第101話 憂鬱
「さあ、たんと召し上がれ」
母がにこやかにほほ笑んでいる。その隣では母と同じく父がほほ笑みを浮かべて頷く。テーブルの上には見るからに豪奢な料理が並べられている。どれも最高級の食材を使っているからか、香ばしい匂いが鼻腔を刺激した。
すでにたくさんの料理が並べられているにもかかわらず、使用人は淡々と料理を運んでくる。両親は料理を食べる気はないらしく、その視線はこちらに注がれている。
これはわたしたちの気持ちだ、ぜひとも食べてくれ。
そういう善意という名の圧力を感じる。とても一人で食べきれる量ではないし、食べる気分でもない。が、ここで席を立ちあがって場を立ち去るわけにもいかない。感情を殺して、洗練された所作でナイフとフォークを操って料理を口に運ぶ。
「どうだ、エクノス」
「ええ、おいしいですよ、父上」
本当は料理の味など全くしなかったが、本音を漏らすわけにもいかないので空気を壊さぬ発言をした。そんなことをエクノスが考えているなど夢にも思わないのだろう。父親は「そうか」と言って、豪快に笑った。
「遠慮せずに食べるんだぞ。なにせ、お前は教団の最高幹部である六星の一人なのだから」
がはは、と父が誇らしげに笑う。それにつられるようにして母も含み笑いをしている。またそれか、とエクノスは心中で溜息を吐く。
エクノスが六星となったのはすでに三年も前のこと。それを未だにこうやって昨日のことのように話すのだから、よほど嬉しいニュースだったのだろう。喜ぶ両親とは対照的にエクノスは暗澹たる気分だった。
本当はこの家になど帰りたくもなかった。が、いつまでも仕事を理由にして逃げることにも限界があった。仕方なく家に帰ってきてみたはものの、やはり居心地がよくない。
朗らかに笑う両親。仕事をしている使用人たち。目に入る人間すべてが笑顔という仮面をつけているように見えた。
人がいるにもかかわらず、孤独感を覚えるのはなぜだろうか。
ここにいると窒息しそうなほど息が詰まる。それはさながら牢獄にでもいるかのような感覚だった。ふー、とたまらずエクノスは息を吐き、
「申し訳ありません、父上。どうにも疲れがたまっているようです。部屋で休んできてもよろしいでしょうか」
「ああ、構わんぞ。そうか、やはり六星ともなると仕事が忙しいのだろう」
「しっかり休んで頑張るのよ」
あなたがたが心配しているのはわたしではなく、六星という地位の方でしょう?
そんな考えを抱きつつ、エクノスは自室へと歩いていく。
ドアを閉めて、ベッドに身を投げ出す。ここでようやく休める、という気がした。エクノスの部屋は机とベッド、本棚と最小限のものしかない。清掃は使用人がやってくれているからか、行き届いているがおよそ生活感の欠片も感じられない部屋だ。
エクノスは宙を見ながら、思う。自分が両親を毛嫌いするようになったのはいつごろからだったろうか。考えて、答えはすぐに出た。机に立てかけられた写真。その写真の中では青年が笑っている。
「……兄さん」
彼には二歳年上の兄がいた。名をウインズといい、大人しく本を読むのが好きだったと記憶している。穏やかな性格でよく笑う兄だった。本を読むのが好きで、暇があれば話を聞かせてくれた。幼いころは兄の話を聞くのが好きだった。
きっと、幸せになっただろう。
この家に生まれてさえいなければ。
エクノスの家は代々教団に高い地位を持つ者が多く、父もそうだ。ゆえにこの家に生まれた以上、将来教団において高い地位につけるように厳しい教育を施される運命にあった。
幸いなことに彼はもともとの素質が高かったせいか、常に学業においても高い成績を収めた。そうすることで両親に可愛がられた。それがエクノスには嬉しく思えたし、それがあの頃の自分の存在理由だった。
が、それに反比例するようにして兄はどんどん表情に精彩を欠くようになっていた。兄はあまり要領がいいタイプではなく、成績はどちらかといえば悪かった。それでいつも父に怒鳴られていた。
兄の成績を向上させるためなのか、あえて兄の食事を抜く日もあった。食べたければ頑張れ、そういうこと意図があったのだろう。日に日に生気を失っていく兄の姿は亡霊のようだった。
そんな兄を見るのが心苦しくエクノスは両親にばれないように、自らの食事を隠れて兄に渡した。儚げな表情で「ありがとう」という兄は心の中で自分のことをどう思っていたのだろうか。
本当はもっと兄のことを考えて、両親に意見するべきだったのだろう。だが、あのときの自分は両親の期待に応えることが精一杯だったのだ。一抹の罪悪感を抱きつつ、流れていく日々。
そして、今から十年前。兄は死んだ。自殺、だった。
葬儀の時に見た。兄の顔は驚くほどきれいで、とても死人には見えなかった。もっと自分に何かができたのではないか、今更ながらにそう考えたことを強く覚えている。気落ちするエクノスに対して、両親は兄の死体を見て言った一言、
「役立たずが死んでよかった。これ以上、無駄な投資はせずにすんだ」
父が酷薄な笑みを浮かべ、母も父に賛同するように頷く。もちろん、涙はなかった。それを聞いた瞬間、急速に心が冷えていった。
ああ、結局はこの人たちにとって子供はただの道具でしかないのだな。
他者から賞賛され、自分は教団に対して貢献しているという自負を得るために道具。それが自分であり、兄であったのだろう。結局のところ、兄も自分もただの道具でしかなかったわけだ。
所詮、自分が愛と信じていたものはただのまやかしに過ぎなかったのだろう。結局、この人たちは他者を愛しているようで自分しか愛していない自己愛の強い人間でしかなかったのかもしれない。
その日を境にエクノスは両親から心からの理解を求めることをやめた。ただ機械的に応じるようになった。もっとも、両親はそんなエクノスの心の変化に気づくことはないが。
ふと、風の流れを感じた。
見れば、窓が少し空いていた。時期的に今は暑いはずなのだが、妙に風が冷たく感じた。窓を閉めて、エクノスは両親に外に出ると告げて、家を出た。家を出た瞬間、息苦しさが消えた。
エクノスにとって自分の家はただの監獄でしかなかった。