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柵の隙間をのぞき込めば、はるか下に山形に盛り上がり沈んでいく海面が、太陽の光を弾いてきらきら輝いている。一定のリズムで繰り返されるのを、ルシールはぼんやり眺めていた。ときおり吹き上げて来る海風がまろやかな頬をなで、茶色の前髪をかきわけて額をむき出しにする。
グランディディエリは群島で形成されている。そのうち、最も大きな七つ島は長い橋でそれぞれ結ばれている。隔てる海が大河のように思えるほど間近にある。
地殻変動によって海で隔てられたが元はひとつの大きな島だったのではないかという学校の先生の説明を思い出していると、声が聞こえてきた。
「おっと、」
真後ろを通る人の声に、ルシールはとっさに振り返った。
「おっとっと、」
思わず出たという風情の声は、次第に困惑するものに変わる。
両手いっぱいに荷物を抱えたおじいさんの腕から、落ちたものが石畳を転がっていく。おじいさんは拾うどころではない。今にも第二陣が落ちそうなのだ。
ルシールは機敏に動いて転がっていく小さなものを追う。あんなに小さければ柵の隙間から落ちるだろう。
と、ルシールよりも敏捷に動いてさっとそれをくわえた者がいた。
「猫! ……じゃない?」
つるりと光沢があり、毛皮はない。けれど、形は猫だ。香箱座りという四肢を身体の下に仕舞いこむ姿だ。その格好で動いている。よくよく見れば、下に車輪がついている。
しゃがんで猫の身体の下を覗き込むルシールに上から声が降ってくる。
「それは魔道具だよ」
見れば、おじいさんが近くにいた。
「これが魔道具?」
見上げて尋ねる。
「そうだよ。鳴き声シリーズって聞いたことがないかい?」
ルシールが顔を左右に振ると、おじいさんが両手で麻袋を抱えなおしながら言う。
「これは鳴き声シリーズの魔道具のひとつで、【ニャーニャの害虫捕獲機】というんだ。ネズミとか黒虫とかを捕ってくれるんだ」
とたんにルシールは鼻に皺を寄せる。黒虫とは親指大の小さくてすばしっこい虫だ。大抵の人は嫌っている。
「あの黒虫を掴まえられるなんて、すごいのね!」
ルシールがそう言うと、猫の尾がかすかに動いた気がした。まるで褒められたのが分かったみたいだ。
「お嬢さん、その【ニャーニャの害虫捕獲機】をこの袋の上に乗せてくれるかい?」
ルシールはわずかに目を見開く。そうしようとするのならば、この猫の姿をした魔道具に触らなければならない。言い換えれば、持ち主から触っても良いというお許しが出たのだ。
「猫さん、ちょっと抱っこさせてね」
ルシールはそっと両手で猫を掴む。見た目通りつるつるしている。落とさないように両手で持ち上げ———届かない。おじいさんの抱える麻袋の上には手を掲げてももっと上にあるのだ。しかも、いっぱい入っているからおじいさんは身動きが取れない。
「わたし、この子を抱っこして行きましょうか?」
「そうしてくれるかい? その子もお嬢さんには大人しく抱きかかえられている」
ルシールは抱えた猫の形をした魔道具をなでた。本物の猫のように温かく、けれど、生き物とは違って硬い。
「おや、お嬢さんのことが好きなようだ」
「そうなの?」
「ほら、耳が動いているよ」
「本当だ!」
おじいさんはマーカスと名乗り、魔道具師をしていると話した。
「わたしはルシールって言います。ルシール・ステルリフェラです」
「おや、お嬢さんはステルリフェラ家の人だったのか」
歩きながら、ルシールが抱える魔道具は、中にモーターが入っていて魔力で動くから熱を発して温かいのだとか、鳴き声シリーズの魔道具は動物を模した一部分がまれに動くことがあるのだとか話してくれた。
「この魔道具は若い奥さんがどうしても黒虫が嫌だというので、旦那さんがお金をためて買ったものでね」
購入したは良いものの、不具合が出たと言って工房に持ち込まれたので修理していたのだという。
マーカスについて歩くルシールは、エイベル橋に向かっていると気づいて、どきりとした。 ルシールの家があるのはレアンドリィ島で、エイベル橋を渡ればペルタータ島だ。足を踏み入れたことのないエイベル橋を渡るとき、少しばかり緊張した。
満潮時にも海に呑み込まれない橋はいくつもの頑丈な橋げたで支えられている。橋にも柵があるが、風が強く、気を抜くと真っ逆さまに落ちそうだ。毎年何人かは海に落ちる者がいる。
「こっち側に来たの、初めて」
ルシールはレアンドリィ島から出たことはない。
エイベル橋から続く階段を下り、ペルタータ島に足を踏み入れる。七つ島は橋のたもとに都市を形成している。なので、橋を渡れば隣町へ行ける、という感覚だ。それでいて、七つの島はどれも広く、山や森、川や平原を持ち、そちらへ行く方が時間がかかる。
「おお、そうだったか。わたしの工房はもうすぐだよ」
魔道具は内蔵機関を魔力で動かす便利道具である。その分、値段は高いものの、庶民でも背伸びすれば手が届く物品だ。
「そら、着いた」
言って、おじいさんは抱えていた大きな麻袋を地面に置いて、ポケットに手を入れた。
「あれ?」
「うん?」
声を上げるルシールを、マーカスが見下ろした。そして。
「あ」
目を丸くする。
「すまんかった。こうやって荷物を一旦下せばよかったんだよなあ」
そうすれば、わざわざルシールに持ってこさせることもなかったと眉尻を下げるおじいさんに、ルシールは慌てて言う。
「ううん、いいんです。エイベル橋を渡れたし、それに、魔道具工房なんて初めて来たんですもの」
それに、この鳴き声シリーズの魔道具を気に入ってもいた。
「そうかい? じゃあ、せっかくだから、中を覗いて行くかい?」
「いいんですか?!」
ルシールはやや前のめりになった。マーカスはにこやかに鍵を開けて扉を向こうへ押しやった。
「もちろん。さあ、どうぞ。あ、」
麻袋を抱え上げたときに、また落とし物をしたのを、ルシールが空中でキャッチする。
やった、と思うルシールが視線を上げると、マーカスと目が合った。ふたりはどちらからともなく、ふふっと笑い合う。
先にどうぞ、と促されてルシールは胸を高鳴らせながら魔道具工房へ足を踏み入れる。
「わあ!」
ルシールは柔らかな翡翠色の瞳を輝かせた。
そこは一般的な店舗の造りで、カウンターとその向こうに棚があり、奥に通じる扉がある。
防犯上、カウンターを挟んだ客側には商品は置かない。商品を素早く掴んで扉から飛び出し、逃げられては追い損ねることがあるからだ。そうなると、カウンターの向こうの壁一面に棚が設えられ、所狭しと商品が並ぶことになる。
棚にはガラス戸がつき、施錠されている。
「これ、全部魔道具なんですか?」
「そうだよ」
おじいさんはカウンターの奥の扉を開けて荷物を運ぶ。ルシールは抱えていた【ニャーニャの害虫捕獲機】をカウンターに置き、工房の扉を閉めた。
カウンターは十一歳のルシールの目の高さくらいで、両手をかけ、つま先立ちして棚の商品を眺める。
「こっちへおいで」
扉の向こうからおじいさんが顔を出し、ルシールが置いた魔道具を回収する。その際、マーカスが差し出した手にずっとくわえていたねじをぽとりと落とす。魔道具はちゃんと捕獲したものを受け渡して役目を終えたのだ。
ルシールは工房の中が見られる!と浮き浮きとカウンターを回る。カウンターに隠れるようにして細長い机があり、ナイフや定規や色んなものが転がっている。ここで店番をしながら作業をするのだろう。
マーカスの後ろから入った部屋はものすごくごちゃごちゃしていた。いろんなものであふれていた。
両側の壁にはコンロや通信機、掃除機といった家庭用品や道具のほか、ルシールには何に使うのかちょっと想像もつかないようなものが並んでいる。
奥には机がある。そこにも物が置かれ、あふれ出て床にも積み上がっている。先ほどマーカスが抱えていた麻袋はすでにその風景に同化していた。
マーカスは麻袋から取り出した石ころのようなものを机の上に置く。
「それはなんですか?」
この部屋にあるありとあらゆる物について興味があったが、まずはマーカスと出会うきっかけとなったものから尋ねることにした。
「これは<夢みる水晶>だよ」
「<夢みる水晶>」
なんてきれいで素敵な響きの名前だろう。瞳を輝かせるルシールを見て、マーカスは机の引き出しから鍵を引っ張り出す。
「ええと、たしか、」
マーカスは鍵付きの棚を開錠して中をごそごそやって、平べったい大きな箱を取り出した。机に置き、蓋を開ける。
「わあ、きれい!」
「この透明なものが汚れを取り除いて研磨した<夢みる水晶>だよ」
「こっちのは青色っぽく見えます」
「そっちは<夢みる青水晶>だよ。こっちの緑がかったのは<夢みる緑水晶>だ」
「すごい。宝石みたい」
ルシールがため息まじりに言うと、マーカスは少し詰まった。
「おじいさん?」
「いや、その、ばあさんもそんな風に言っていたなと思ってね」
ルシールはなんとなく、それ以上聞いてはいけないような気がした。そして、マーカスの続く言葉に興味を逸れた。
「貴石ではないけれど、魔道具には欠かせない鉱物なんだよ」
ルシールはマーカスにあれこれ尋ねた。マーカスは面倒くさがらずにひとつずつ答えてくれた。ルシールは魔道具工房の中のものたちにすっかり魅了されていた。
「ときに、ルシール嬢ちゃん、おうちは? そろそろ夕方だけれど、大丈夫かい?」
とたんにルシールの表情が曇る。
両親は妹の面倒ばかり見て、なにかと「お姉ちゃんでしょう」と言われ割を食うので、ひとりで遊んでいることが多かった。ほかに兄もいるが、友だちとつるんでばかりで、年下の異性の兄弟を構おうとしない。両親も跡取りで唯一の男子であるから、非常に甘い。
マーカスは幼いルシールがどこか大人びた沈んだ表情をするのに察し、それ以上は追及することはなかった。
そして、すっかり魔道具とそれに使われる器材に魅了されたルシールは以降、たびたび工房を訪ねるようになった。