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ざあ、と風が梢を揺らす。
陽光を浴びた木の葉が風にそよぎ、緑の輝きが躍る。その梢に鳥が止まる。黒い羽毛に点々と白い斑点がある。昼でも夜空を思わせる模様を持つ、ホシツバメだ。
チュルルーリリ、チュルルーリリ。
ひょい、ひょい、と何度か顔の角度を変えた後、飛び立ち、隣の樹木の枝に移る。葉が扇状に立ちあがった珍しい風貌の木だ。鳥はその木の鮮やかな青い実を、素早い動作でついばむ。
「痛っ、痛い! そう突くな。治療してやるだけだから」
上がった悲鳴に、視点は周囲の木々から地面の方へと移動する。
しゃがみこむ白髪の老人が両手でそっと掴んだ鳥を説得している。鳥は翼をばたつかせ、自分を拘束する手を何度も嘴でつついている。
片足に木片が引っかかっていて慎重に取り去る。短く太い指が、繊細な動きをする。
「あっ」
もういいだろうとばかりにホシツバメはばっと飛びあがった。
「大きな傷はないから、自然治癒に任せればいいだろう」
そう言いながらも、イーロはつい、つい、と虚空で弧を描くホシツバメから視線をそらさない。
と、ホシツバメはユハニの頭に舞い降りた。
なんでそんなところにと思うものの、鳥からすれば、人間に止まるのなら頭が一番止まりやすいのかもしれない。
「助けてやったわしの手は突いたのに、なぜ、ユハニに止まるんだ!」
ほほを膨らませて不満を述べるイーロに、ユハニは笑い声を上げる。
「だって、先生、動物からしたら痛いことをされたとか自由を奪われたとか、そんな感じだよ」
「うぬぬぬぬ」
イーロは鳥に嫌がられながらも、とても幸せそうだ。
「こんなに立派に育つなんて、このグランディディエリ群島は不思議な場所だね」
「ああ。これも苗木をいくつも持ち出したお前のお陰だよ、ユハニ」
イーロがそんな風に褒めてくれるのに、ユハニは大荷物になっても、残されたタビビトの木の苗木だけは持ち出して良かったとしみじみ実感する。
「しかも、ホシツバメがやって来たのは嬉しい誤算だった。この大陸の狭間の群島諸国付近で見失ってしまってから、もはや二度と会うことはないと覚悟したんだがね」
「本当に。ラヴィネンのときと同じく、ホシツバメの目ざとさはすごいものだね」
ほほを紅潮させて目元をなごませるイーロが心から喜んでいることが分かったから、ついユハニはそんなことを言ってしまった。国を出てから故郷のことには触れないようにしていたというのに。
「きっと、空の上からもこのスターブルーの鮮やかさは目立つのだろうよ」
ラヴィネンのことには触れず、イーロはなにごともなかったかのようにそう答えた。
イーロは口にはしないけれど、たぶん折に触れて故郷のことを思い出しているだろう。ユハニがそうであるように。
特効薬はどうなったか。木を切り倒してしまったのだから、別の薬を開発したのだろうか。
「旧派の特効薬があるから大丈夫だろう」
けれど、新派が特効薬をつくれなくなったとたん、値を吊り上げることもあり得る。
それにもし、旧派もなんらかの事情で薬をつくることができなくなったら。新たな特効薬ができず、タビビトの木とホシツバメがいないせいで薬がつくれなくなっていたら。
すべては想像に過ぎない。けれど、嫌な考えは後から後から出てくる。
ユハニもイーロも、怖ろしくてもはやラヴィネンに戻りたいとは思わない。根拠のない噂で人を貶め、非難する。その悪意がおぞましい。ひとりふたりではない。顔も見えない大勢の人間が、やってもいないことで自分たちを非難したのだ。
そう思うと同時に、自分たちだけがこの穏やかな環境で暮らす後ろめたさは、常に付きまとっていた。
タビビトの木は葉柄に雨水を溜め、乾燥地帯の旅行者にとって貴重な水の供給源となる。グランディディエリ群島はタビビトの木のようにユハニとイーロの心を潤してくれた。その癒しは故郷にこそ、必要なのではないだろうか。
ユハニが弟を失ったように、病で家族を連れて行かれる者がいる。
親に捨てられたのでも、病でも、理由はどうであれ、喪失はごっそりと心を奪う。唐突にもぎ取られる痛み。そこにいるのが当然で、そのぬくもりだけが存在するよすがだったのに、それを失った冷たい虚無感。なにをしていても付きまとう違和感。
それを、故郷の人たちは抱えているのだ。そして、いつほかの家族もとられるかと怯えながら暮らしている。周囲の国へ逃げ出すこともできずに。周囲の国も原因が分からず、食い止めることができないなら、自分たちも同じ目に遭いたくないと思うだろう。
辛いだろう。悲しいだろう。
助けてやりたい。
でも、同時に、ユハニを救ってくれたイーロを、不当に侮辱して追い出した者たちだ。
イーロは、食べて寝て排泄するだけの単なる動物だったユハニを人間にしてくれた人だ。ろくにしゃべることもできなかった。子供は会話から言葉を学ぶ。その会話する機会を、ユハニと弟は与えられなかった。母親との暮らしが異様なものだと気づくことすらなかった。人として必要なものはみんなみんなイーロが与えてくれた。だから、イーロはユハニの「先生」だ。
イーロは素晴らしい鳥類学者なのに、研究成果も全部取り上げられた。
だから、魔道具に託そうと思う。自分が魔道具師になれたのもイーロのお陰だ。
もしかして、誰かが故郷を救う手立てを必要として探しているなら、ここに特効薬の材料があると示す。
そう話すとイーロは乗気になった。
「ユハニの魔道具は素晴らしいからね。きっと誰かが気づいてくれる」
そして、必要ならここへ来て、この樹を見つけるだろう。
「うつくしいスターブルーだ。こんなにきれいな木の実はほかにはありやしないよ」
だから、きっと気づく。ホシツバメのように。鳥が高いたかい空の上からでも気づくのだから、人間もきっと見つけてくれる。
イーロとユハニはここで幸せに暮らした。願わくば、故郷の人たちにもこの温かさ、穏やかさが届きますように。
「あくまで仮説だけれどね。でも、動物の世界というのは、そういうものだよ。生存競争だ。そこには自分と仲間が生き延びるというものしかない。生きるか死ぬかをひっくり返すためにやっているんだ。まあ、稀にいたぶることが高じて相手を死なせることもあるだろうけれどね。それは相手の弱さが分かっていないからさ。ところが、人間は違う。贅沢な暮らしのため、評価を高めたいがために、自分の勝手な感情のために、奪い、傷つけ、」
そして、死に至らしめる。
それが相手にどんなダメージを与えるか想像することができるのにしないままやる。そして、その責任は負わない。自分が悪いのではない、誰もがやるだろう、ならば自分がやってなにが悪いと思い込むことで心理的圧力から逃れようとする。
「動物は同種同士で争わないというのはガセだね。だって、縄張り争いなんかでどちらが上か、しょっちゅう争っている。その怪我がもとで死に至ることもある。人間もね、結局は動物なんだよ。縄張り争いなんて、大勢を巻き込んでやるから、とんでもない規模に影響を与える」
縄張り争いは戦争のことだ。相手を傷つけるための道具、兵器を用いるようになってからは、犠牲者は格段に増えた。
しばらくしてから、イーロがぽつりと言った。
「だから、この運命からは逃れられないのかな」
そして、ホシツバメを目をすがめて眺める。それは鳥を通してはるか遠くに目を凝らしているようだった。鳥が飛んできたそれまでの過去を。その翼に乗せてきたものを。見通そうとでもしているかのようだった。
ホシツバメは自分のために生きた。
その習性を人間が利用しただけだ。そうして特効薬をつくりだした。
共存関係というものはそういうことだ。
そこにはなんの感情も入り込む余地はない。すべては生存のためだ。そしてそれは、人間側もそうだ。
けれど、この場所のあまりにうつくしい光景は、心を打たずにはいられなかった。
人間はそうやって感情に大きく影響を受ける。
その感情で奪い、傷つけ、そして、他者を救おうとし、うつくしい光景を守ろうと力を尽くす。そこになんの利害関係もなくても、そうしようとすることもある。
人と動物の違いはそこにあるのかもしれない。
自分が生き残るためだけではなく。
ほかの者を助けるために。
ひとつだけの特質ではない、力や技術や知恵、さまざまなものを合わせる。それが大きなうねりを生み出す。
そうして、ほかの動物にはない大きなことをなす。
「どうか、どうか」
「先生も僕も臆病だから」
「故郷は助かってほしい。でも、」
「恐ろしくて、」
「あのときのことを思い出すと、」
「蔑み、傷つけようとする目つき、嗜虐に満ちた言葉」
「でも、あそこで苦しんでいる人たちがいる」
「誰か、この歌を聞いたら、この鳥に見覚えがあったら、そして、この木の実があの病から救う手立てなのだと知っているのなら、」
「自分が死ぬのは怖くない。ようやく、弟に会えるのだから。先生をひとり遺さずに済んだことは自分の誇りだ。取り残される恐怖を、あの冷たい悲しみを、先生にだけは味合わせたくなかった。その先生にももうすぐ会える」
「幼いころ虐待を受け、栄養不足気味で身体が小さく弱かった。だから、あまり長くは生きられないのは分かっていた」
「弟を失ってからは先生が世界の全てだった。先生を喪ったとき、生きることに十分満足した」
「先生の願いを叶えたかった」
「先生がずっと気に病んでいたのは、故郷が救われること」
「どうか、どうか」
故郷を救ってほしい。
どうしようもないことは、世の中にたくさんある。
エルの望みは叶わない。もはや彼らに謝罪の言葉は届かない。名誉が回復されたことも知らせることはできない。
けれど。
イーロとユハニは傷つけられた相手であっても、距離を取った後は、故郷の人々の安寧を願った。だから、もし、なにかがあってその薬がつくれなくなったときのために、魔道具にここにタビビトの木とホシツバメがいることを伝わるように、魔道具に託した。
そのやさしい気持ちが今まさに一条の光となって、ラヴィネン国を救う道筋を示していた。
スターブルーの木の実と鳥をあしらった魔道具が「抱えて」いたことを、総督らに提示してみせたルシールは両手を握り合せる。
「助けることができるかもしれないんです。彼らが望んだとおり、希望が残されているかもしれないんです」
彼らの望みの一部は果たすことはできるかもしれない。
今、なにもせずに安全な場所でただ心を痛めているだけでは、手遅れになる。
「どうか、お願いします。総督であっても北の大陸の人間であっても、失えない愛するものを思う気持ちは同じです」
目の前で愛するものが失われようとする恐怖を、心の痛みを、苦しみを。どうか他人事だと思わずに手を差し伸べてほしい。
ルシールは懸命に懇願した。




