第80話 潜入 3
その床はひどくひんやりとしていた。男は壁に背を持たれかけて、片膝を立てて手を置いた姿勢だ。男の他にもそこには二十を数える人がいた。年齢、性別などはバラバラで統一性は見られない。
ほとんどの人間が焦点の定まらない視線でぼんやりとしていた。その視線に生気というものがまるで感じられない。
が、それも無理からぬことだと男は思う。
なぜなら、ここに連れてこられてから丸一日何も与えられていないのだから。
それに、それ以外にも気が滅入る理由はある。
例えば、目の前にある鉄格子。見張りこそいないが、やはりどうしてもここにいると自分が何か罪を犯したのではないかという気分にさせられる。これではまるで牢屋ではないか。
それに加えて、この部屋に吊下がっている電球だ。ここに来るときに魔動車に乗らされたが、あの電球と同じタイプなのだろう。光の強さが乏しく、どうにもこの部屋が薄暗く思えてしまう。
もしかしたら、あの電球の光の乏しさも気分の落ち込みに関係しているのかもしれない。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
身の毛もよだつ咆哮が、この部屋よりもさらに奥の方から聞こえてきた。その声に何人かの人間が身をすくませた。
極めつけはこれだ。正体不明の雄叫び。明らかに人間の声ではない獣の声。おまけに、よくよく耳を澄ますと何か肉を噛む咀嚼音が聞こえてくる。
どうにも自分はとんでもない場所へ来てしまったのではないか。
そんな思いに男は囚われそうになるが、それを振り払う。
いや、自分はここに来てよかったのだ。もう少ししたら、大金が手に入る。そういう話だった。今は我慢の時だ。
そうすれば、俺の望みは叶うんだ。
「ヤメク……」
男――ガゼルは娘の名を呼んだ。
ガゼルは生まれた時から貧乏であった。聞くところによれば父母もガゼルと同じく貧乏だったようだ。
貧乏は連鎖する。
学校に行くにもお金が必要。まともな仕事を得るには職に応じた技術が必要になるのだが、それすらもない。一度貧乏になってしまうと、這い上がれないのがこのサガトでは当然のことであった。
そんな生活に耐えかねた母は自殺し、父はアルコールに溺れて酔った挙句錯乱し、凶獣に食われて死んだ。それからガゼルは一人で生きていたが、ひょんなことから一人の女性と付き合うこととなった。
ガゼルとは気が合い貧乏ながらも幸せで、やがて、女は一人の子供を産むこととなる。それがヤメクだったのだが、女はもともと体が弱くそれを気に衰弱して亡くなってしまった。
本当に呆気なかった。ガゼルは世の無常を恨んだが、赤子がいるので文句も言ってられない。その赤子をヤメクと名付けて、できる限りの愛情を注いだ。多少、人見知りではあるがすくすく育ち、優しい子になったと思う。
それ自体はとても喜ばしいことなのだが、時折、ヤメクは飲食店の人々を羨ましそうに見ることがあった。
ヤメクが物欲しそうにそれを見るのだが、ガゼルはヤメクの欲しがっているものを与えることができない。それが、たまらなく嫌だった。この子には自分と同じような思いをさせたくない。
しかし、それならどうすればよいのか。それがガゼルにはわからない。
このままではヤメクも成人となり自分と同じ人生を歩んでしまう。それは嫌だった。どうにかして、この子に普通の人と同じ道を歩ませることはできないだろうか。ガゼルがそう考えていた時だった。
「どうも、幸福願望団です。どうぞ」
人の目を象ったバンダナを巻いた人に、ガゼルはチラシをもらった。要約すると幸福願望団の指定する場所に行って、研究所で労働をすると大金をもらえるという話であった。
ガゼルはこの話に藁にもすがる気持ちで飛びついた。
そして、ここにガゼルは連れてこられた。
待ってろよ、ヤメク。絶対にお金をもらって幸せにしてやるから。
心の中で強くガゼルは思った。
♢
「ふーむ」
「どうしました、トムソン様。浮かない顔をして?」
「いや、どうにもよくないことが起きそうな気がしての」
「やめてくださいよ、こんなときに。縁起でもない」
隣に立っている男が、顔をこわばらせている。
トムソンとて、この状況でこんなことは言いたくもないし、考えたくもない。研究所をどうにかできなければ、なんらかの報復行為があることは明らかだ。失敗すれば、自分もただではすむまい。
それをわかったうえでも、やらねばならないと思ったのだ。腹はくくっている。とはいえ、また心配なのも事実だ。しかも、自分の勘はよく当たるときている。自分に何かできることがあればよいが、できることと言えば研究所が制圧できることを祈ることしかできない。
まったく、権力はあるのにできることが何もないとは。情けないことよ。
自らを自嘲していると、かちゃり、と扉が開かれた。そこに立っていたのは協会の職員であった。が、どこかその表情は困惑しているように見えた。
「どうしたのじゃ?」
「はい、その……、妙な人が下に来ています」
「妙な人?」
トムソンが首をかしげると、職員も困った様に頷いた。
「研究所に自分を連れて行ってほしいというのです。ハンターでもないのに」
「危険なことは伝えたのか?」
「もちろんです」
ふむ、とトムソンは顎を撫でる。確かに妙な人物だ。ハンターでもないのに、わざわざみすみす危険があると知っている場所に行く。普通の人間は考えないことだ。そこまでして研究所に行きたいということは、何らかの理由があるのか。
しばし、トムソンは考えて、
「その者をペタ山に魔動車で送ってやれ」
「わかりました」
職員は頭を下げて、部屋を出ていく。
これで研究所での戦いがよくなるかどうかはわからない。が、トムソンの勘はその人間を研究所に連れていけと言っていた。理由は自分でもわからない。
さて、この決断がどう影響を及ぼすのかどうか。
トムソンは椅子に背を預けた。




