貴女と一緒に聞いたあの風鈴の音は
さぁさぁと、風で木々が揺れる音が、家の中でもはっきりと聞こえる。
昨日までは風鈴の音も聞こえていたのだが、不意に落として割ってしまい、今は無い。
その風鈴は、昔から縁側にかけてあったものだが、遂に割れてしまった。
一体何年間、そこにぶら下がっていたのか。
思い出の品だったので、壊れてとてもショックだった。
彼女は、悠々とお茶をしばきながら、その縁側に座っていた。
目の前には、永遠に続く様に見える木々と、その奥に聳える山がある。
桜はもう散り、緑葉が一面に広がっている。
彼女は、少しだけ茶が残っている器を、木製のお盆の上に、カタンと置いた。
そこで彼女が、ふと右手を伸ばすと、そこには、かつての家の主人の物だった、黒と白のコートがあった。
着古されたそのコートは、もう穴が空いていて、とても着れたものじゃない。
彼女は、そのコートを膝の上に置きながら、この家の主人だった男の事を、思い出していた。
貴女と一緒に聞いたあの風鈴の音は
煉瓦造りの家が増えて、街が一面橙に輝くその風体は、“綺麗”の一言では言い表せない程に現代的で、未来的だった。
そして、その街の待遇や景気も良かったことから、移住者も年々増え、今や、世界人口の内の約二割が、この街に集まっているらしい。
最近は、「電波塔」なんて物が建てられて、世に「電話」と言うものも普及し始めていた。
街灯も電灯に変わり、地面も塗装され、『世界一の発展都市』として、世界に名を轟かせていたこの頃。
そして俺も、この街に惹かれ、移住を決意した人間の一人だったのだ。
街の風景を見て、茫然とする。
その街の風貌は、噂通りの美しさで、今までは一度も想像出来なかったその新鮮な景色に、興奮を抑えきれなかった。
一面の煉瓦。
鉄製の街灯。
平らな塗装された道。
横行する沢山の人。
それらは、まるで自分が、別世界にいるかの様に感じさせる程に異質であり、また、素晴らしかった。
今居るのは都市部だが、俺が住むのは、都市部から少し離れた、少し治安は悪いものの、土地代が安く、あまりお金を持っていない俺でも、余裕で暮らしていけそうな場所である。
悪い噂はたまにあるが、そこまで酷い物ではなかったので、特に問題は無いだろうと、この時の俺は考えていた
。
その郊外に着いた。
確かに、治安が良いとはとても言えない場所で、建物は煉瓦造りのものの、ひび割れや損傷が激しく、そこに美しさは無かった。
だが、生きていけない程不衛生でもなく、俺のド田舎の故郷に比べれば、こちらの方が断然良い。
早速、自分の家となる賃貸住宅へと赴き、さっさと家に入った。
既に契約やら何やらの手続きは済ませてあるので、今日、今から此処は我が家となるのだ。
この時、もう既に日は落ちていて、月が照っていたので、この日は、ベッドの準備だけをして、直ぐに床に着いた。
生活する準備が終わったのは、翌る日の夕暮れだった。
持ってきた最低限の荷物を設置しただけだったが、それでもまぁまぁな時間がかかってしまった。
それは、物量もあるのだが、なんにせよ一人なので、時間がかかるのは至極当然のことであった。
そして夕食を買い出しに出たその帰路の事だった。
家の前を、幼い少女が、ふらふらと通過していったのだ。
顔は真っ青でやつれ、着ている服も、ボロボロの布を羽織っただけで、その布を少し引っ張れば直ぐにでも開けてしまいそうで。
全身汗だらけで痩せ細り、今にも精魂が尽きてしまいそうな風体の少女だった。
周りの大人は、その少女を無視し、それどころか、まるで塵を見るかの様な目で、少女を眺めた。
「そんな格好じゃ寒いでしょ。」
我慢が出来ず、俺は、少女に声をかけた。
そして、今着ていた黒と白のコートを、少女に羽織らせる。
すると少女は、バッと振り向き、青褪めた顔で、怯えながら、全身を震わせていた。
そして、ずっとどうすれば良いのか困惑していた時、通り過ぎの中年男性に、声をかけられた。
「おい兄ちゃん。その子とは、あんまり関わらない方が良いぜ。」
少し小さめの声で、俺にそう言った。
「何故ですか?」
純粋に、理由が分からなかったので問う。
「だってその子よぉ、親に売られた『女児奴隷』じゃねぇか。ほれ、此処に、その紋章があるだろぅ。」
そう言って男は、少女の羽織っていた上着と布を無理矢理取り、少女の胸の間を指差した。
少女の胸の間には、何か複雑な形をした図形が描かれていた。
少女は、その胸を隠そうとするが、男がそれを許さず、払い除ける。
それでも少女は、その細い手で抵抗した。
だが、その抵抗も水の泡。鬱陶しいと感じた男が、腕を掴み、地面に投げつける。
泥の水溜まりに少女の体が落ち、少女の体に、大量の泥が付いた。
そして男は、少女に向かって唾を吐いた後、この場を去った。
俺は急いで布を拾い、少女にかぶせ、その上にコートも、羽織らせた。
だが少女に、起きる気配がない。気を失っている。
俺は、少女を抱え、自室に運んだ。
少女が目覚めたのは、翌る日の夕暮れ時であった。
夕食の支度をしていて、今から食べようとしていた時である。
食卓から見える位置にあるベッドから、物音がしたのだ。
そのベッドには、少女を寝かせてある。
少女が目を覚ましたのではないかと思い、フォークを机に置き、立ち上がり、ベッドの傍らに座り込んだ。
少女の指が微動し、のそっと上体が起きた。
俺は少しビックリしてしまい、少し後退した。
そして少女は、辺りをゆっくりと見渡し、俺と目があった。
「ヒッ………………!」
少女の顔がサーっと真っ青になり、俺から距離を取ろうと、足でベッドを蹴りながら後退した。
そして少女は、自分が服を着ている事に気付き、はっとした。
少女が倒れている間、お湯で湿らせたタオルで体を拭き、少し大きめではあるものの、無いよりかは良いだろうという事で、俺の服を着させておいた。
「風邪ひいたらいけねぇからな。」
俺は、少女と距離を取ったまま言った。
「………………貴方が、着させてくれたのですか?」
可愛い女児の声で、少女は問う。
「あぁ。」
俺は、少し微笑みながらそう返した。
すると少女は、ベッドの上で、律儀に正座した。
「あ…………ありがとうございます………………」
少し顔を赤らめながら、少女は言った。
暫く経った。
少女も落ち着いてきた様で、今は、食べている途中だったご飯を、少女と分けながら食っている所だ。
未だに、少女の事を何も聞き出せていない。
何故あんなにやつれていたのか。
通りかかったあの中年男性の言っていたことは事実なのか。
もし事実であった場合、少女は「親に売られた」事になるので、少女を傷付け兼ねない。
少女を傷付けることだけは避けたかった。
そうしながらダラダラと悩んでいると、食事が終わってしまった。
少女は食器を机に綺麗に並べて、俺に向かって再び正座した。
「あの………………お願いがあるのですが……………」
少し小さな声で、少女は言った。
「これから暫く、この家に置いていただけないでしょうか。」
少し早口に、少女は言った。
「嫌なのであれば直ぐにでも出て行きます。ですが……………」
少女は、少し俯いた。
「………………何故? お父さんやお母さんは何処に?」
今しかないと思い、少女に聞いた。
今思い返すと、この聞き方は、少女にとって少しきつい言い方だったのではないかと、反省する。相変わらず頭の切れない男だ、俺は。
少女は、少し黙った後、自分の処遇について話し始めた。
――――――――――――――――
数年前、少女はこの町で産まれた。
美人の母と少し美形な父を持つ親子だとして、町でも一躍有名であった。
少女にとって、毎日が宝物の様で、とても楽しく、この時間が永遠に続くと思っていた。
だが、その日常が終わったのは、少女が五つになった時だった。
母がいきなり、少女を売ると言い出したのだ。
理由は至極簡単である。
この町では、顔立ちの良い男が重宝され、敬われれていたのだ。
なので母は、この町でも随一の美男に少女を売り、その男の下で過ごすのが、一番の幸せだと信じきっていた。
母は、娘の事を思った行動だったのだが、勿論そんな訳はなく。
少女の幸せは、見ず知らずの男と過ごすことではなく、父母と一緒に暮らす事であった。
母はそれを理解していなかったが、父は、その事を重々理解していた。
なので父は、母のその案に猛反対する。
未だ幼かった少女は、その話の意味が分からず、只々混乱することしか出来なかった。
そしてその出来事の数日後。
母は自分の意見を曲げず、少女を売ろうとしていた。それが少女の為になると勘違いをしながら。
この日は父が、仕事で町を出ていた。
そして少女は、母に連れ出され、父の居ない時に、少女を売ったのだ。
母は、達成感と幸福感でいっぱいだった。
なので、家族との別れを思い知らされて泣き叫ぶ娘の声など、一切耳に届いていなかったのだ。
それからの毎日は、地獄の様だった。
毎日、その男に使われた。
掃除、家事は勿論。男の気分が悪く、行為に及ぼうとした時も、抵抗出来ずに、只々売春させられた。
殴る蹴るは勿論、行為後の掃除も、費用困憊の中強制され、少しでも抵抗すれば、直ぐに暴力。
その扱いは、まるで「奴隷」だ。
これが、母の言った幸せなのだろうか。
母はこれを、幸せと感じることができるのか。
母は、女児奴隷となる自分を見て、何故あそこまで楽しそうに出来るのか。
少女は、自分を売った母の性根を疑った。
そしてある日、此処から逃げる事を決意した。
皆が寝静まった深夜、少女は、屋敷を抜け出した。
掛け布団一枚を小さい体に羽織り、月光の降る町の中を、精魂尽きるまで走り続けた。
――――――――――――――――――
そうして、俺と少女はあそこで出会った。
少女曰く、それが、俺と出会った経緯らしい。
少女が、思い出したからか、正座をしながら小さくうずくまって、歔欷の声をあげる。
俺は悩んだ。
もし少女を家で泊めたとして、その主人とやらが家に入ってきた場合。自分の身に危険が及ぶかもしれない。
だが、今突き返してしまうと、少女は帰る場所がなくなり、最悪餓死するか、今までの生活に戻るかのどちらかになる。
俺には、こんな幼い少女を、外へ捨てる事など、出来る筈が無かった。
「…………良いよ。家に居ても。」
それを聞いた少女は、バッとこちらを向き、キラキラした視線を向ける。
「…………本当……ですか………………?」
「あぁ、二言は無い。ただし、家事は手伝えよ? 俺一人じゃ養えねぇから。」
「そ、それは勿論! ………………誠心誠意働かせて頂きます。」
そう言って少女は、深々と頭を下げた。
それから俺と少女は、同じ部屋で過ごす事になった。
少女はよく働いてくれて、とても助かっている。
働くと言っても、俺の家事の手伝いなどで、特にお金を払う訳でもなく。普通に、お手伝いといった方がわかりやすいか。
少女の笑顔を見たことは無いが、その仕草から、この生活が楽しい事は容易に理解できた。
ある日の夕食中。俺は少女に、自分の故郷についての話をした。
そう。あのド田舎の話である。
だが、ド田舎と言えども、良いところがない訳ではない。
俺は、実家にある縁側に一人で座り、目の前の木々と聳え立つ山を見、風鈴の音を聞きながらお茶をしばくのが好きだった。
母や父はもう居ないが、その家は、未だに大好きである。
その話をすると、少女は、目を輝かせながら、「もっと聞かせて」と言わんばかりに、ソワソワした様子を見せる。
だから俺は、その期待に応えて、幼少期の話や、その父母との思い出など、思いつく故郷の思い出を全て言い尽くした。
その話を聞き終わった少女は、少し俺の目と視線を外し。
「私も、貴方の故郷に行ってみたいな………………」
と呟いた。
「いつか行けたら良いな。」
俺がそう言うと、少女はとても安心した様な顔を浮かべた。
後日。
この日も、いつも通り二人で過ごしていた。
もうこの時には、この生活が当たり前になっていて、日常になっていた。
そんな日の夜の事だった。
ドンドンドンドンドン
突然、家に誰かがやってきた。
俺は夕食後の食器洗いをしていたので、少女に出て貰う。
ガチャッ
ドアの開ける音が聞こえた瞬間。
ドサッ
誰かが倒れる音がした。
急いで駆けつけると、玄関で少女が、腰を抜かしていた。
直様、誰が来たのかを確認する。
そこにいたのは、顔立ちの整った男が一人と、サングラスをかけた、体のゴツい男が二人。
少女の視線を見るに、少女は、中心にいる顔立ちの整った男を見て腰を抜かした様だ。
「いきなり押し入って済まないね。この奴隷を捕まえたら直ぐに帰るから。」
中心の男は俺にそう言い、少女に近付いていった。
そして、少女の元に着いた瞬間。
パチィィン!
男は、少女の頬を、強くぶった。
俺は少女の元に行こうとするが、後の男二人が許さない。
「こんな物着やがって…………」
中心の男はそう言い、なけなしの俺のお金を叩いて買った少女の洋服を、破り捨て、少女を全裸体にした。
少女は、破れた服の切れ端を取ろうとするが、腹を蹴り飛ばされ、それも叶わない。
少女の瞳から、一粒の涙が見えた。
その後少女は、男に罵声を浴びせられ続けた。
まるで子供かの様に地団駄を踏み殴る男を見ながら俺は、何も抵抗出来ずに、只々棒立ちをしていた。
こんな自分が嫌だった。
少女を守ると心に誓ったのにも関わらず、いざ現実になると、一歩を踏み出せなくなる自分が嫌だった。
あぁ、今すぐ此処から逃げ出したい。
決心も、誇りも、それらの全てをほっぽり出して、此処から去りたい。
もう嫌だ。
もう嫌だ。
辛い。
そんな時、少女のある言葉が。脳裏を過った。
『私も、貴方の故郷に行ってみたいな………………』
ここで逃げるわけにはいかない。
いや、逃げるのなら一層のこと、一人ではなく、少女と一緒に、二人で逃げれば良い。
そうだ。
そうすれば良いのだ。
突然、勇気が湧いてきた。
俺は、足元にあった黒と白のコートを拾い、羽織った。
サングラスの男二人は今、顔立ちの良い男の方を向いていて、俺の方から見ると、背中がガラ空きである。
「うぉぅりゃ!」
後ろから俺は、二人の金的を蹴り飛ばした。
「グゥゥゥゥゥゥ!!………………」
二人は悶絶し、地面にへばった。
それを確認した俺は、直様少女の元へ走り、少女の手を引っ張って、家を出た。
いきなりの事過ぎて、顔立ちのいい男は、気付けていなかったと見える。
不幸中の幸いである。
家を出て、建物を出て、一目散に走った。
走って、走って、走って。
もう、訳の分からなくなるくらい走った。
頭がおかしくなりそうだ。
だが、そんな事関係ない。
少女を守る為、走るのだ。
俺の体力など、問題ではない。
少女は、自分の腕を引っ張って走るその男を、自分の父に錯覚した。
昔、父と手を繋いで遊んだ時の記憶。
今はもう会えないであろう、父との思い出。
忘れたくても、忘れられない思い出。
あの優しい目。
少し太った柔らかい手。
父の口から溢れる、優しい笑い声。
父の腕に必死にしがみ付く、当時の自分。
確かそれは、私が四つの時の思い出だったか。
つい涙が零れ落ちそうになったがなんとか堪え、少女は、腕を引っ張られるがまま、走っていった。
暫く走り、町を出た。
もうここまで来れば、あの男どもも追いつけまい。
俺は、自分の着ていたコートを、全裸体の少女に羽織らせる。
「あの時も確か、こんな感じだったっけ。」
俺がそう呟くと。
「うん………………」
少女が、淡白な返事で返した。
初めて会ったあの時も、このコートを羽織らせた。
それを思い出すと、それが懐かしく思えて。ついつい笑みが溢れてしまう。
「今はもう、あの家に戻れないだろうから、取り敢えず、俺の故郷にでも行こうか。」
俺は、思いつきで言った。
だが、この手段しかなかった。
さっきまでの家はもう特定されたし、それ以外の方法が思いつかなかった。
「それで良いか………………?」
「……うん……………………」
意外にも、静かな返事だった。
俺の故郷に行ってみたいと言っていたので、もう少し明るい返事が来ると予想していたが、何故が静かな返事だった。
「…………行くか。」
俺は、少女の腕を握ったまま、我が故郷に向かった。
少女は、コートの襟を握りながら、望みが叶う嬉しさと、まだこの人と一緒にいれると言う喜びで、満面の笑みを浮かべていた。
この日少女は、女児奴隷となってから、初めて笑った。
その笑みは、今までの苦しみを取っ払う様な、只々無邪気な、何処にでもいる普通の女の子の笑みだったと言う。
――――――――――――――――――――――
膝の上に乗せたボロボロのコートを、一度羽織ってみた。
ボロボロなので、着るのに時間がかかったが、それでも未だ、着る事は出来る。
彼女は、コートを羽織ったまま、雲ひとつない青空を見た。
チリン…………
彼女は、聴こえる筈のない風鈴の音を聴いた。
彼女は思い出した。
貴方と一緒に聞いたあの風鈴の音を。