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どどど、と腹の奥に伝わる音がする。先ほど見聞きした滝のものとは違う、足元から這い上がって来る音だ。山中にも不穏な音は響き渡る。
「落ち着いて。その場にしゃがんで」
リオンの指示に従ってルシールとテレンスはしゃがむ。リオンはすっくと立って周囲に視線をやっていた。耳を澄まし、目を凝らし、全身でなにが起きているかを読み取ろうとしている様子だ。
地鳴りのような音は徐々に大きくなってくる。木々は大きく揺らぎ、梢がこすれ、耳障りな音がより一層不安にさせた。
【ブヒヒンの荷車】はじっとしている。と、ひとりでに動きだす。真っすぐに少し進んだかと思えば、角度を変えて後退する。それを二度三度繰り返すと、ルシールたちの前を横断するかのような位置取りをした。それはまさに、土砂からルシールたちを防ぐこととなった。
激しい音とともにもうもうと上がる土煙に、鼓動が速くなり、息の吸い方を忘れそうになった。
それでも、すぐ傍にリオンがいると思えば、不思議と安心することができた。
遠くから声が聞こえてきた。
「誰かいるか!」
「がけ崩れが起きた!」
「水だ! 水が噴出した!」
はっと息を呑む。先ほど【クゥーンの採取セット】が発した警告音はこれだったのだ。
ルシールはどこから聞こえてきたか見当もつかなかったが、リオンがそちらに顔を向けて声を出す。
「三人いる。けが人はいるか?」
「こっちだ! がけ崩れに足を取られた!」
「誰か! 手を貸してくれ!」
上か下か、右か左か分からないが、遠くから声を張り上げるのが分かる。ルシールは身を固くした。大変なことが起きた。
「ルシールとテレンスさんはここにいてくれ」
リオンが穏やかな声で言う。ルシールはばっと音がしそうなほど勢いよく振り仰いだ。
行かないで。
切実な思いは、けれど、口には出さなかった。リオンの判断で行くと決めたのなら、ルシールに止めることはできない。なぜなら、ルシールは採取屋リオンの判断力に全幅の信頼を寄せているからだ。
「気を付けてね」
辛うじてそう言う。リオンはまるでルシールの気持ちが分かるように目の前に跪いてそっと抱き締めた。
額がくっつかんばかりの至近距離でうつくしい海の色の瞳がまっすぐにルシールを見つめる。息を呑むほどうつくしいやさしく明るい<海青石>の色に、一時なりとも恐怖を忘れた。そうすれば、少し冷静さを取り戻すことができた。気持ちを持ち直す際には、いったん切り離すことが大事なのだ。
視線を合わせたまま、リオンの形の良い唇が大丈夫だと声なく動く。
いつの間にか、ルシールの身体の震えは止まっていた。
「すぐに戻って来る。テレンスさん、ルシールを頼みます」
「分かりました」
前者をルシールに、後者をテレンスに言うリオンに、学者は青ざめながらも頷いた。それを認めてからリオンは【ブヒヒンの荷車】を連れて行ってしまった。あっという間に土煙で見えなくなる。とんでもない速さ、機敏な動きだ。
「こういうことはたまにあるんですよ」
だから大丈夫だとでもいうように、テレンスは頷いた。
がけ崩れに遭った際にはまず安全な場所に移動する必要があると学者は話す。
「落石がまた起こる可能性があるんです」
その言葉に、ルシールは思わず身震いした。
「そして、移動先で同行者が怪我をしていないかを確認し、応急処置を行い、救援を要請する」
青ざめるルシールにようやく気付き、テレンスは口をつぐんだ。
ルシールとテレンスは意識を凝らして周囲の様子から事態を知ろうとした。
しばらくして、がらがらという車輪の音が聞こえてきて、ルシールは弾かれたように立ち上がった。
あんなところに岩が積み上がっていただろうか、と思う間もなく、ひょいとリオンがその上に立つ。長い脚を大きく開き、片方の膝を曲げてバランスを取っている。
いつの間にかどこからか転げ落ちてきて積み上がっていた岩々を、リオンは身軽に登り、姿を見せた。荷車もいっしょだ。
荷車に負傷者二名を乗せ、男に手を貸してやりながら、リオンは危なげなく降りて来る。
「リオン!」
ルシールはなにも考えられずにただただ、リオンに駆け寄った。だが、途中、石がごろごろと転がっていて、足を取られて体勢を崩した。あっと思ったときにはすでに力強い腕に支えられていた。つい今しがた、向こうで岩を降りていたところだったのに、瞬間移動でもしたかのようだ。
「大丈夫。慌てないでゆっくり足を地面につけて」
やさしい囁き声に安心する。言われた通り、そっと足の向きを変えて体重を支える。
ほっとしていると、刺々しい声が突き刺さる。
「ちっ、素人が。こんなときに不用意に動いて邪魔すんな。役に立たなくていいから、大人しく突っ立っていろ」
見れば、【ブヒヒンの荷車】に付添っている男性だ。魔道具にはふたり横たわっている。がけ崩れで足を取られたというけが人だろう。
殺気立った言葉は、言い方は悪いけれど、事実だ。ルシールは唇を噛んで悄然とする。
「ごめんなさい」
「気にすることないよ。不安だったんだろうから」
リオンはいつもと変わらずやさしい声音でそう言った。
ルシールを抱えたまま、振り返る。と、刺々しい声の男性は怯んだように後ずさった。
ルシールは怪訝に思ってリオンを振り仰ぐが、「うん?」と小首を傾げる表情は穏やかだ。
「なるほど」
テレンスが後ろで得心がいったような声を出した。
「この先はがけ崩れで通れない。上に登って山小屋へ入ろう。そこに【通信機】があったはずだ」
リオンの言葉に異論は出ず、一行はまだ辛うじて見える道を登った。
刺々しい声の男性はディックと名乗った。三十代くらいに見えるディックは鉤鼻の採取屋だ。駆け出しの採取屋ふたりを引率していたのだという。そのふたりはけがをして意識を失ったまま、【ブヒヒンの荷車】で運ばれている。
採取でがけ崩れが起きて足止めされることもあるとリオンは言う。山小屋へ向かう最中にほかの人間とも合流した。
しゃがみこんで怯えていた二十代半ばの男女だ。リックとエリと名乗ったふたりは、魔道具の荷車を連れた採取屋に希望を見い出し、何とか立ち上がって歩き出した。
うっそうとした緑から唐突に木製の小屋が現れた。緑が密集しているので、間近に寄らないと目視できない。
「山小屋だ。ここは無事だったか」
ディックが山小屋へ向かって走り出した。
「リオン! リオンじゃないか!」
ディックが小屋に入ってしばらくしてから出てきたのは、リオンと同年代の男性だ。
「ルイスもテトス山にいたのか」
ルイスはくすんだやや長めの金髪を、さらにひと房だけ長くしている。細めの眉の下に青色の瞳がある。
「けが人がいるんだって?」
ルイスはディックからけが人がいると聞いて出てきたようだ。
「ああ。ルシール、テレンスさん、彼は俺の友人のルイス。採取屋だよ」
リオンはルシールとテレンスに友人で採取屋だと紹介した。
「ルイス、彼女はルシール、そちらがテレンスさんという学者だ」
「ああ、もしかして、ハニーちゃん?」
ルイスはルシールをまじまじとみてぱっと顔を明るくする。
「お前ね———」
リオンが片眉を跳ね上げて応戦しようとしたが、ルイスが遮る。
「おっと、その話は後、後。まずはけが人だ」
急場にてきぱきと動く。まず荷車を小屋の前に横付けし、リオンといっしょにけが人を中へ運び入れる。
ルシールとテレンスはふたりの指示に従って動いた。




