精神転移
アビゲイル・リードは片親だった飲んだくれの父を亡くした。その日のうちに、口ばかりだったけれども許婚だった幼馴染の男から一方的な婚約破棄を告げられる。ああ、そうわかったと、アビゲイルは頷いた。それしかないではないか。泣き喚いて縋ったところで惨めになるだけだ。アビゲイルは取り立てて特筆すべきところのない凡庸な娘だ。悪い点を挙げれば目つきの悪さと血のような色の髪に肌に目立つそばかす。村の少女たちには、許婚の男の見目がいいことからやっかまれて、容姿についても性格についても陰口をたたかれていた。おかげで、自分のことがわからないのに過剰に気になる思春期において、他人からの目線で見た自分というのを知るのに事欠かなかった。もちろん、悪しざまに言われているは知っている。けれどもそこに、客観的な事実は、あるに違いなかった。森の中の川辺で自分の姿をみる。夜空の星が映って明るい川の流れは、少女の姿をよく映した。そこには女らしい柔らかさとは無縁の、枝のような小娘がいた。そばかすがあるのならば、もうすこし肌の色は濃ければいいのだ。肌が白いのならば、そばかすはいらない。目許と頬がカサカサと乾燥していた。目の下には皺さえ入っている。手はそれらよりずっとひどい。あかぎれのある手のひらは、水仕事で皺皺だ。白い豚の皮を枝に張り付けたような指、と少女のひとりが話していた。上手いことを言うものだ、と自嘲して笑う。その少女は確か、狩人の父を持っていただろうか。獣臭いと他の少女たちに陰口をたたかれていた。少女たちの輪というのは、そういう表面上だけの薄っぺらいもので、何の価値もないように思える。必死に縋りつくその少女も、平気で陰口を言う他の少女たちも、特別悪気があるわけではないのだ。そこがおそろしいとは思った。けれども自分もそれらの少女とそう変わらないということを知っている。いや、星空の下にさえ明らかになる自分の容貌に、外見としてはるかに劣っているという事実が、よりアビゲイルを惨めにさせ、卑屈にさせる。
価値のない存在。美しくなければ。美しくなりたい。アビゲイルは目つきの悪い小娘が映る川の流れを手でぐちゃぐちゃにした。星が消える。その時だった。
――空の果てから声が降って来た。
その声は歌声となり、聞き入る中で、アビゲイルはいつの間にか、遠いどこか別のところにいる人物と、意識がつながった。目を瞬かせると、森から見える空と重なって、つながった相手の姿が見えた。
それは異国の少女だったが、アビゲイルが驚嘆する程美しかった。長い黒髪は艶やかで、大きな瞳から溢れる涙は春の朝露よりも輝き、しっとりとした白い頬を伝った。染みや皺、そばかすがない、つるりとした魚の腹のように白く滑らかな肌だ。その身なりも豪奢で美しく、見たことのない艶々と光輝く布が幾重にも連なって肢体を覆い、煌めく宝石の付いた指輪と、大輪の花の髪飾りが髪に活けられていた。顔を覆っていた指は極彩色の袖からほっそりと出て、仄かに色づく。それは滅多にお目に掛かれない良質な牛脂のような滑らかさだった。長い睫毛が縁どる、闇よりもなお濃い、黒い瞳がアビゲイルを捉えた。また。朝日の輝きを閉じ込めたような涙が大きな目の縁から、はたと零れ落ちる。アビゲイルは息を吐くことも忘れて見入った。
――空から聞こえてくる歌声を頭で聞いていた。歌声が囁きとなって何かを唱える。
それを唱えると、今、風景と重なって見える美しい少女と、アビゲイルとか中身だけを入れ替える契約が成立すると何故だか悟った。
アビゲイルはそれを望み、異国の少女もそれを願った。
契約は成り、歌声の消失と共に、二重に重なっていたどこかの景色は消え去った。
川の瀬に残されたのは、赤毛に緑の瞳、白い肌にそばかすのある村娘。
つい先ほどまで、たった一人の肉親を亡くして身寄りがなくなってしまい、自身の先行きを悲嘆していた少女だ。
今はすんなり立ち上がると、あちこちを見回しながら、自分の家に戻っていった。
足取りは軽く、まるで妖精が踊るかのようだった。
ガタガタと扉を開けて、いつも横になっている寝台へそっと倒れ込む。
フクロウと森のささやきを聞きながら、瞼を震わせながら目を閉じた。
見慣れない天井が目に入り、体を起こしたアビゲイル・リードは、扉が開いたままの無人の部屋に目をやり、途端に寂しく思った。アビゲイルを産み育ててくれたアビゲイルの父も母もいないのだ。天涯孤独の身。親族や身寄りがない――しかし今のアビゲイル・リードにとってそれは幸運なことなのかもしれなかった。
何処までも行ける足。縛りのない体。労働する手。見たこともない色鮮やかな赤い髪色と翡翠のような緑の瞳。
つまるところ、アビゲイルは自分にとても満足していた。朝日を浴びながら、あまりの光の強さに目を細める。世界が輝いて見える。浮かれた気分のまま川辺でくるりと回った。微笑みが口から自然と零れ落ちようとしていて、ひくりと引き攣る。使い慣れていない筋が痙攣する。もう少し自分の体を把握しなくては、とアビゲイルは高鳴る胸を押さえて、逸る期待にまた引き攣った微笑みを口許と頬に溢れさせた。
顔を指で揉んでから、引き攣りを何とか宥める。次いでとばかりに川で顔を洗った。早朝の早い時間には誰もいないだろうと思い、服を脱いで冷たい川の流水に入った。頭まで浸かって、流れに背を向ける。それから目を開く。すると赤い髪が幾筋も流れに沿うのが見えた。美しい色で思わずうっとりする。水の中の赤い髪を指先で梳こうとして、間違って泳いでいた魚に触れてしまった。心臓が飛び出るほど驚いて、かがんでいた足を一気に伸ばして立ち上がり、顔にかかった髪をかき上げた。すると、小蔭の奥でパキリと音がしたような気がして、振り返る。けれども、誰もいないようだった。気のせいかと思い直して、かき上げた髪を前に持ってきて洗ってから、手で押さえて水気を絞る。そうして川から上がって首に巻いていたスカーフで体を簡単に拭くと、そのまま服を着た。
家に帰り着くなり、少ない荷物を鞄に入れて抱えた。遺品などはすべて昨晩、川辺に来る前に処分してしまったらしい。その時の心境がどんなものであったのかを思い返すのは忍びなかった。……誰にも何も告げずに村を出る。それは父の遺品を処分していた時に決めていたことだ。アビゲイルはそれに従い実行するだけ。
村を出た後からは、生まれ変わったアビゲイルの、本当の意味での自由のはじまりだった。
口歌交じりに歩きながらいくと隣村につく。寄り合い馬車を待つ間に、歌をうたって暇をつぶしていると、老婆が「上手ねえ」と手を叩いた。いつの間にか、人が集まっていた。
「こりゃお金に困ったら歌でも歌って旅費が稼げるね」
「ほらこれを」
「何て歌だろう、聞き馴染みがないがいい歌だ」
「素晴らしい歌声だったよ」
口々に言いながら一緒に待っていた他の人からも、往来で立ち止まった人からも、手を叩いて喜ばれると、次々に銅貨やら銀貨やらを手渡された。
「もっと聞きたいわね」
アビゲイルは、老婆にちょっと目を見張ってから、微笑んだ。
「ありがとうございます。では馬車が来るまでなら」
旅費は、アビゲイルの父とアビゲイルの働いた僅かばかりの全財産だった。あまり手を付けたくはなかった。どう工面しようかと考えていたのだ。手持ちは何もない。あるのは自分、この身一つだけ。受け取ったあふれんばかりの小銭を袋へ入れてポケットの中に入れると、アビゲイルは持っていた水筒を傾け、のどを潤してから、深呼吸した。
歌うのは、ここでは異国の歌。空の青さの歌、恋人を待つ歌、父母を想う歌、望郷の詩。歌い切ったときには、割れるような拍手に見舞われる。いつの間にか馬車は来ていて、御者もアビゲイルの歌を聞きいる人々の輪に加わっていた。
銀貨や銅貨をたくさん投げられ、困っていたところを、老婆がアビゲイルのスカートを掴んで拾い上げてくれていた。
「そのまま持っていてくれ」
「今出すからね」
囲っていた人々がアビゲイルが広げたスカートにたくさんのコインを投げ入れた。
歌った対価だということは分かるが、それでも身寄りがないという状況に、アビゲイルはいつの間にか気が張り詰めていた――そんなときの周囲からの思わぬ援助に、アビゲイルは心打たれていた。
行きづりの人々に助けられていることを実感する。目に涙が浮かんだが、嬉しくて笑う。すると頬がひきつったが、目の縁から涙がこぼれると、その後を追うように頬も緩んだ。
「素敵な笑顔ね」
老婆が最後の硬貨を拾い上げていった。
寄り合い馬車の御者が掛け声をかけて、待っていた客たちをどんどん乗せていく。アビゲイルは、受け取った硬貨がぬくもりを発しているような気がした。
何か返礼がしたい、とそう思った。貰ってばかりの関係で終わらせたくなかった。寄り合い馬車が停まった先の村で、焼き菓子を買うと、歌を聞いてくれた人々や御者に配った。御者にはお疲れ様ですと。老婆や歌を聞いてくれた人々には、心ばかりですがと断って。知らない相手にも配ると、笑顔が向けられるので、なんだか自分がその人達にとって親しい誰かになったように思えた。
歌は――得意だった。アビゲイルではなかった頃に。その頃は何をするのも苦しかった。今は何をするのも楽しい。
もっと歌いたい。もっと声を伸ばして、高く低く。
馬車が停まる度に練習する。すると、周りに人が集まってくる。稀に金貨を投げられることもある。ただの練習だったのだが、しっかりと歌うようになる。ずっと乗り継いでいた老婆やそのほかの村人には、練習したいのだということは分かっていたようで、「人気者だと練習もなかなかできないわねえ」と笑われる。アビゲイルは自然と笑った。
「心のこわばりが解けたようだわ」
老婆が降りるときに声をかけてきた。
「こわばり?」
「気づいていないかしら? 笑顔がとても優しくなったわ」
アビゲイルは目を伏せた。
戸惑ったのだ。そんなことを今まで言われたことがなかった。
「緊張していたようだったけれど、どこへ行ってもその笑顔と感謝の心があれば大丈夫。このお菓子も、歌も、ありがとうね」
アビゲイルは目を見開いた。そして真剣に「はい」と頷いた。
「ねえ、お姉ちゃん、お歌うたって」
「馬車が停まったら」
しかし馬車に乗り合せた人々までも「聞いてみたい」と言ってくる。御者も推すので、アビゲイルは困ってためらったが、反対しているのが自分だけであることに気づいた。
「では少しだけ」
旅路の歌を。
寄り合い馬車はとうとう王都までやって来た。長旅でやっと地面に足を付けた人々は目的の場所へと散り散りになる前に、最後の歌を求めてきた。少し考えて、アビゲイルは歌った、再会の歌を。
木陰に馬車をつけた休んでいた御者も耳を傾ける。
歌い終わり、一時ともに過ごした人々とはそこで分かれた。アビゲイルが王都に来たのは、紹介状があったからだ。行く当てがないので、持っていた紹介状を頼りにしてもよいかと思って来たが、どうにも奉公というのは肌に合わないかもしれないと考え始めていた。なので寄り合い馬車を降りてすぐにところにある広場の小さな水場に座ってどうしようかと考えていた。悩んでいある間、子どもの声が聞こえ、街の人々の憩いの場になっているらしい広場を眺めながら、小さく歌を口ずさんでいた。
「きれいな、歌だ」
その賞賛は寄り合い馬車の中で、アビゲイルが言われ慣れたものだった。
「ありがとう」
「君は誰? どこの子?」
アビゲイルは振り返った。杖を持った背の高い人間がいた。ただ、その人の目には包帯が巻かれ、杖のない方の腕を、お仕着せのようなものを着ている男が支えていた。身なりからして身分が高いもののようだった。アビゲイルは荷物を固く抱き込んだが、その人物が目が見えないのに気づき、傍らの男が答えるように視線を向けてきたので口を開いた。
「アビゲイル・リードといいます。王都には来たばかりで」
「ひとりで来たのかい? 近くに誰もいないようだけれど」
盲目の人物は、顔を少し上げて探すように顔を動かしたが、そういった。
見知らぬ人物に、べらべらと身の上を離したくはなかったが傍らの男の圧を感じて仕方なく答えた。
「……父が先日亡くなったので身寄りがなく。これから紹介状をもらった奉公先へと行こうかと思っていたところです」
行く気はなかったがそう答えた。
身元がしっかりしていると思われたかった。
「どこの家?」
「………紹介状に書いてありますが、忘れてしまいました」
「ジェイド、見てやってくれ」
「はい。どれです」
有無を許さない声音だった。妙な人間に絡まれたと思った。それもどうやらしっかりとした身元の人間のようだ。怪しいいでたちだろうに、広間の人々は彼らに気づくと頭を下げて下がっていく。
いやいやながら差し出すと、書いてある家名を言われる。そして身寄りが全くないことも。
「そうか。君、良ければ家に来ないか」
アビゲイルは首を振った。奉公人をする自信がないと正直に言った。
すると目を覆った人物は笑った。
「それならちょうどいい。使用人ではなく、私のディーバになってほしいんだ」
「ディーバ?」
「ああ、私の傍で歌を歌う仕事のことだよ」
訊けば、貴人は盲目だが、芸術を愛するらしく、特に自分が楽しむことができる音楽を好んでいて、王都では貴族がお気に入りの音楽家を揃えて、毎朝毎晩演奏させるのが流行りらしい。
「どうかな? 先方の奉公先には連絡を入れて断っておこう。ジェイド」
呼ばれた男が、盲目の人間から耳打ちされ、懐から袋を出した。
「受け取りなさい。ひと月にこれだけ渡そう」
中には金貨が五枚も入っていた。アビゲイルは怪しんで問いかけた。
「歌、だけですか?」
「演奏もできると?」
違う意味にとった盲目の人間に、思わずアビゲイルは瞬いた。
「……いくつかの楽器なら、扱えるかと」
「素晴らしい」
杖を握る手に力がこもるのが見えた。
支える男の強い視線を感じ、アビゲイルは頷いた。
「では、お世話になります」
「良い返事だ。私は、ダリウス。ダリウス・フォン・バーシャク。バーシャク公爵家だけれど、五男で目が見えないと来ているから、継承順位も低い。出される食事も毒が入ることはない、気楽なものだよ」
頷いたのは間違えたかと思ったが、ジェイドという男から離した手を、差し出された。
目が見えないのに人に手を差し出す。その行為は、アビゲイルにとって衝撃だった。差し出した手を、取ってもらえないかもしれない。取ってもらえないのに、見えないから出し続けなければならない。しばらくたてば、取ってもらえないのだと悟って下ろせばいいだろうが、アビゲイルの前に出された手袋に包まれたこの人物の手は下げられる気配が全くなかった。
その勇気に、アビゲイルは負けて手を取った。
成り行きで仕事を得たが、これも空の導きだろうかと思うことにした。
寄り合い馬車の向かいに止まっていた、何倍も豪華で大きな馬車に乗らされ、窓から空を見上げた。
新しい人生の幕開けだと。
けれども彼女たちは知らない。これは交差した宿命が――元に戻っただけの契約だと。