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実は、リオンはつい最近、ヒューバートと会った。
黒髪にエメラルドグリーンの海のような瞳の美丈夫だ。レアンドリィ総督夫人エスメラルダやレプトカルパ総督クリフォードのような人ではありえないうつくしさではなく、人間の範疇内で最高峰の魅力的な容姿の持ち主だ。気品があり頼もしく、温かみのある雰囲気は、レアンドリィ島だけでなく七つ島すべてにおいて人気が高い総督なだけはある。
通された高級感のある応接室よりも、対峙して座る男の威厳に、リオンは呑まれないように腹に力を込める。
「呼び出しに応じてくれて感謝する」
言葉は謝意を表していたが、そこに含まれる意味合いは呼び出しに応じた判断への評価だった。断っていたら見限られていた。そう思わせるものがあった。
「妻が気に入っているだけでなく、わたし自身も「翡翠」の深い神秘的な色彩は好ましく思えるんだ」
ルシールの口からエスメラルダと親交があると聞いている。戸惑う風を見せつつ、なんだか母親のように思えると言ったときには驚いた。
「もちろん、おこがましいとは思うのよ。あんなにうつくしくて自由な心の持ち主を、だなんて。でも、わたしがどんな仕事をしているのかとか友人たちとどんな風に過ごすのかとかをひとつひとつ耳を傾けてくれるのがとても嬉しいの」
ちょっとしたことでも褒めてくれるのだとはにかむルシールに、ああ、求めても得られなかったものを別の形で手に入れたんだなと思った。
レアンドリィ総督ヒューバートは妻をこよなく愛しているということはリオンも知っている。そのエスメラルダが娘のように接するだけでなく、ヒューバート自身がルシールを認めたのだという。
ルシールが卒業間際に家族との関係を改善すべく、総督の傍流家としての婚約を受け入れた際、リオンは彼女のことを諦めた。もともと、お嬢さまで自分には手が届かない存在だと思っていた。
けれど、紆余曲折を経て、恋人となることができた。
そして今、傍流どころではない正統な総督からルシールは身内だと突き付けられた。
以前は諦めた。でも。
「陽の光を受けた木の葉のように明るく輝いているときも魅力的ですよ」
もう諦める事なんてできやしない。ヒューバートが病弱な妻を失えないと思うのと同じく、リオンもルシールを奪われるわけにはいかないのだ。
「魔道具のことを語っているとき、よくそんな色合いを見せます」
発言内容から、リオンはルシールが望むことを第一にしているのだとヒューバートは理解する。
つまり、総督夫人を母のように慕っていようとも、ルシールがそうしたいのならそうすればいいとリオンは伝えた。それを、ヒューバートは正しく受け取った。
ヒューバートは足を組み替え、小首を傾げる。さらりと黒髪が白い額を滑る。
雰囲気が変化した。本題が来る。リオンは身構えた。
「君は総督に対抗し得る権力を持っているかい?」
「いいえ」
見栄を張っても仕方がない。リオンは正直に答えた。すぐに質問が続く。
「ならば、総督の権力を利用する気概はある?」
総督の威に怯むようなら、ルシールとの未来は望めない。そう直感で悟った。
リオンは腹の底から絞り出すように力を奮い立たせる。
「はい」
「よろしい」
ヒューバートは満足げな笑みを唇に刻んだ。
それはエスメラルダやルシールに見せるやさしい、あるいはリラックスした表情とはかけ離れていた。
総督の権力を乱用する者はもってのほかだ。だが、権威に怯えるようでもいけない。いかんともしがたいからだ。
総督の威を知らぬようではいけない。
総督の威に怯えるようでもいけない。
総督の威を利用できなければならない。
しかし、それは濫用となってはいけない。
リオンは知らなかったが、デレクもまた、ヒューバートの側近から同じような申し出を受けていた。違うのは、ヒューバート自身が娘のように思う女性、彼女の恋人の人となりを確かめようとしたことだ。
ヒューバート自身が応対したこと自体、相応の価値を認められていた。
そんなことは発想すらないリオンは、おそらく、総督によって密かにルシールに護衛がついているだろうと予想した。そして、総督の権力を利用する許可を下されたのだから、その護衛と連携してルシールを守れというのだろう。ルシールの恋人なら、その程度のことを察してやってのけろというところだ。
リオンからすれば、当然のことだ。ルシールは素晴らしい魔道具師になるだろうとは思っていた。だが、まさか総督に近しい人と親しくなることで、権力に近づくとは考えもつかなかった。
ただでさえ、ルシールの周囲には魅力的で才能のある者たちがいる。オスカーやエル、クラークだ。
ルシールは過去、自分がされてひどく傷ついたからこそ、浮気はしない。だから、やきもきするのはリオンの問題だ。
分かっていても、まさか突き抜けたうつくしさの持ち主であるレプトカルパ総督クリフォードにまで好意を寄せられるのだから、心が乱されるのも致し方がないことだ。
ルシールからはクリフォードがシンシア魔道具工房にやって来たとは聞いていた。様子見にやって来たのだろうと見当をつけたが、まさか総督本人が足を運ぶなどありえないことだった。
ところが、予想はあっさり裏切られる。
年末にふたりで買い物していると、市場から喧騒が消えた。新年祭の準備をするために大勢の買い物客でごった返しているのに、静かになるのは異常事態だ。
振り向くと、非日常があった。ものすごい美形が現れ、人々は動きを止めていたのだ。
「姉上、料理をするんだな」
その飛びぬけた美貌の持ち主はためらうことなく、人の合間をすり抜けて近寄って来て、ルシールに向けて「姉上」と言った。
「ルシール、こちらは?」
尋常ではない美形の登場にリオンが尋ねるも、儀礼上のものだ。答えを聞かずとも分かった。これほどうつくしい者は限られている。そして、リオンは採取屋だ。採取屋は情報収集を習い性としている。
「ええと、」
ルシールもまた、彼の登場に驚いてすぐには答えられない。
「クリフォードだ」
当の本人が名乗った。リオンの胸に、やはりという思いがこみ上げる。クリフォードという名のとびぬけた美形がレプトカルパ総督だというのは周知のことだ。
ルシールがその名を呼ぶのに躊躇するのも当然だ。
総督夫人から娘のように思われていることは知っていたが、総督から姉のように親しまれているとは初耳である。
リオンとしてはまた美形が、しかもこんな飛びぬけた美貌の持ち主に、と膝を地面についた。
ルシールの素晴らしさは知っている。だからといって、こんなにも優れた者たちに好かれるとやきもきする。彼女の視線があちこちに向けられるのはいただけない。つまりは嫉妬であり、ライバルへの焦燥だ。
「ここでは人目が多すぎるわ」
リオンの思惑など知らないルシールは、とにかくクリフォードをなんとかしようとした。こんな耳目の多いところに他島の総督がいていいはずはないという気持ちでいっぱいだった。
「買い物が終わるまで待っているよ」
当の本人は平然としたものである。
「———あるもので作ることにするわね」
そう言って、帰宅する。当然のようにレプトカルパ総督もついてくる。
すでに買っていたルッコラやフェンネルでサラダをつくる。家に常備しているオリーブの実を添える。
「パンも卵もあるから、フリッタータを作りましょう」
七つ島ではトマトの旬を外すとトマトソースは市場で買う。
だが、やりようによっては長期保存ができると聞いて夏の終わりにやってみていた。
煮沸消毒した瓶にトマトソースを熱いまま、瓶口から少し下のところまで注ぎ入れる。
蓋を軽く締め、鍋にお湯を沸かし、そこに入れる。そのまま加熱し、終わったら瓶を取り出して蓋をしっかり締める。
通常の冷蔵保存だと数日しか日持ちしないが、脱気してから【冷蔵庫】に保存すると未開封のまま数か月保存することができる。保存状態が良ければ一年もつ。
あるいは冷凍保存する。このとき、小分けにして使う分ごとに冷凍するのが重要だ。一旦解凍した後、残ったものをもう一度冷凍するのはしない方が良い。
流水解凍か自然解凍だが、これは外に出しておくのではなく、【冷蔵庫】に入れておく方が良い。
ドライトマトは水分が少ないため、保存状態が良ければ一年以上食べられる場合もある。オーブンで作ったドライトマトは天日干しに比べると水分が抜けきらないため、長期保存は不向きとなる。保存するときはオリーブオイルに漬ける方法がある。オイルに漬け込むことで空気に触れることを防ぐことができるため、【冷蔵庫】で一、二か月の間保存することができる。
そうやって瓶に保存していたものを使ってトマトとバジルのフリッタータを作る。
オムレツやタルト生地を省いたキッシュに似た卵料理だ。肉や魚介類、チーズなどを具材にすることもある。
ただ、アンティパストか軽めの主菜といった位置づけだから、リオンには物足りないかもしれない。
「ほうれん草とベーコンのフリッタータが有名だけれど、ちょっとピザっぽくて面白いでしょう?」
「ワインと合いそうだ」
リオンが言うと、ちょうど良かった、とクリフォードが持参したワインを取り出す。
食卓のイスは二客しかなかったため、リオンがべつの部屋から運んできた。そうしていつもはリオンとふたりのところへクリフォードが加わり、不思議な光景となる。
「レプトカルパ島のフリッタータは具材がジャガイモとタマネギだ。卵といっしょに焼くらしいよ」
リオンの言葉に、クリフォードがその通りと頷く。
「レアンドリィ島ではパイ生地やタルト生地に卵と具材を流しいれてオーブンで焼くそうよ」
レアンドリィ島のレシピはルシールも食べるだけで作ったことはない。
「島それぞれの特色があって面白い」
クリフォードがほほ笑みながら、とても美味しいと言う。
リオンはひそやかに息を呑んだ。クリフォードは毒見をしないでそのまま食べた。ルシールは気づいていないが、これほどまでに信頼しているのだ。
「手際も良いし、姉上は料理が上手なんだな」
あながち世辞ではなく、クリフォードは皿を空にする。
「ワイン、美味しいわ」
ワイングラスをまじまじと見ながら、ルシールが半ば呆然と呟く。
「口に合ったようで良かった」
クリフォードは機嫌が良さそうに目を細める。
「それで、その「姉上」というのは?」
リオンは聞きたくて仕方がなかったことを口にした。
「ヒューバートおじ上は父の親友で、わたしを息子も同然とおっしゃる」
そのヒューバートが娘同然と言うのであれば、ルシールは姉も同じ。
クリフォードの説明に、リオンは眉に深い溝を刻んだ。
総督は国王のようなものだ。そんな各島で最も身分が高いふたりに、ルシールは家族同然の扱いをされている。彼女の側にいるためにリオンはどうすべきだろう。
ワイングラスの足を持つ手に力が入る。
「でも、こんなに威風堂々とした方に姉なんて、」
ルシールは妙なことを気にした。
「ひとつとはいえ、年上なのだから、姉上は姉上だ」
始終上機嫌で食事を共にしたクリフォードはまた来ると言って去って行った。いつの間にか立派な馬車が路地に停車していて、クリフォードが近づくと扉が開いた。しなやかな動作でするりと乗り込む。
ルシールは見送りながら心の中でメルヴィルたちに告げる。
「本当に気まぐれで妖精のようね」と。




