第69話 道
ゲロをぶちまけられたルカは、この老人を放り出そうかという考えも頭をよぎった。が、一度介抱した以上、ここで放置しては意味がない。そう判断して、老人に肩を貸しつつ街にある水場を探した。そこで、ひとまずゲロまみれの顔と服を洗う。
あまりにべとべとしていたので、もはや人目を気にしている余裕などなかった。街ゆく人々はルカの姿を見て含み笑いをしていた。非常にいたたまれない気分だった。
ひとまずは老人の放ったゲロは洗い落とせた。同時に忘れていた空腹がやってきた。近くに寝かせていた老人の肩を支えて、ルカは再び飲食店を探した。どこも人が多く、入れそうな場所がない。街を練り歩き、ようやくいい感じに人が少ない場所を見つけた。
ルカが入店すると、店員はとてもいい笑顔を浮かべていた。が、ルカが近づくとあからさまに嫌な顔をした。
どうやら匂いまでは落とせなかったようだ。客であるルカに対して鼻をつまみ、嫌そうに顔をゆがめるさまはいかにもここに来るなと言いたげであった。少々、理不尽ではないかと思ったがそこは我慢した。
おそらく自分が逆の立場ならば、同じ行動をとるかもしれないのだから。
嫌がる店員に魔核を渡して、黙らせたルカはようやく席につけた。ルカが席に着くと近くに座っていた客が、露骨に顔を嫌悪の形に変えてまだ食事が残っているにもかかわらず、出ていく。
ごめんなさい。
なんだろうか。ものすごく申し訳なくて、泣きたくなった。ただでさえレクスを失って辛い気分なのに、さらに追い打ちをかけられている気分だった。まるで死体に鞭を打たれているような感覚だ。微妙な気分で頬杖をついていると、頼んでいた料理が運ばれてきた。
牛肉を煮込んだシチューに新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダ、ライス。さらに魚介類を使用したパスタが運ばれてきた。香ばしい匂いが、ルカの食欲をそそる。いささか、頼みすぎた嫌いではあるがお腹がすいているのだ。これぐらいは問題ないだろう。シチューをスプーンですくって、口に入れようとして。
その動きが止まった。お腹は間違いなくすいている。胃袋が食事を要求している。だが、ルカはそれを口に入れることができない。食欲はあるのに、体が食べることを受け付けてくれない。無理やり口に運ぼうとするが、駄目だった。まるで体が食事をとることを拒絶しているかのようだ。
息を吐いて、ルカはスプーンをシチューの中へと放り投げた。腹は減っているが、もはや食事をとる気にはなれなかった。ぼんやりとした目で宙を眺めていると。
老人がむくり、と起き上がった。
はじめこそ、虚ろな目をしていた老人であったが、徐々にその目の焦点が戻っていき、きょろきょろと周囲を見渡している。
この様子を見る限り、どうやら意識が戻ったらしい。ルカがそのことにほっとしていると、老人の目がルカをとらえた。じっとルカを見る老人。額を押さえて、苦渋の表情を浮かべて――一言、つぶやいた。
「お前さん、娼婦?」
「違います!」
思わず、声に怒りが混じった。老人はまた額に手を当てて、うなっている。やがて、老人は何かに気づいたように鼻をひくつかせた。そして、
「くっさいのお、お前さん。女子ならもうちっと身だしなみに気を付けたほうがいいぞ? 本当に」
誰のせいだと思ってんの!!
という、心の叫びをルカはなんとか理性で押さえつけた。この老人は酒で記憶がないのだ。自分の感情をぶつけるのは、理不尽だろう。そう思い、ルカはすんでのところで叫ぶのを押しとどめた。怒りを面に出さないように、努めて冷静に老人に向き合う。
「わたしはルカと言います。路上であなたが倒れていたので、介抱したんです」
それを聞いて、老人は目を丸くする。
「なんと、まあ……。言われてみれば、記憶がないの。飲みすぎたか。いや、申し訳ない。迷惑をかけた」
老人はルカに頭を下げる。その姿にはそこはかとなく誠意を感じた。
意外、だった。失礼な老人かと思ったが、礼儀はしっかりしているらしい。それで、ルカは毒気を抜かれた気分を味わっていた。
「わかってくれればいいんです」
「お前さん、食欲がないのか?」
老人の視線はテーブルに乗せられている料理に注がれていた。ルカがまったく手を付けていないことに疑問を抱いたのだろう。
「おじいさんも何か――」
「トムソン」
一瞬、ルカは何のことかと思ったが、すぐに老人の名前だと気づいた。
「トムソンさんも何か頼む。遠慮しなくていいよ」
ルカは何かを誤魔化すようにして、トムソンに注文を促そうとして。
「誰か近しい人間を亡くしたか?」
はっとルカは息を呑んだ。自分は何かトムソンにそんなことを一言でも言っただろうか。記憶を探るが、そんなことはしていない。ならば、どうして。まじまじとルカがトムソンを見ていると、
「喪失感が強くて、何もする気になれない。食欲はあるが体が食物を受け付けてくれない。これからどうしていいかわからない、そんなところかの」
ルカの驚く顔を見て、トムソンはにこやかな微笑みを浮かべている。
「……人の心が読めるの?」
「無駄に長生きしているんじゃ。ある程度、人の挙動を見ていればその者が何について悩んでいるかぐらいはわかるよ」
その言葉を聞いて、ルカは感嘆の息を漏らした。老人になれば、人の考えていることがわかるのか。いや、違う。今まであった老人にそんな人間はいなかった。特別、トムソンが洞察力にたけた人間なのだろう。ルカがそんなことを考えていると、トムソンはルカの頼んだ料理を指さした。
「ここに並べられている料理はすべて生命を奪って出来ている。我々人間は様々な生命を犠牲にせねば生きていけない」
「……言いたいことはわかります。ですが、レクスは犠牲になる必要はなかったかもしれないんです。わたしの判断ミスが彼の死を招いたかもしれない」
「ミスをしない人間なぞわしはこれまで生きてきてみたことがない。そんなに自分を責めることはない。自分で自分を傷つける必要などないじゃろう」
「気にするな、と言いたいのですか? でも、このわたしが抱いている胸の痛みは本物なんです。理屈はわかりますが、消えてはくれない」
「その男は、どういう奴じゃったんじゃ」
トムソンに言われて、ルカは考える。レクスはどういう人だったか。
「いい人、でした。短い時間でしたが、あんなに一緒にいて心が安らぐ人は初めてだった。だから、嫌なんです。生きているのがわたしということが。レクスの方がわたしよりもいい人だったから」
「ふむ。お前さんはその者と死に別れた。そのとき、そのものはどういう表情を浮かべていた?」
レクスの死ぬときの表情。どうだったろうか。死ぬときというのはウェスタのブレスを受けるときか。その時のことを思い出して、胸がうずく。が、それを無視してルカは記憶の海へ潜った。それは、すぐに見つかった。それはそのときの表情が印象深かったからだ。
「優しい顔、でした。とても。死に行く人間の顔じゃなかった」
「なら、それが答えじゃろう。そのものは死を恐れてはいなかった。状況はわしにはよくわからんが、お前さんを生かすために命を張ったのではないか」
否定の言葉は出てこなかった。きっと、トムソンの言う通りだ。
「……レクスはわたしが自分を責めることを望んではいない。そうだと思います。でも、それならわたしはこれからどうしたらいいのです?」
「お前さんはおそらくハンターじゃな? お前さんはなぜ旅をしている。この旅にどんな志を抱いている?」
自分が旅をしている理由。それは――あれを見たからだ。
見過ごしてはいけないと思ったし、お父さんもあれをおそらく知っている。だからこそ、自分はゲオタヤの情報を求めていた。そこで、研究所の情報を得てここにやってきていた。
「ほほ、目に生気が戻ってきたな。お前さんもわしもここの料理を食べることで栄養を摂取し、それは血液を通して体を循環していく。わしは人の思い出、記憶も血液と同じく人の体を循環していると思っている。記憶は人の体をめぐっていく。そのものは死んだやもしれぬが、そのものと過ごした日々の記憶もお前さんの体を循環している。いい思い出は人を生かす活力となる。たとえ、傍にいなくともそのものの思い出はずっとお前さんとともにある。お前さんは一人じゃない、とわしは思うよ」
トムソンの言葉が、ルカにすとん、と入ってきた。レクスとの思い出は自分の中を中をめぐっている。ルカは胸の前に両手を合わせる。不思議だった。死に別れたはずなのに、レクスが本当に自分の傍にいるように思えてきた。
気持ちは大分、落ち着いてきていた。
「トムソンさんて、学校の先生か何か? 道徳の授業を受けているみたいな感じになってくる」
「ほほほ、わしはただの酔っぱらいじゃよ」
穏やかな微笑をトムソンは浮かべていた。本当だろうか、と思うがおそらくルカが聞いても本当のことは教えてくれないだろう。この老人から見れば子供であるルカにはトムソンから本音を引き出せる気がしない。
「ちっとはましな顔になったの。どれ、料理でも食べたらどうじゃ?」
「さすがにそれは。まだ体が受け付けてくれない、と思うから……」
「いいから、食べてみなさい」
笑顔を浮かべてはいるが、なんだか圧力を感じる。ルカはしぶしぶとスプーンを手に取る。シチューをじっと見つめるルカ。ええいままよ、と半ばやけくそ気味にルカはシチューを口に入れ込んだ。シチューの甘い味がルカの口腔内に広がっていく。そして、あれだけ拒絶していたにもかかわらずあっさりと呑み込めた。
そのことにルカが驚いていると、
「人の肉体は精神に影響を受ける。わしの言葉で多少は精神がよくなったのじゃろうよ。ただ、人の喪失感というものはそう簡単には消えてはくれん。それでも、人は人生という道を歩いていかなければならない。また道に迷ったら、じじいの言葉を思い出すといい。多少は、それで安らぐじゃろう」
「トムソンさんは先生になったほうがいいよ。わたしが保障する」
「ほほほほ、覚えておくよ」
トムソンが笑い、ルカがつられるように笑う。
心の痛みが完全に消えたわけではない。それでも、立ち上がる気力は出てきた。
今は自分にできることを。ルカはそう思った。




