だけではない。殺気まで放っている。
(誰だよ、カイザーを怒らせたやつ!!!!)
アスラムは心のなかで盛大なため息をつく。カイザーのいないところで第一と第二騎士団長、副団長にねちねちと文句を言われるのはアスラムだ。
(第三騎士団が最強な訳だし、実績も十分に積んだんだ。そろそろ、他の部署の顔色伺うの辞めちゃおっかなぁ)
そう思ったことは一度や二度じゃない。けれど、円滑な関係を築いていたほうが、揉め事も少なければ、要望を通しやすい。色々と考えた結果、結局うまく立ち回ってしまうのだ。
(ま、俺の社交能力を買ってくれたんだし、仕方ないかぁ)
顔は怖く、口調も冷たい。理不尽なことも多い。けれど、アスラムは知っているのだ。カイザーが誰よりも国民を守ろうと、仲間を守ろうとしてくれていることを。
(あとで絶対に何があったか、聞き出してやるからな)
ちらりとカイザーを見れば、眉間のシワは更に深いものになっていた。
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