短編 毒を置く。
「お金なんて要りません」
そんなもので私達の愛が換算出来るなんて思われた事が、悲しかった。
彼の自宅からそう遠くない、いつもの公園で。街灯に照らし出された顔を見つめながら吐き捨てた。
「なら、どうしろって言うんだよ」
態度を変えた彼の表情は、困惑と苛立ちが半分ずつ浮かんで見えた。これでなんとか別れてくれ、頼むから、とお願いするようなその目が、私の中心を見ている。
「突然すぎて、今日は何も言えない」
辛うじて紡ぎ出した言葉が暗闇に溶け込んでいく。眉根を寄せながら私との中間を見つめて、彼は呟く。
「来週、返事を聞かせてほしい」
何かがあるたびに言われてきた来週という言葉を残して、彼の背中が遠く離れていってしまう。来週までこんな気持ちを抱えたままにすることなんて出来なかった。
きっかけは分かっていた。そしてこの後どうするべきかも考え続けていた。自宅へ戻るなり、用意しておいたトートバッグを掴むと彼の自宅へと向かった。
何度か立ち寄った事のあるマンションの、このドアに鍵はかかっていなかった。レバーを降ろして、聖域へと踏み込む。靴なんて脱ぐ気はない。
キッチンに居た人物は靴音に気付くなり振り向いた。彼のスマホの待受と同じ顔が、口を大きくあけたままこちらを睨む。あまりの驚きに声も出ないのか、そのままの姿勢で立ち尽くす女へと。フローリングをカタカタと鳴らしながら勢いをつけ、冷たい曲線をみぞおちへと滑り込ませた。
「――――。」
大して高くもない鼻から息が漏れる。顔にかかる湿った空気は生臭く、とても気持ち悪かった。顔を背けながら柄に力を込めて、終わらせる。何かに掴まろうとした両手をかわしながら、握ったままだった包丁を手放した。支えとなっていた点を失って床へとうずくまる女を冷静に見つめながら、私は靴のつま先でその肩を蹴った。
倒れ込む音を聞いたのか、彼はドアを勢いよく開けて入ってきた。状況を見るなり危険だと判断したのか、私なんかに目もくれず、妻と呼ばれる者へと駆け寄り、抱きかかえた。彼の水色のシャツに赤い色が染み込んでいくのを見て、そんな色で汚さないでと心の中で叫んだけれど、赤は自分色に染め上げるかのように広がっていく。
最初は呼びかける声に応じていたのに、動かなくなった。気道に入ってむせていたのか、げほげほという音も消えた。ゆっくりと、壊れ物を設置するように床へ置くと、背を向けたままの姿でこう聞かれた。
「なんで、こんな事をしたんだよ」
「だって、私を幸せにしたいって言ってたじゃない。でもその女が居るから苦しんでるんだって。だから、救ってあげたかったの」
何を今更言い出すんだろう、よく分からないけれど。枕元で愚痴を聞いているうちに、これが正しいんだって思ったから、やっただけ。
「出ていけ、この……人殺し。出ていってくれよ……」
そんなの分かってるよ。どこに逃げたって優秀な警察が追い詰める事ぐらい、ドラマや映画みたいに逃げ切れるはずなんてないんだから。
トートバッグから瓶を取り出して蓋を開ける。ネットで手に入れるのは聞いていたよりも苦労したけれど、即効性のある物は意外と安く買えたし、すぐに届いた。
苦い味の後、喉が焼けるように熱くなり、頭が物を考えられなくなっていく。喋れなくなる前に、伝えないと。
「あいしてます、ずっと」
からん、と音を立てて落ちた瓶の横に、私は毒を置いた。
読んでくださって、本当にありがとうございます。