第29話 仲直り
レオナがテーブルで朝食を食べていると、いつの間にかダスティンが目の前にいた。まったく気配を感じなかった。いきなり視界に入ってきたので、朝から心臓に悪い。レクスはまだ寝ているようだ。朝食を食べ終えて、台所で食器を洗っていたときだ。背中からダスティンの声が聞こえてきた。
「脱出口を見つけた。明日にはここを出る」
いきなり、だった。それを聞いた瞬間、レオナはひどくショックを受けていた。
いつかそんな日が訪れることはわかっていた。しかし、それがこんなにも早く訪れるとは思ってもみなかった。
嫌だ、と思った。
レオナ自身はこの同居生活をとても気に入っていた。この二人が出ていくということは、もう二度と会うことはできないわけで。想像するだけでも、拒絶の思いが強い。
「あの、まだ、ゆっくりしてもいいんじゃない? カメオーンもあるしさ、全然ばれてないよね? レクスもここに慣れてきてるし、わたしとしてもまだいてもらっても……」
「俺がここにいる時間が長ければ長くなるほど、危険が増えるぞ。レクスにとっても、お前にとってもな」
レオナの言葉をにべもなく切り捨てるダスティン。その瞳は強い光を放っている。レオナの言うことなど到底受け入れてもらえそうもなかった。わかっていたことだ。いつかは別れの日が訪れることは。それでも、受け入れがたいことだった。
「これを念のためにつけておけ」
ダスティンは腕輪を放った。
「これって、あのバズってやつがつけてたもの?」
「適応器だ。貴様なら使えるはずだ。用心するに越したことはないからな」
レオナはそれを腕につけた。それから、ダスティンは沈黙した。どのぐらい時間がたっただろうか。ダスティンがおもむろに話しかけてきた。
「……貴様はこの禁止区を出るつもりはもうないのか?」
「うーん……わからないよ、今は。以前は出たくて出たくて仕方がなかったよ、こんなところ。でも、今は不思議だけどそんなに悪くもないかな、なんて思ってる。変かな、わたし?」
「いや、変ではなかろう」
ダスティンが席を立つ。外出するのだろう。レオナも席を立ち、タンスの引き出しからタレスをとって口の中に入れて水で流し込んで息を吐く。レオナが顔を上げると、ダスティンが扉の前でレオナを見ていた。
なぜだろう。ダスティンの表情がいつもより暗い気がした。
「どうしたの?」
「その薬は、いつも飲んでいるのか?」
「その薬って、ああ、タレスのこと? うん、飲んでるよ。だって、これ飲まないとゴバニーですぐに死んじゃうし」
「……忠告しておく。その薬はもう二度と飲むな」
ダスティンは吐き捨てるように言って、外へ出た。
「なに、あいつ? 変なの」
ダスティンの言葉が頭にひっかかっていたが、考えても仕方ないとレオナはすぐに忘れた。そうこうしていると、どうやらレクスが目を覚ましたようだ。レクスはまだ眠いのか瞼が完全に開ききっていない。うわごとをぶつぶつ言いながら、テーブルに座り早速水をこぼした。
「あーん、もう何やってるの?」
レオナは布巾で床とテーブルを拭く。その間にレクスは食器を流し台へ持っていった。レオナは何か直感めいたものを感じて、
「レクス、ちょっと顔を見せて」
わしっとレオナがレクスの顔を掴むと、予想通りだった。レクスの顔は食べ物の汚れで不衛生極まりなかった。
「もう! 今日はルミナちゃんと遊ぶんじゃなかったっけ? しっかり身支度していかないと」
ごしごしとレクスの顔の汚れをふき取って、レオナはこの前買っておいたレクスの新しい服を着せてあげる。これでよし、と思ったが、カメオーンを塗ることを忘れていた。念入りにカメオーンをレクスの顔へ塗り付けていると、
「おはよー! レクス、遊びに来てあげたよ!」
ドアが勢いよく開け放たれて、ルミナの威勢のいい声が聞こえてきた。
「ほら、ルミナが来たみたいだよ」
ぱん、とレオナがレクスの背中を叩いた。とうのレクスはレオナの腰にしがみついて後ろに隠れている。その様子を見て、レオナは額に手を当てた。
レクスはポポリンとカレルに対してはこのようなことはないのだが。きっと、同世代の女の子だから緊張しているのだろう。
「レクス。ルミナちゃんに意地悪でもされた?」
ふるふる、と首を振るレクス。が、その手は小刻みに震えていた。
「ひっどーい! わたしはレクスに意地悪なんてしてませんよーだ!」
地団太を踏み、頬を膨らませるルミナ。
「ルミナはレクスを傷つける人じゃないよ」
レクスを安心させるようにほほ笑むレオナ。それを見て、レクスはようやくレオナから離れた。おずおずとルミナに近づくレクス。それを見てルミナはじれったいとでも言いたげな様子で、レクスの手を無理やりつかんだ。
「じゃ、行ってきまーす。レクスにいけないこと教えちゃったらごめんね!」
ぺろっと舌を出して、レクスを引きずるように走り出すルミナ。それに対してレクスは苦笑を浮かべている。背後を振り返り、淡い笑いを作って、
「行ってきます。お母さん」
「うん、いってらっしゃい!」
にこり、と満面の笑みでレオナはレクスを見送った。誰もいなくなった家で、レオナは家の掃除をしていた。掃除を終えたレオナは、洗濯物がたまっていたことを思い出して外に出た。その瞬間、日光がレオナの目に飛び込んできた。
空を見上げると、晴天そのものであった。透き通るような青い空がレオナを出迎えてくれているように感じた。
レオナは竿に洗濯物を干していく。作業を終えたレオナは一息ついて、家の中にいったん戻る。タンスの引き出しからノートを取り出して、再び外に出た。家の外に置いてあるベンチに腰かけてレオナはノートを読む。集中して読んでいると、
「レオナちゃん」
聞いただけで癒されるような声だ。顔を上げると、ポポリンが立っていた。ポポリンはレオナの隣に座った。レオナは大変気まずい思いをしていた。以前、ポポリンに怒られてから一度も話していない。どうしたものかと考えていると、ポポリンの方から話しかけてきた。
「この前はごめんね。わたし、言いすぎたよね」
「ううん、全然。わたしが悪かったから、あれは」
「……レオナちゃんはさ、どうしてあんなことしてたの?」
それは今までポポリンが意図的にレオナに対して聞いてこなかったことだ。レオナの方も避けていたこと。踏み込んできた、レオナはそう思った。だが、以前ほど嫌じゃなかった。むしろ、それを当然のこととして受け入れる自分がいた。
「今まで話してなかったけど、わたし、全然、仕事決まんなかったんだよね。みんな当然のように決まってさ、自分だけ何も決まらなかったわけ。で、スクールの先生には君は何の価値もない無色の存在ですなんてこと言われてさ。それで、落ち込んでたところに話しかけてきたのが始まり。行為の後は、わたし泣いちゃったんだよね。安心したんだ。こんな自分でも必要とされてるって思って……求められるのは体だけなんだけど、それでもうれしかったんだ。馬鹿でしょ、わたしって、うぇぇえい!?」
驚きのあまり、変な声をあげてしまった。なぜなら、ポポリンが滂沱のごとく
涙を流していたからだ。合わせて鼻水もたらすその姿はとても人に見せられるものではない。
レオナは正直言って、少し引いていた。
「ずびっ、ぐすっ! ごめんね、何も知らないで、変なこと言って……辛かったね」
ポポリンはカレルと似たようなことを言っている。まったくポポリンもカレルもどうして人のためにそんなに涙を流せるんだか。レオナは呆れとうれしさの混じった感情を味わっていた。
「でも、どうしてそんなに辛かったのに、働こうと思ったの。あっ、わたしが言ったから?」
「きっかけはそうだね。あんたに言われのもあるし、レクスに言われたのもある。いざ仕事してみるとやっぱり辛かったけど、カレルが助けてくれてさ。だから、わたしてもやってみようと思えた。これもあるしね」
レオナはポポリンの前にノートを広げた。
「これは?」
「職場の人に教えてもらった作業マニュアル。わたしは覚え悪いし、ミスが多いからさ。休みの日に勉強しようと思った。今まではなんでこんなにできないんだろって自分のこと嫌いだったけど、人の二倍、三倍頑張れば人並みになれるかなって思って。人並みに仕事できたら、きっとわたしは自分のこと今よりは好きになれるかなって考えたんだ」
ポポリンがレオナを感極まった感じで見つめている。その瞬間に、レオナはなんだか恥ずかしくなった。冷静に考えたら、結構恥ずかしいことを言っているのではないかという自覚が今更になってやってきていた。
「変わったよね、レオナちゃん」
「変わった、のかな? 自覚はないんだけど。でも、前よりは生きてるのが楽しくなってきた気がする。レクスのおかげかもね。きっかけはあの子と暮らしてからだし。わたしがいろいろと教えてるつもりだったけど、わたしのほうがあの子に教えてもらっているのかも」
そう言ってレオナは空を見た。本当にいい天気だった。禁止区の空はこんなにきれいだったのだと考えて、レオナははっとした。以前の自分は、すべての景色が灰色でくすんで見えていたはずなのだ。それが、今はこんなにも美しいと感じる自分がいる。人は心の在り方で見えるものがこんなにも違ってくるものなのだ。
ずっとこの街に生まれたことを恨んでいた。だが、レクスに会えたこと。自分が変わるきっかけをくれたあの子と出会えた幸運は感謝したい、そう思えた。
「ポポリン、今日、豊穣祭があるんだけど」
「もちろん知ってるよ!! え、もしかして、レオナちゃんも行くの!?」
鼻息を荒くし食い気味に言ってくるポポリンに、レオナは苦笑を浮かべつつ、
「カレルに誘われてさ。レクスも連れていくつもり、ポポリンもどう?」
「絶対に行くよ!!」
聞くまでもなかったか、とレオナは思った。
「レオナちゃん、わたし、三人でずっと一緒にいたい」
「……わたしも」
レオナがポポリンの手を握ると、ポポリンはレオナの手を握り返してくれた。
ゴバニーでいつ死ぬかもわからない命。だからこそ、一日一日を大切に生きようと、レオナは思った。
今日の豊穣祭、レオナの人生で最高の一日になってくれたらいいと、願った。
♢
禁止区のある一角に、幽鬼のように佇むダスティン。周囲に人の気配はまるでない。ダスティンは草むらに隠れた取っ手を引き上げる。すると、梯子が現れた。その梯子がどこまで続いているのかはわからない。底の知れない闇が広がっている。
ダスティンの予想ではこれは緊急用の避難口で、ここを伝っていけば外につながっているはずだ。
ここを通って、ダスティンはレクスとともにこの禁止区を出る。思えば不思議な縁もあったものだ。当初は口封じに殺そうと思っていた小娘だったが、今はレクスとともに一緒に暮らしている。レクスの方もレオナになついているようだ。
ダスティンとしてはレクスをレオナに預けて、姿を消したいところだった。
「……ここが禁止区でなければ、な」
ダスティンの願いは叶いそうもない。
もうここにいてもできることはないだろう。ダスティンは踵を返して、レオナの家へと向かう。家へ帰れば、あの小娘が実にまずい料理を食べさせてくるだろう。
「まずい料理も何度も食べていると愛着がわくものだな」
自嘲気味にダスティンは笑う。感傷を覚えるとは実に自分らしくない、と思う。
街を歩いていて、やけに騒がしく感じた。そういえば、今日は豊穣祭とかいう禁止区で祭りがあるのだったか。祭りなど自分に最も縁のないものだと、思って――ダスティンは足を止めた。
教団兵が、いない?
ここまでダスティンが歩いてきて、まだ一度も教団兵とは出くわしていない。祭りだから、警備が手薄になっているのか。しかし、そうだとしても一人も姿を見かけないのは明らかに異常ではないだろうか。自分とレクスを探索している以上、これはおかしい。まるで、わざと教団兵を退かせているような、そんな感覚を覚えた。
では、なんのために?
狙いが分からない。一体、何を企んでいる。この区域の区長はダグドだったか。あの男は自らの保身と仕事を放棄する類の人間だと聞いている。だからこそ、ダスティンはこの禁止区へとやってきた。穴があると思ったからだ。そのダグドが教団兵を退かせたのだろうか。いや、そうではない、とダスティンの勘が告げている。
だとすれば、別の誰かが介在している可能性があるのか。
「……嫌な感覚だ」
ダスティンの言葉は、雑踏の中へ吸い込まれて消えていった。




