第100話 聖女 2
魔空機で空を飛んだことはトガにとって夢のような出来事であった。窓から見る景色は青空が広がっており、まるで自分が鳥になったようだ。このときだけは死んだ両親のことを忘れられた。
また、トガが退屈しないように気を遣ってくれたのかナイアがいろいろと玩具を持ってきてくれた。見たこともない玩具がたくさんあり、時間を忘れて夢中になる。ナイアも自身の話を面白おかしく聞かせてくれた。
よくわからないがすごく偉い人だろうにそれを感じさせず、まるで近所の気さくなお姉さんを思わせる態度で、話をしていてひどく心地がよかった。勇気を出して彼女についてきてよかった、と心底思う。
このときだけはまるで自分がおとぎ話の王子にでもなったかのような気分を味わえた。それから一時間ほどで魔空機はある島へと降り立つ。名残惜しい気持ちでトガが魔空機から降りると、目の前には豪邸があった。
それはお城を思わせるほど巨大な豪邸で、その景観にトガは圧倒されていた。
「今日からここがトガくんのお家だよ」
と、ナイアはトガの肩を叩く。
大きな門のような扉を開くと赤い絨毯と豪奢なシャンデリアが目に入った。外観だけでなく中の方も城のようだ。きょろきょろと見渡すトガの背中をランが叩く。びくり、とトガはのけぞった。
このランという男はどうも苦手だった。なにか、機械のようで人間味を感じない。動作もきびきびしすぎていて、本当は機械ですと言われても驚かない自信がトガはあった。
こんなに広い建物にもかかわらず人の気配をあまり感じない。というより、あまりにも静かだった。たまにすれ違う白衣を着た研究員らしき人も生気がない屍のように思えた。
なんとなく不気味なものを覚えていると、ナイアが立ち止まって扉を開けた。トガを見てニッコリ、と笑い、腕を部屋の中に向けている。入ると、そこは客間のようだった。いかにも高そうなテーブルは二十人は座れそうなほど細長い。
白いレースの布地に一定の間隔で燭台が置かれていた。ランが椅子を引いて膝まづいているので、そこにトガは座る。ほどなくして、食事が運ばれてきた。それは思わず天に昇天してしまいそうなほどおいしかった。
至福の時が終わってトガがお腹をさすっていると、
「紅茶、入れるね」
と、ナイアがティーカップに注ごうとする。が、ぽたぽた、と滴が出てくるだけだった。
「あら、紅茶切らしてるみたい。どうしようかな」
ナイアが悩まし気な声を上げた時だった。
「ラティア様っ!」
突然、声とともに扉が乱暴に開け放たれた。ぞろぞろ、と教団兵が次々と入ってくる。その数は二十人はいるだろうか。トガはそれを見て身をのけぞらせた。
「こら、君たち。子供を怖がらせたら駄目だよ?」
「も、申し訳ありませんっ!」
一斉に教団兵たちが、敬礼をとる。一方のナイアは特に気にした素振りもなく「紅茶」などとつぶやいている。
今、ナイアのことを教団兵はラティアと呼んでいた。別名があるのだろうか、などとトガは考える。
「それで? わざわざここに来たってことは何か重要なことが起きたってことだよね? できるだけ手短にお願いね」
「はっ! サガトの研究所が消滅しました!」
それを聞いたナイアは目を宙に彷徨わせて、ぽん、と何かを思い出したように手を叩いた。
「あー、あそこの研究所かー。ん? ということは、アラメくん死んだ?」
研究所の自爆プログラムは所長のみが扱える。ゆえにアラメが起動しなければ自爆することはない。
「はっ! 勇敢な死を遂げました!」
「そっか。彼、面白いから好きだったのに……残念。でも、君たちは研究所を置いて逃げてきたんだ」
ほほ笑むナイアを見て教団兵たちの顔が恐怖に引きつる。それを楽しむようにナイアは眺めて、やがて、息を吐いた。
「うん、いいよ。命が惜しいこともあるでしょうしね。不問にしとくよ。でも、キュクロスは戦うことなく死んじゃったか。制御リングを送ったのは無駄になったね」
「い、いえ……キュクロスは戦って敗北しました」
それまでまるで興味のなさそうに聞いていたナイアの顔が、ぴくり、と動いた。
「へえ? でも、あいつ、制御はできなかったけどかなり強力な凶獣よ? 並みのハンターじゃ相手にならない。よほど強いハンターでも研究所に入ってきたの?」
「はい、キュクロスを倒すところを見たものがいまして、慌てて逃げ……ラティア様に報告が必要だと我々はここに戻ってきました」
「そのハンターの名前は?」
「ペンダントがなかったのでハンターではないかもしれませんが、確か、レクスという名前でした」
その名を聞いた瞬間、ナイアの表情が固まった。顎に手を当てて考える仕草をして部屋にある端末を操作する。キュクロスの制御リングには映像記録機能がついており、この研究所に送られている仕様になっていた。
端末に映像が現れて、ナイアはその画像を凝視する。画像はややぼやけているが、顔の判別は可能だ。ナイアの脳内で八年前の少年と画像に映っている青年の顔が、重なった。
「あはははっ! 生きて、生きてたんだ! これは面白いことになってきたよ!!」
けたたましく笑い、その場にいたラン以外の人間がぽかん、としている。やがて、ナイアは笑うのをやめて、教団兵たちに向き直る。
「ねえ、君たち。このことって、誰かに話した?」
「いえ、誰にも話しておりません!」
「そう、それはよかった」
ナイアが微笑みを浮かべた瞬間――二十人いた教団兵は全員が肉塊へと変わり果てていた。突然の出来事にトガは呆然としていた。が、教団兵の血が自分の足へ向かって流れてきて――
「うわああああああああああっ!」
トガは絶叫を上げた。狂ったように叫ぶトガの肩をナイアが優しくさする。
「ごめんね、ちょっと刺激が強かったね。これでも飲んで落ち着いて」
恐る恐るトガはナイアを見た。そして、その手に持っているものを見て愕然とした。それは死んだ教団兵の生首だった。それを、ぐしゃり、と握りつぶす。脳漿が飛び散って、トガの顔に付着した。
ティーカップには鮮やかな血液が並々と注がれている。恐怖に満ちた顔でトガはナイアを見た。彼とは対照的に彼女は優し気に笑っている。その顔は先ほどまで優しかったナイアとなんら変わりない。
トガは何もできずに俯いていると、視界にナイアが入ってきた。その距離は今にも密着しそうなほどだ。
「飲めないの? 飲めるよね?」
柔和そのものといった顔だったが、有無を言わせない迫力があった。もし、拒絶すれば――きっと、自分はあの教団兵たちと同じ目にあうのではないか。これを、飲まないといけない。でも、と抵抗感を覚えていると、
「一気! 一気! 一気!」
囃し立てるようにナイアが手を叩く。それがトガの焦りを増長させる。飲まないと殺されるんだ。意を決して、トガはそれを飲んだ。鉄のどろり、とした粘性の気持ち悪い味が喉に滴り落ちていく。
すべてを飲み干したトガは間もなく、床に吐しゃ物をぶちまけた。ナイアはトガの姿を見てうんうん、と満足そうに頷いている。
「わたしも喉渇いたな。ラン」
「はい」
ランは教団兵の生首を拾って、ナイアに手渡す。生首を受け取った彼女はさっきと同じ要領で生首を握りつぶして、ティーカップに注ぐ。そして、それをごくごくと飲み干し、
「おいしー! 血液の濃厚な味わいがコクを感じさせて最高だね」
親指を立ててナイアは幸せそうに笑っている。
「さて、ラン。研究所から逃げ出した教団兵は全員処分して。もし、そいつらが他の誰かにレクスのことを話していたら聞いた奴も処分。ギアノンとカリーヌに余計な横やりを入れられたくないからね。ここの死体は実験体のエサにでも使いましょう。にしても、よりによってサガトの研究所かー。レクスも再会を楽しめただろうね」
ふふ、と酷薄に笑うナイアにランが頭を下げる。
「かしこまりました」
「あとは、魔空機の用意を」
「お出かけでございますか?」
「ええ。レクスは絶対にゲオタヤに行くつもりでしょう。その前にわたしが会いに行ってあげなくちゃ。きっと、向こうはわたしに会いたいでしょうから――殺したいぐらいね」
ぺろり、と顔についた血をなめとるナイア。その姿を見て、トガは思った。
こいつは聖女なんかじゃない。ただの悪魔だ。
トガは絶望的な気分で、ここへ来なければよかった、と後悔していた。