甕の中の深緑色の水のその更に深い深い奥底に
私は小学1年生の頃、人が死ぬところに遭遇した。
私の母方の祖母は山中の大きな屋敷に住み、そこには祖父母と叔父夫婦、それにいとこの純ちゃんがいた。私はその日まで頻繁にその祖母の家に遊びに行っていた。
祖父はすでに寝たきりで肺を病んでいるという理由もあり、縁側の奥にある日当たりの良さそうな部屋に寝かされてた。『肺の病は感染る』と、その部屋への立ち入りは禁じられていたため、ついに最後まで祖父に会うことはなかった。
死んだのはいとこの純ちゃんだ。私より3つ下で私の後を「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と呼び、ついてくる可愛い女の子だった。私が遊びに行った冬のある日の午後、庭先の巨大な甕に落ちて溺死した。
庭先の甕は当時7歳の私の背たけほど大きなものだった。何に使われているのか判らないが、甕は半分雨ざらしで、雨上がりには軒の滴が甕にポツンポツンと落ち、水紋を広げる。私はそんな祖母の庭の情景を愛した。
叔父は入り婿と言うこともあってか、家で陽気に口を開く人ではなかったが、私が来ると嬉しそうにもてなしてくれた。冬の料理には冬瓜の煮物など、畑でとれるものが多かった。私はこの味の薄い冬瓜の献立が苦手だったが、優しい叔父が好きで笑顔を作って食べていた。
「冬瓜は『冬の瓜』と書くけど、旬は夏なんだ。この冬瓜の収穫は9月だけどまだまだ食べられる。保存の利く野菜なんだよ」
私は冬瓜の旬など興味もなく聞き流していたが、記憶に残っている話もある。
「うちは双子の冬瓜ができると必ず片っ方は捨ててしまう決まりなんだ。食べられはするけど、禁忌…って難しいか。縁起が悪いから捨てちゃうんだね」
「もったいないね」
双子の冬瓜の話も縁側の日だまりで、純ちゃんと二人して聞いた話だった。そういえば甕の形も冬瓜によく似ていた。
祖母の家では1月の終わりから3月3日まで雛人形が出され、縁側に飾られた。長い間飾るのだなとは思ったが、母から普通の家でも2月中旬からで、そんなにビックリすることではないと言われた。
日だまりの縁側と雛人形、深い緑色の甕、私と純ちゃんと叔父…私が知るもっとも幸せだったときの「あの家」のイメージだ。
縁側から覗き込む甕の直径は私の体より優に大きく、いつでも水が縁までギリギリに貯まっていた。甕の底はまるで見えなかった。澱んでいるのではなく特に厳冬の時期、水は美しい緑色でどこまでもどこまでも深い色合いになるのだった。
ある日叔父は私と二人きりになった縁側でしみじみと言った。
「うちは女系家族でね」
「じょけいって何?」
「女の人の方が強いってこと」
「そうか。そういえば、この家には男の人は叔父ちゃんだけだもんね」
「………そうだね。できたら男の方が強い家になるといいんだけど」
「それで叔父ちゃんが冬瓜食べて、叔母ちゃんがお肉を食べてるんだね」
「フフ、かなわないなあ。よく見てるね。叔父ちゃんは冬瓜が好きで食べてるんだよ。叔母ちゃんに言ったら気を悪くするから、内緒にね」
私は子供心に叔父の気の弱さがおかしくて、笑いながら秘密を約束した。
叔父がふと雛人形を見た。飾る期間の長さもその「女系」に関係があるのかな、と思ったが口にはしなかった。そうやって見ると雛人形は怖かった。
もう甕の表面に氷が張る季節になっていた。
時折私はこの甕に頭から潜っていきたい誘惑にかられた。この美しい緑色の底には何があるのか、吸い込まれるような甘い誘いが聴こえるようだった。
祖母は時々、縁側で甕を覗き込む私に声をかけた。
「気をつけ。落ちたら、じばるばですよ」
「じばるば?」
祖母は私の恐ろしげな顔を満足そうに見つめ、言った。
「『じばるば』は人の住むところではないの。亡者と餓鬼の巣ですよ」
私には半分以上意味がわからなかったが、恐ろしい場所だと感じた。
「怖がらせですまんね。あんたの背んなら落ち着いて真っ直ぐ立ってれば、手出るが」
要は身を乗り出して覗き込まないこと。それに落ちたところでまっすぐ立てば私の背なら辛うじて手が出るから脱出するのは難しくないこと。そして脅かしすぎたという謝罪だったと思う。
私は大丈夫だが、純ちゃんは大丈夫ではなかったのだ。純ちゃんの背丈では手が出ない。私は純ちゃんの前で頻繁に甕を覗き込んだりしてはいけなかったのだ。
だから間接的に純ちゃんを殺したのは私だ。
祖母から注意を受けても私は甕を覗き込む癖が抜けなかった。恐ろしいモノが住む「じばるば」につながる緑色の沼が、それまでよりも不可思議で美しい深緑に見えた。怖いけれど、この緑色の世界の底を見てみたい、私は縁側から甕を覗き続けた。
私が叔父の「女系一族」の話をよく覚えていたのは理由がある。叔父の服は私の目から見てもいつも粗末で古いものだったのに対して、祖母や叔母の服はきれいであることが多かった。この家でいつも綺麗な服は祖母と叔母、常に粗末なのは叔父、純ちゃんは不思議なことに綺麗な服と粗末な服、交互に着ていることが多かった。今思うと不可解なことだが。
尋ねれば「自分の趣味だ」と答えるだろう叔父に質問はしなかったが、子供心に優しくて気の弱い叔父が気の毒だった。
私は「家」というものが家族の集う楽しくて温かい場所というだけでなく、得体の知れない不気味さを持つものであることを知り、あの巨大な冬瓜型の甕は「家」の不思議さや底知れなさの象徴としての記憶された。ただそれでも、私にとってあの緑色の水の底は綺麗で惹かれる世界であり続けた。
冬の終わり、私は裏の畑で遊んでいた。柿の木の根元の落ち葉や小枝を集めて小さな「家」をこさえることに熱中していたのだ。
何かが水に落ちる大きな音が聞こえた。縁側の近くには池もあったし、鯉がはねて音を出すことも珍しくなかったから、様子を見に行くこともしなかった。
ただその後、続けてバチャバチャと水の音が聞こえ、私はようやく中庭に行ってみた。
先ほどまで縁側で遊んでいた純ちゃんがいない。庭は静まりかえっている。
何が起こったのか想像できた。震える足で縁側にあがり、甕を覗き込む。美しく澄んだ緑色の水が湛えられた甕はいつもと変わりないように思えたが、私は縁側に座り込み、恐怖とほんの少しの憧れを持って甕の水面を覗き込んだ。
純ちゃんは行けたのかもしれない。あの緑色の底の向こうまで、「家」を乗り越えて…
次の瞬間、私は声にならない声を出してへたりこんだ。緑色の水の向こう側に確かに顔が見えた。能面のような白い顔。私は誰にも何も告げぬまま、祖母の家を飛び出て戻らなかった。
その日、私は帰宅してすぐに布団に潜り込み高熱を出した。
熱が引いて眼を醒ますと、お葬式から帰ってきた母の喪服が眼に入った。私は自分が黙って逃げたことへの後ろめたさで何も言えず、もう一度布団に逃げ込んだ。
母は私がよっぽどショックを受けたと思ったのだろう。葬式の様子のことも祖母の家の話題も、その後一切出さなかった。
なのに何故か叔父さんがショックのあまり、雛人形をすべて捨ててしまったという話だけは聞いてしまった。気持ちはわかったが、その行動も怖かった。
私はそれからも祖母の家に行かず日々が去って行った。
ただあの甕のことは頭から離れず、時折うなされた。
高校生になって久しぶりに祖母の家のことが話題になった。私は古い傷を触られたように感じ、鼓動が早まるのを止められない。
「明日のお葬式には出られそう?」
「おじいちゃんが亡くなったの?胸の病気と聞いていたけど」
母が眼を丸くする。
「おじいちゃんはあなたが小学校の時に亡くなったでしょう。あなたはそれがショックでおばあちゃんの家に行かなくなったと思っていたのに」
「…え?じゃあ今度のお葬式って」
「おばあちゃんよ。あなた一度くらいは遊びに行ってあげれば良かったのに」
「…」
あの時亡くなってお葬式をあげたのは祖父だった?私は勝手に勘違いをしていたのか。
では純ちゃんは?純ちゃんは生きているの?母に訊くことは出来ない。不謹慎な疑問に思えたし、何より怖い。
「…お葬式、出なくちゃ駄目?」
母は少し考え込み、言う。
「駄目じゃないわ。でも昔お世話になったお家なんだから、お線香くらいはあげにいけたらいいわね」
私はまだ恐ろしい。あの大きな甕はまだあるのか。あの時見た顔は何だったのか。
数週間して私はようやく踏ん切りをつける。祖母の家、今は叔父の家となるのかそれとも叔母の家なのか。そういえば祖父がまだ生きているときも、私も母も『祖母の家』と呼んでいた。再び叔父の『女系家族』という言葉が久しぶりに蘇る。線香を上げに行く足取りが重くなる。
私を迎えてくれたのは高校生になった純ちゃんだ。意外にも元気でニコニコしていたが、私は驚愕が隠せない。
「…純ちゃん?」
「うん。お姉ちゃんだよね。本当に久しぶりだ」
「男の子だったの?」
「…?」
唖然とした純ちゃんの顔。
「女の子だとばかり…」
純ちゃんが笑い始める。
「ひどいなあ。じゃあ今の今まで勘違いしてたって、そういうこと?」
家で旧家らしい立派な仏壇にお線香をあげる。だがそれより驚いたのは叔父の変貌だ。
何となく気弱で物憂げにさえ見えた叔父が太って堂々としている。
「叔父さん、ちょっと太ったんじゃない」
少しだけ気分がほどけ始めた私がからかうと、叔父は豪快に笑う。
「ガハハハ、ここ何年か食べ過ぎかもな」
私は緩み始めた心をもう一度、しぼませる。
叔父の外見ではなく、その態度と何より笑い方…そんなガハハハというような笑い方をする人ではなかった。何かが変だ。
叔父が奥に向かって声をあげた。
「おい。お茶!遅いぞ」
何となくオドオドした叔母が作り物めいた笑顔でお茶を運んできてくれる。何かが怖い。
恐る恐る縁側に行く。変わりない。あの甕もあったが、あの時感じたような大きさはではなかった。
「こんなに小さかったかな」
私の呟きに純ちゃんが答える。
「お姉ちゃんがこの甕をよく覗き込んでたの覚えてるよ。こういうのって子供が見ると大きく見えるし、ショックだったことは大人になっても余計に怖かった思い出に膨らんでいくんじゃない?」
純ちゃんの言葉は私の聞きたかったことを先回りして答えている。
数日して、純ちゃんから連絡がある。
「会いたいな」
私は承諾する。
年下だけど、すでに頼りがいのある雰囲気を持つ純ちゃん、…いや純くんに私は何だか惹かれていたのだ。
カフェで向かい合う私と純くん。どう見えるだろう。
「ねえ、僕たちどう見えると思う?」
私は何だか恥ずかしくなって、下を向いてしまう。
「コーヒーカップをじっと覗き込む感じが昔と変わらないね」
純くんがからかう。
…何と? …覗き込む?
冬瓜の形の大きな甕 たまった緑色の水 底の見えない美しい世界
私の頭にひとつの考えが渦巻き、恐ろしさで震えが止まらなくなる。
「どうしたんだ?お姉ちゃん、どうした?」
純くんの声は純ちゃんの声ではない。当たり前だ。
女性の綺麗な服と男性のお古
日替わりでお古を着ていた純ちゃん
双子の冬瓜はひとつを捨てる
もし純ちゃんと純くんが双子だったとしたら
要らなくなった一人を甕に捨てたのだとしたら
だから雛人形は要らなくなったのか
「男の方が強い家に」と願った叔父さんの変貌…
女系家族…残ったのは叔母さんだけ
「どうしたの?ねえ、お姉ちゃん、どうしたの?」
純くんの声は純ちゃんの声ではない。
「じばるば」はあの家だったのだ。
読んでいただいてありがとうございました。暗くて閉じていて、でも深くて生温かい日本家屋を書きたかったんですが。難しかった。手に余るテーマでした。
企画参加というものに初めてチャレンジさせてもらいました。いろいろアドバイスもらえるのはすごくいいですね。嬉しいです。