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朝市での騒動の後、さすがに食欲が失せたルシールは、朝食はジュースだけで済ませた。
リオンはずいぶん心配し、「観光はやめにして帰る?」と言ったので驚いて顔を見上げた。
「どうして?」
「いや、あんなことがあったからショックだったかなと思って」
「騒動を起こしたのだから、帰った方が良いかしら」
ルシールは肩を落とした。せっかくの旅行なのに、リオンに嫌な思いをさせてしまった。
「いや、大丈夫なんだったら良いんだけれど」
「大丈夫よ」
若手交流会で散々言われてきたことだ。先ほど執拗についてきた若い男性は、いわばモフェスやダルトンと同じような考えの持ち主なのだ。
「要は、言いやすい相手に絡んでくるのね」
リオンはルシールは強いな、と思う。強くならざるを得なかったというのもあるだろう。
魔道具師だけでなく、女性が職に就いた後、性別によって嫌な思いをさせられ、退職するというのはよく聞く話だ。中にはとんでもないひどい目に遭うケースもある。だが、ちょっとした嫌なことですぐにへこたれてしまう者もいる。
ルシールも若手交流会でいろいろあったと聞く。
彼女はその鬱憤を魔道具作成にぶつけた。さきほどの採取屋とは違って、自分の中で感情を消化した。その結果、新発明をしてしまうところがルシールらしいと言えばらしいところだ。悪感情を糧に大きなことを成し遂げた。
「デレクさんにも言われたの。女性だから軽くみられるのだと」
ならば、くよくよしたってしょうがない。性別など、ルシールには覆せないものだからだ。ただ、どうしても嫌な気持ちになる。そんなときは魔道具づくりに没頭するか、リオンや友人たちに話を聞いてもらい、スイーツなどの美味しいものをたくさん食べることにしている。
「帰った方が良いならそうするけれど、リオンの知り合いの元採取屋のファーガソンさんには挨拶をしていかない?」
せっかく近くまで来たのだから顔を出そうというルシールに、リオンは頷いた。
ファーガソンが営むツアー会社がある街へはアパネシーから乗合馬車に乗って向かった。海沿いの小さな街だが、ここも観光客が多い。
ルシールは今朝がたの騒動を思い出して人混みの中へ入って行くのには思わず足がすくんだが、リオンが手を握ってくれたから、進むことができた。
リオンはそんなルシールの感情の機微を敏感に読み取っていた。どれだけ強くあろうとしても、そして、実際強くても、傷つかないわけではないのだ。
「やっぱり、観光して行こうか。きれいな景色をファーガソンに紹介してもらおう」
元採取屋だから、きっといろいろ詳しいよ、と言うリオンにルシールは笑顔で頷いた。
自分が進んで行けるのはリオンやマーカス、そしてデレクたちや友人たちがいるからだ。
ふたりはファーガソンのツアー社に向かう。こぢんまりした構えだが、カラフルに彩られ、人の目を惹く。リオンは扉を開く前に周囲を見渡した。一度あることは二度あるかもしれない。
だが、扉の向こうにはあの輝かんばかりの容姿の持ち主はいなかった。胸をなでおろす。
「お、来たか! 久しぶりだな、リオン!」
カウンターにけだるげに肘をついていた三十代半ばの男性が顔を上げる。顎にはまばらに髭が生えていて、ちょっとよれたシャツを羽織っている。
「ああ。今日はよろしくな、ファーガソン。こちらはルシールだ。ルシール、彼が元採取屋のファーガソンだ」
「初めまして。今日はよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ! リオンが恋人を連れてくるって言うから貸し切りにしたよ」
カウンターを回って来たファーガソンが両手を大きく広げてみせる。
「いいのか?」
天気の良い秋ともなれば、かきいれ時だろう。なんなら、真夏よりも過ごしやすいので観光客は多い。
「いいの、いいの」
ファーガソンは鼻歌でも歌いそうなほどの上機嫌ぶりだ。
リオンとルシールの荷物を預かり、ふたりを押し出すようにして外へ出る。
「いやあ、リオンから恋人を紹介される日が来るなんてな!」
ファーガソンは手に持った鍵束を振り回してジャラジャラと音をたてる。そのうちのひとつを使って工房の鍵を閉める。
「さあさあ、出発だ!」
「なんだよ、ファーガソンの方が楽しそうじゃないか」
「ふふん。元採取屋の知識を惜しげもなく組み込んだ俺のツアートークを聞かせてやるよ」
笑うリオンに、ファーガソンは自慢げに宣言する。
「ファーガソンさんもリオンやアランさん、ルイスさんのような物知りの採取屋だったのね」
ふたりの仲の良い様子に、思わずルシールもほほ笑む。
「お、ルシールさんはアランやルイスも知っているのか。久しぶりにあいつらとも酒が飲みたいな!」
三人で連れ立って海側に向かって歩きながら話は途切れない。ファーガソンは明るく嫌味がなく、話しやすい人物で、すぐにルシールも打ち解けた。確かに、ツアーコンダクター向きの性格をしているかもしれない。
「あいつら、どうにかしてルシールと食事に行こうとするんだ」
「なるほど。それでリオンはふたりきりになるのを邪魔されているんだな?
思わずこぼすリオンに、ファーガソンはすぐに状況を把握する。
「前もそんな感じのがあったなあ。そうそう。カイルだよ。リオンの弟のカイルに俺も兄ちゃんだって主張していたな。なんだ、あいつら、相変わらずだな!」
言って、ファーガソンは軽やかに笑う。
しかし、そんな明快さは続かなかった。
埠頭に碇泊しているファーガソンツアー社の舟の前に人だかりができていた。
「なんだなんだ?」
「———嫌な予感が」
慌てて自分の舟に向かうファーガソンに、リオンが眉をしかめ、ルシールの手を軽く握る。
「あなたがファーガソンツアーのファーガソンさんですか?」
人の輪が崩れ、そこから進み出たのは白銀の男性だった。
絹糸のように光沢のある白に近い銀髪、薄い水色の瞳が涼やかな美貌の持ち主だ。
「げっ、白氷?!」
ファーガソンが思わず上げた声に、形の良い薄い唇が弧を描く。怜悧な光を放つ目はまったく笑っていない。
「ご存知なら話が早い」
言いながら、ファーガソンから視線を外し、向こう側を見た。つまりはルシールとリオンの方を。
今度は礼儀正しいほほ笑みを浮かべて一礼する。
ルシールは戸惑いつつも会釈を返した。
「リオン、知っている方?」
「知ってはいるけれど、面識はないな」
リオンが呻くように言う。
「わたしどももツアーに参加させていただきたい」
ルシールとリオンがやり取りする間、男性はファーガソンに視線を戻した。
「いや、今日は貸し切りで、」
「それは重畳」
まるで、自分たちも参加するのだから、余計な者はいない方が良いと言わんばかりだった。いや、彼はそう言っていた。
「申し訳ないのですがね、今日はご遠慮願えませんか?」
ファーガソンは腹を括ってきっぱりと断った。ファーガソンもまた彼が誰なのか知っていた。権力者に断りを入れるのは不興を買いかねない。胆力が必要だ。
「貸し切りにされたのは後ろの方々でしょうか?」
「そうだが、」
「では、彼らから了承を得ます」
言って、涼やかな美貌の持ち主がルシールとリオンの方へ歩み寄って来た。
「初めまして。わたしはファレルと申します」
ふたたび一礼して見せるファレルと名乗った男性に、リオンの眉間のしわが深くなる。
「あの、」
なんと言って良いか、ルシールは戸惑った。
「突然、申し訳ありません。わたしはレプトカルパ総督府の者です」
ルシールは息を呑んだ。
「では、」
そして、やはりどう言えば良いのか分からず、言葉が途切れた。そんなルシールにファレルはほほ笑んで見せる。
「わたしはクリフォード・レジティ・レプトカルパ総督に仕える者です。姉上さまにお会いできてこの上なく光栄です。以後、お見知りおきを」
ああ、やはり、とルシールは腑に落ちた。そして、リオンはだから、「知っているが面識はない」と言ったのだ。おそらく、レプトカルパ総督の側近の特徴を知っていたのだ。特に、ファレルは目を惹く容姿をしている。
そして、ファレルもまた、クリフォードが冗談でルシールを姉と呼ぶのを知っているのだ。
「姉というのは、クリフォードさまの冗談で、」
ルシールがしどろもどろながらも説明しようとしたときのことだ。
向こうの方から車輪と蹄が地を蹴る音が聞こえて来る。
ルシールも、このときばかりは事態を悟る。
ファレルが立ち位置を変え、頭を下げ馬車を迎える。
馬車はゆるやかに速度を落とし、見事な腕前でルシールたちの眼前に停まる。
御者が動く前にファレルが恭しく扉を開く。
予想した通り、馬車からしなやかな身のこなしで降りて来たのは、若きレプトカルパ総督である。
ルシールは棒立ちになり、リオンは脱力のあまり膝をついた。
「総督だ!」
「レプトカルパ総督だ!」
「ばんざーい!」
「レプトカルパ総督、ばんざーい!」
埠頭に集まっていた人々が自島の総督を間近にし、歓声が上がる。歓声は次第に称賛へと変わった。
「すごい人気ね」
ルシールは呆然とつぶやいた。
「島民に愛されておられますから」
いつの間にかファレルが傍らに佇んでいる。
「総督の統治によって豊かに暮らしています。総督によって自由を、幸福を、楽しみを味わっています」
これはとある詩人がつくった詩で、七つ島に広く伝わっている。
七つ島の豊かさを羨む南北大陸の一部では権力者に媚びていると言うが、誤りだ。自分たちの暮らす世界に平和をもたらした者に感謝と尊敬の念を抱くのは自然な成り行きである。一方で、総督には独自の受け取り方がある。
「島民の暮らしを豊かにしてこその総督だ」
つまり、七つ島を守ってこその総督だというのだ。
いつも評価、いいね、誤字報告ありがとうございます。
一度だけでは終わらないです。
朝にあんなことがあったから、心配したのだと思います。




