第99話 聖女
椅子に座った少年は、ずっと床の木目を数えていた。その表情は暗くどこかこわばっている。その少年を側で見守っていた老婆――ナグーは、無理もない、と思った。
その少年の名はトガといい、両親を凶獣に殺されてこの孤児院へとやってきた。どうやらトガは死んだ両親の死体を目にしてしまったらしく、それ以来ふさぎ込んでいる。
ナグーの方も他の子となじめるように努力したが、心の傷は深いようでずっと部屋に引きこもっていた。扱いに困り果てていた時のことであった。トガを引き取りたいという連絡があったのは。
相手はなんと聖神会の人間だった。
聖神会はここ二、三年で大きく名を聞くようになった組織だ。世界中の飢餓に苦しむ大人や子供を集めて、手厚く保護をしているという。評判はすこぶるよく、保護されると衣食住に困ることなく健やかに生活できるという。
ナグーとしてはトガを引き渡すのは心苦しいがこの孤児院の経営も決して楽ではない。ここにいるよりも、聖神会に行く方がいいのではないかと考えていた。そして、今日が約束の日となっていた。
トガ本人にこのことを話すと、はいともいいえとも言わないどっちつかずの態度であった。もう、どうでもいいと思っているのかもしれない。
かちゃり、とドアが開いた。
入ってきたのは十代後半、あるいは二十代のとても若い女性だった。髪の右側を結んでおり、まだあどけなさの残る可愛らしい印象だ。ただ、それとは逆に着ている服は仕事用なのだろう。きっちりとしていて隙のない感じがした。
「ナグーさんですね。わたしは聖神会代表のナイアと申します」
丁寧のお辞儀するナイアを見ながら、ナグーは内心で驚いていた。
代表? この子が?
「あはは、やっぱり見えませんよね。ごめんなさい、頼りなくて」
どうやら、内心の動揺が表情に出ていたらしい。途端にナグーは気恥ずかしさを覚えた。
「ごめんなさい、失礼でしたね」
「いえいえ、無理もありませんよ。どう見てもただの小娘ですから。代表らしく威厳を身に着けたいとは思うんですけどね。聖神会の代表で女だから聖女なんて言われちゃって、名前負けもいいとこですよ」
笑うナイアの姿はとても愛想がよく朗らかだ。不思議な魅力というか、相対しているだけで相手に安心感を覚えさえる、そんな雰囲気をもっている。
「トガくんは」
と、聞かれたナグーは視線をトガに向ける。トガの方は相変わらず目はうつむいたままだ。ただ心なしかさっきよりも表情がこわばっている、というより、明らかに怖がっているように見えた。
ナグーにはなにも言わなかったが、もしかしたら、本当はここから出たくないという気持ちがあるのかもしれない。
「あの、おひとつ聞いてもよろしいかしら?」
「はい、何でもどうぞ」
「あなたはどうして、この活動をしてらっしゃるの? まだお若いし、いろいろと将来の選択肢はあるでしょう? 仕事も大変でしょうし、自分が良かれと思っても悪く言われることもある」
ナグー自身も私財を投げうって、孤児院を作ったが当初は子供を集めてよからぬことを企んでいる、とか、寄付を募れば詐欺などと散々な悪罵を言われた。この小さな孤児院でもそれなのだ。
世界規模で活動しているナイアなど比較にならぬほど人の悪意にされされているだろう。だから、純粋に気になったのだ。
「あなたはこの活動にどういう志を抱いているの?」
「そんな大層な志はないですよ。ただ、わたしは世界中の子供や生活に困っている人に手を差し伸べたいだけです。そういう人たちをわたしは愛してますから」
ナグーを見るその目は純真で穢れのないまっすぐな眼差しであった。そして、ナイアはトガの方へ向かい屈む。
「トガくん、初めまして聖神会のナイアだよ。かしこまらずにナイアって呼んでね」
にっこりと笑うナイアの姿はまるで花が咲いたかと思わせるほど可憐であった。普通の人であれば、警戒心を解いて安心感を与えるだろう。が、トガはさっと目線をあらぬ方向に向けて体を縮こまらせていた。
怖いのだろう、きっと。
やはり、まだトガに別の場所へ行かせるのは時期尚早だったのかもしれない。せっかく来てもらったナイアには悪いが、今日は帰ってもらおう。そうナグーが思った時であった。
ナイアが自らの服を脱ぎ始めたのは。上着を半分脱いで、下着があらわになっている。突然の彼女の奇行にナグーは目を見開き、
「なっ、何をしてるの!」
ナイアに詰め寄ろうとして、その動きが止まった。そして、それを目にした瞬間、はっとナグーは息を呑んだ。
それは思わず目を背けたくなるほど、ひどい傷跡だった。体のあちこちにギザギザの裂傷が刻まれており、見ているだけで痛々しさを覚えるほどだ。トガもそのあまりの傷の凄惨さに目を大きく見開いている。
「わたしもトガくんと一緒でね、凶獣にお父さんとお母さんを殺されたの」
トガは驚きをあらわにして、ナイアを凝視している。ナグーもトガもナイアの話に耳を傾ける。
「目の前で凶獣にお父さんとお母さんを食べられて、何もできなかった。そこで逃げ出そうとしたのがいけなかったね。物音を立てたのが凶獣にばれてさ、それでがぶり。幸いすぐに人が助けに来てくれたけど、あれは痛かった」
そのときの光景を思い出しているのか、ナイアの目はどこか遠くを見ているように見えた。
「それでわたしは親戚に引き取られたんだけど、学校が嫌だったよ。とくに水泳の授業がね……いじめられた。いっそ、死のうと思うぐらいひどくて精神的にきつかったな。けどさ、たまたま孤児院のこと知り合ってね。世界が変わったんだ。そこにはわたしと同じ境遇の子がいっぱいいた。わたしだけじゃないんだって、思った」
ナイアはトガの目を見つめる。トガの目の色は変わり、彼女の話に夢中になっているようだ。
「そのとき、わたし、思ったんだ。人は一人じゃ生きていけない。支えあうことで生きていけるんだって。それで、わたしと同じ境遇の子を助けたいって思った。それがわたしが聖神会を作った理由」
話を終えたナイアは、トガの体を抱きしめた。
「トガくんはあのときのわたしと同じだね。辛くて世界がとても怖いところだと思ってる。わたしはそんな君に居場所を与えたい。守ってあげたい」
「……僕も、居場所見つけられる?」
ナグーは驚いた。トガは滅多なことでは喋らない。ましてや初対面の相手であればなおさらだ。そのトガがナイアに心を開いている。あんな表情を見せたことなどナグーにすらないのに。
「もちろんだよ。わたしはそのためにここに来たんだから」
脱いだ服をきてから、ナイアはトガに手を差し伸べる。もはや、なんの迷いもなくトガは彼女の手を取った。ナグーはそれを見て首を振る。
「……こちらが寄り添っているつもりでも、結局は同じ境遇の人がその人を一番わかってあげられるものなのかもしれませんね」
ナグーは正直ナイアを見た時に、この人は大丈夫だろうか、と疑っていた。歳が若く経験が足りないのではという疑心があった。でも、今はその疑心は立ち消えている。トガを抱きしめた姿はまさしく聖女と言ってもいい器に思えたからだ。
「トガをよろしくお願いします」
「ありがとうございます。絶対に幸せにします!」
ぐっ、と握りこぶしを作り丁寧にお辞儀をするナイア。ナグーは二人が出て行った後も頭を下げていた。
ナイアとトガは手をつないで、道を歩いている。トガはおどおどとしているが、その目にはかすかな希望のようなものが芽生えていた。それからほどなくして、ナイアが足を止めた。
トガは目の前にあるものを見て、驚きのあまり声を上げた。
そこには翼があり流線状のフォルムをした機械――魔空機があった。厳選した魔核を使用し、それに対応したエンジンを用いることで浮力と推進力を利用することで空を飛ぶ画期的な機械である。
ただ、対応した魔核を集めるのもエンジンにも莫大なコストがかかるために生産数は少なく、限られた富裕層しか扱えない機械である。普通の庶民であれば一生乗ることができない乗り物だ。
それがトガの近くにある。
「こ、これ、ナイアさんの?」
目を輝かせるその姿は、まさに年相応の子供だ。
「そうだよ。いろいろと世界を回ることがあるからね、必要なんだ」
「の、乗っても?」
おずおずと尋ねるトガに、
「もちろんだよ。もうわたしたちは仲間だからね」
ぱっと花が咲いたような笑顔を見せるナイアにトガは大きくうなずき、魔空機へと走っていく。そんなトガを彼女が手を振って見送っていると、
「ナイア様」
声がしたので、ナイアは振り向く。そこに立っていたのは眼鏡をかけた若い男性だ。執事服をきており、その服にはしわ一つない。端正な顔をしているが、その表情には生気がまるでなく機械を連想させた。
「わざわざ出迎えご苦労様、ラン」
「いえいえ滅相もございません」
恭しく頭を下げるラン。顔を上げて魔空機の方へと視線を送る。よほど嬉しいのか、魔空機の窓に顔を張り付けていた。
「あれが例の子供ですか」
「そう、なかなか数値が高くてね。いい素材になりそうだよ、あの子」
ふふふ、とナイアは無邪気に笑う。そして、何かを思い出したように彼女は服を脱いだ。上半身をはだけさせて、ランはそれを無表情に見ている。その体にはひどい傷跡が刻まれているが、ナイアが傷に手で触れると跡形もなく傷が消えた。
「すごいでしょ? 凶獣カメオーンの体液を使って作ったんだ。相手には本物の傷に見えるはずだよ」
カメオーン。周囲の環境に合わせて風景に溶け込む特徴を持った凶獣であり、かつてダスティンが教団から姿をくらますためにその体液を用いて変装に使っていた。これはその技術の応用である。
「なるほど。しかし、これには何の意味が?」
「相手の関心をひける。それに、人間て同じ性質の人に集まるんだよ。性格が暗い人は暗い人同士、明るい人は明るい人同士って感じでね。関心をひけるってことは興味を持ってもらうことになる。トガくんは凶獣に両親を殺されてるから、同じ目に遭ってる人の話を興味深く聞いてくれる。たとえ、それが作り話であってもね。それで、この人は自分をわかってくれるかもしれないって思っちゃうわけ。傷を見せることで心に入りやすくなるって言ってもいいかな。ここで、ランに質問です。心に入られたトガくんはどうなると思う?」
わかりません、とうように首を振るラン。ナイアは得意げに人差し指を立てる。
「わたしの言うことに疑いを抱かなくなる。つまり、支配しやすくなるってこと。でも、作り話もトガくんが信じれば本当になるからね。結局、わたしは嘘をついてないってことになるね」
あはは、と笑うナイアにランはぱちぱちと拍手をする。
「さすがです、ナイア様。奥が深い」
「ありがと。あっ、そうそう今はナイアじゃなくていいよ」
「かしこまりました――ラティア様」