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魔王アリカは怠惰に暮らしたい  作者: 398
魔王アリカは怠惰に暮らしたい

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23話 / やつあたり

 シャーロットとラインハルトの二人がログインをしなくなった。初めこそ直ぐに戻ってくるであろうと思っていたアリカであったが、それが二日、四日、八日と、はや二週間も続けば何故かと疑問を抱かずにはいられない。アリカは自らの楽しい時間を守りたかっただけだ、その為に最良の提案をしたつもりなのに、どうしてこうなったかが理解できない。


 ああ、彼女は子供だった。相手の矜持も考えられず、自分の都合に無理やり巻き込むことしか出来ない子供だったのだ。もしもラインハルトがそれなりの考えとある程度の誇りを持っている男ではなく、自堕落で救いがないような男であったならば、アリカはいい金づるとして利用され続けていたかもしれない。


 ただ和服を揃えて屋敷に全員でそろって話すだけで楽しかった頃とは違い、今は何をする気も起きない。アリカは不貞腐れたような顔で自らの屋敷の最奥の間に座り込んでいた。入り口付近では畳の上にオニギリが横になり、シード・オンラインのスキル・データベースをブラウザで漁っている。


「……オニギリさん、なんであの二人はログインしないんでしょうね」


「俺が知るかよ。ま、坊主は激オコ丸ってところだろうが、シャーロットの方はマジで分からん――あいつとは一番最初にPvPした時にフレンドを交わしてたから分かるが、二週間もログインしないだなんて初めてだな。何せ、俺がログインしたら常にオンライン表示になってるような女だったし」


「随分と廃人な……。でも、ラインハルトさんが怒った理由がよくよく考えても分からないんです。私は良い提案をしたつもりでした、それなのに何ででしょうね」


「さぁてな。俺なら喜んで貰ってトンズラしちまうぜ――それに、そいつは俺に聞く事じゃねえな。本人でも聞いてみればいいんじゃねえの?」


 本人に聞こうにも聞けないことは知っているくせに。そうアリカは溜息を零す。メインクエストを進める気力もなくなった。まるで楽しい楽しい夢から覚めたようだ。長い眠りから目覚めて、退院して、VRMMOをずっとずっと続けて。贅沢をしても困らない生活を続けるだけの金はあるが、果たして本当にこのままで良いのか、そんな疑問さえ浮かび上がってくる。


 いや、それ以上に――自分の居場所がないんじゃないか。そんな錯覚さえアリカは抱き始めていた。両親も居ない。頼れる人も居ない。この世界から目覚めれば、自分を迎えるのは洗濯物とゴミ袋が積まれたマンションの一室だ。今はまだそれでいいかもしれない。けれど、時が過ぎて二十歳になって、三十歳になって。そんな先になっても、今の様な生活を繰り返していると思うと、少しだけぞっとする。


 そこにあるのは――生活に困らないお金だけだ。毎日好きなものを食べて、好きな服を買って、好きな家に引っ越して、趣味に浪費して。きっと、アリカにとってどれだけの贅沢をしても尽きることは考えられないお金だけ。ぞっとするような想像をしてしまったアリカは思わず身震いをして、心を落ち着かせるために深呼吸する。


「……せっかくというのも変ですが、せめて魔王らしい事でもしましょうか。前にオニギリさん話してましたよね、魔王は運営の広告だ、って」


「何もやる気がねーなら、それもアリかもな。アリカだけに」


「はぁ?」


「すまん、冗談だ――続けるぞ」


 落ち込んでるお前の気分を紛らわせてやろうと俺が気を配ったのに――拳をぎりぎりと握り締めながらオニギリは身体を起こすと、アリカの正面へと座り込んだ。


「魔王はイベントに出ると金を貰える。正確にはダラーだが、まぁリアルでも仮想通貨として使えるんだから金って言うぜ――んで、更に広告にも魔王のアバターは利用されてる。お嬢ちゃんも見たことはあるだろ、街中で見かけるシードオンラインの広告とか」


「あぁ……自分のを見ちゃいましたよ。思い出すと胸が苦しくなるような気分になりますが」


「そういえばお嬢ちゃんすげえ痛々しい喋り方してたな。まぁそれは兎も角、魔王ってのは単純に強いだけじゃねえ、ある程度の見栄えも考慮して選ばれてるんだよ。例えば、広告を見た誰かが――こうなりたい、そう思うような強さとカリスマ性って言えばいいのか? ま、ちっと前にリアルで知り合いの運営側の人間から聞いた話だけどよ。それ以外にも基準があるらしいが、基本はそうらしい」


「……」


 確かにそういえばそうだ。アリカ自身は喋り方もあれど、扱うのは明確な炎のスキルだ。尽きぬ焔の約定は見栄えよくシーンを彩り盛り上げ、そして何かの間違いではないか、そう思うほどに強い。ほぼ完璧というレベルでの攻防一体、一対一でも、一対多でも、難なくこなす。


 シャーロットこそ多少地味ではあるが、秘匿的に先行リリースされていた詳細不明の短剣を握り、ありとあらゆる全てのスキルを見切り、時には短剣で引きちぎり、たった一人で四桁のプレイヤーを切り裂いている。極光のアークロイヤルに関しては圧倒的な極光のスキルで全てを薙ぎ払い、大海に関してはあらゆる攻撃を水で阻み、迫りくる者達をただの一撃で押し流した。


「単純に強くなっておけばいいんじゃねーの。で、今度あいつらが戻ってきたらビックリさせてやれ、な?」


 ――今、戻ってきていないのに今後戻ってくると? そんな反論をアリカはぐっと飲み込んだ。まるで戻ってきて当然のような言い方をしていたオニギリだったが、アリカにとってはただの妄信にしか見えない。戻ってくるなら戻ってくるで確証が欲しかった。ただ、その心中にあるのは決して謝りたいからなどではない。自分の居場所を、あの楽しかった時間を取り戻したかっただけだから。


「――そういえば、ちょっと疑問に思ってたんですけど。運営が指定した以外の、魔王以外のプレイヤーから我こそはと名乗りを上げたような人はいなかったんです?」


「勿論いたさ、人数はそんなに多くは無いが。……だが、あくまで魔王は――運営のブランドだ」


「……邪魔に思った運営が何かしらをした?」


「半分は当たりだよ。シャーロットから聞いた話じゃあ、運営から仕事の話って言われてそいつらを全員ノーダメージで倒せって言われたらしい。……あいつはニコニコ笑ってそれを喋ってたぜ、それなりに楽しい時間だったって」


 想像するまでも無い。あらゆる属性付きのスキルは理滅の刃で破壊し、少しでも被弾すれば自死してやり直す。それを挑んできたプレイヤー分だけ繰り返したのだ。勝てば魔王の冠を貰える、そう聞いて申し込んできた人数は多かったが、殆どが運営と基幹AIであるルーセントハートによってにふるい落とされて、十人程度しか最後には残っていなかったが。勿論、ルーセントハートが絡んでいると知っているのは運営の中でもごく一部の人間だけである。


 そんなオニギリの思い出話を聞いたアリカは――分かりました、と言って立ち上がる。


「じゃあ、それをやりましょう! 実に魔王らしくていいじゃないですか!」


「――どういう意味だ?」


「有名な人は探せばそりゃ見つかると思いますが、強い人って言うのは隠れている方もいると思うんですよ」


 銀の髪を翻し、自らの装備を戦闘用のプリセットに切り替えたアリカ。頭から足、そしてアクセサリー枠まで、マーケットで手に入る最上級の品で統一された。当然、ステータスに掛かる上昇率も以前の宵闇のドレスを着ていた頃とは比較するまでも無い。見た目上はアバター装備として宵闇のドレスを設定しているため、何も変わってはいないが。


「なので、今この屋敷が浮かんでいるアイゼンベルクからギルド一つ一つ、領地戦を挑んで土地を頂いていきます――きっと強い人も自分の所属するギルドの番が近づいたら出てきてくれるでしょう。あと、オニギリさんも手伝ってくださいね。私一人だと、少しなんというか、痛々しいと思うので」


「……あぁ、そうかい。それをお嬢ちゃんが選んだならいいぜ、付き合ってやる」


 本当はラインハルトやシャーロットが戻ってくるまで鍛えさせて、自分の暇潰し相手にするつもりが予想がズレた。溜息を零しつつ、オニギリは重い腰を上げて、アリカと同じように装備のプリセットを変更する。アリカのやろうとしていることはただの憂さ晴らしだ。それを否定し、あの二人と話し合うべきだと諭すこともオニギリには出来たが――それでは意味がない。


「(結局、教えてもらっただけじゃ意味がない。ましてや、自分が納得していないことを正しいと説かれて、強要されてもな)」


 何件のギルドから抗議貰うかねえ、と苦笑交じりにオニギリは屋敷を出ていくアリカの背中についていく。


「(悪役を選んでもその先にお嬢ちゃんの居場所はないぜ。初めこそ悪感情をぶつけられるが、辿り着く先は何もねーからよ。嫌われ者になるってことは、誰からも無関心にされるってことだ。……どうせどっかのニュースサイトで記事になるだろうし、あいつら早く見て来てくんねぇかなぁ?)」


 ……


 八月も後半になる頃。ラインハルト――本名、来ヶ谷恭介は、土建屋での短期アルバイトで疲れ果てて自宅へと帰宅した。自らの汗臭い体に辟易しつつ、さっとシャワーで身を清めて、自らの部屋へと入っていく。ほんのわずかに茶色いミディアム程度の髪をバスタオルで吹きながら、恭介は既にログインしなくなったシード・オンラインのニュースサイトをリンカーのブラウザから開く。


「……俺がログイン止めて三週間か」


 あの日の事は思い出しても未だに腹が立った。恭介の母親は都内の病院で入院中、そして妹は今年に大学受験を控えている。とにかく金が要る状態なのだ。もうシード・オンラインで一山当てることを止めた恭介はただただ働くことしかできない。大学が終わったらバイトに行って、夜は寝るだけだ。妹も受験が控えているのにも関わらず、バイトを続けさせてしまっているのが現実。


「アリカさんも大概だ。一千万だなんて出せる訳がない」


 まだ未練はあった。まだまだあの世界で遊びたかった――だがそんな余裕など恭介にはなくなった。いや、余裕だなんて元々無かったのかもしれない。一山当てる、それを言い訳にして遊んでいただけなのかもしれない。この頃、バイトが終わって夜に返ってくると恭介はいつも胃がきりきりと痛んでいた。自らの家族の、将来の不安のせいだった――。


「何を未練がましくニュースサイトだなんてみているんだろうな……それに明日も朝のバイトがあるし、早寝しないと」


 時計の短針は既に十時を回っている。夜更かしだなんてして、バイトに寝坊するだなんて御免だ。いつも簡単な晩御飯を作ってくれる妹にありがとうと言わねば、そう恭介は椅子から立ち上がろうとした瞬間に――思わず、は、と声が出そうなも、その記事の見出しを見つけてしまう。


「……え、いや――間違いでしょ、これ」


 ――紅蓮の魔王が突発的に他ギルドに抗争を仕掛けてる件について。


 思わずリンクに触れて内容を読み進めていく恭介。記事の内容は、紅蓮の魔王がアイゼンベルク周辺のギルドに対して見境なしに領地戦を仕掛けている、といったものだった。大概、領地戦というのは貴重なアイテムが採取できる場所、移動に便利な場所、景観の良い場所、支配領域として街を含む場所を求めて仕掛けられる。


 得られるメリットは土地の利益を独占できること。アイテムであれば採取できるのは自らのギルドだけになるし、街を含む土地を得ることが出来れば一パーセントから十パーセントまでマーケットに出品されるアイテムに対して税を設定することが出来る。だが、これらは暗黙の了解、不文律と言うもので大概扱いが決まっている。


 アイテムに関してはマーケットの平均価格で売買し独占しない事。

 街を含む場合の税率に関しては、一から二パーセントの間に設定する事。


 これらを護ることが出来ないとプレイヤー、ギルドを問わずすぐさま領地戦を吹っ掛けられることになり、直ぐに領地を手放すこととなってしまう。魔王の様な強いプレイヤーであっても、何十時間も継続してログインすることは出来ない。一度押しのけても二度、そして三度と間を置かず多くのギルドが連合と言う体をして襲い掛かってくるのだ。


「でも、こんな場所を取っても何の益もない……アリカさんはバカなのか? こんなこと、単純に顰蹙を買うだけじゃないか」


 その中でアリカは銀の髪を火の粉交じりの風に靡かせて、座り込んでしまった動画配信者だろうプレイヤーに紅蓮の槍を突き付けて口を開いていた。見下すような瞳に一切の陰りは無く、ただただ純粋に、自分がやりたいことを告げているように見えた。その背後ではオニギリが腕を組んで、無表情でそれを眺めている。


『――あぁ、お前が生き残りか。配信カメラが回ってるじゃないか、好都合だ。……聞け、今日から余は一つ一つ、領地を落として回る。ここアイゼンベルク周辺を落としきったら次の街へ、それを繰り返す。どこのギルドでもいい、余が一度でも倒れたらこの遊びは止めだ』


『ちょっと待ってくれ、あんた、ここをどこか別のギルドと勘違いをしていないか!? ここの領地は街を含んでないし、それこそ特産品なんてものが在る訳もない、ただの平野だ!』


 月明かりに照らされた紅蓮の魔王の赤い瞳が煌めく。


『知ってる。それを知った上で、貰いに来た。何せ――ここは余の領域の下にあるんだぞ、ならば余の物であるべきだろう?』


『一体あんたは何を――』


 紅蓮の魔王が指を軽く鳴らす。何が起きたと座り込んだプレイヤーが左右を見渡すが、何か変化が起きたようなものはない。視界に映るのは、アリカのスキルによって炎で薙ぎ払われた無残な跡地だけだ。その時、――ふっ、と月明かりが途絶える。そしてアリカの紅蓮の槍の石突が大地を穿ち、矛先が天を指す。


『ふ、浮遊島……あれはザ・ヘヴン以降のやつで、それがこんな最初のエリアにある訳――』


『あれが余の領域だ。理解したか?』


 石突が浮いて燃え盛る矛先がプレイヤーに突き付けられた。


『……それでも、こ、ここは止めてくれ。空いているエリアが少ないアイゼンベルクでようやく維持できている領域なんだ、頼――』


 紅蓮の矛先が閃き一瞬で座り込んだプレイヤーはポリゴンとなって砕け散る。最後まで情けをかけてもらうことしか考えていなかったそのプレイヤーに、槍を炎に変えて消し去った紅蓮の魔王はつまらなさそうに溜息を零した。配信カメラも本人のリスポーンでこの場から消え去ってしまう。それを逃さぬよう、アリカはまるで挑発するような口調でカメラへ向かって口を開いた。


『止めてみろ、大海、極光、そして――刻の魔王。あぁ、一介の騎士君を連れてきてもいい……期待せずに待ってるぞ』


 動画が止まった。暴言が続くコメントを見ていくような悠長なことはしていられない。何が止めてみろ、だ。一介の騎士だ。文句の一つでも言わなければ気が済まない。そして何故そんなことをしているのかも聞かなければ。椅子から立ち上がった恭介は、シード・オンライン用に買った黒いヘルメット型の接続機器に手を伸ばし――突如開いた自室の扉に驚き動きが止まる。


「お兄ちゃん、晩御飯出来て――……って、シードオンラインに戻る気になったの?」


「……驚かせるな、由香。あと、家族でもノックはしてくれ、心臓に悪いから」


「えー、したじゃん。お兄ちゃんが無視してただけで」


 恭介の妹――来ヶ谷由香は手元に持っていたオムライスとコンソメスープを御盆ごと恭介のデスク上に置いた。


「……戻る気になったってことは、もしかしてアリカさん、いや、紅蓮の魔王のニュースでも見た?」


「……っ、お前、いつから知ってたんだ?」


「三日くらい前? お兄ちゃんが止めてから私もやらないようにしててさ、それでも気になってニュースサイトは見ちゃうんだよね」


 あはは、と恥ずかしそうに由香は髪を掻いた。緩く後ろで纏められた恭介と同じ色の髪がふわりと揺れる。自分がサイトを開くのが遅かっただけで兄弟で同じことをしていたのか――思わず恭介は苦笑する。


「……止めたのは俺の都合だ。由香には息抜きも必要だろう、程ほどにならやってもいいんだぞ?」


「いや、いいよ。受験あるし……でも、お兄ちゃんはまた戻りなよ。まだゲームしてた時にお兄ちゃん話してたじゃん、アリカさんがーとか、オニギリさん? とかがー、って。凄い楽しそうだったじゃん」


「……俺の都合で止めたんだから、別にいいだろ。なんでそんなに再開を勧めてくるんだよ」


「止めた日にお兄ちゃんが凄い落ち込んでたというか、苛々してたから喧嘩でもしたのかなって。ほら、もし喧嘩別れしてたらアリカさんはあれかもしれないよ。メンヘラってやつ。きっと和解するまであのままだよ――暴虐を尽くす魔王様のまま!」


「いや、彼女に限ってそれはないよ……何せ、プライベートも自由気ままの身っぽいし、世間知らずだし。そんな彼女が、俺と喧嘩別れしたからってあんな荒れ方はしないと思うけど」


 呆れたように由香は溜息を零して、恭介のデスクの前の椅子に座った。大分ヘタれちゃってるね、そう苦笑すると立ち呆けたままの恭介に向って真っすぐ向かい合うように視線を向ける。


「これはあれだね。お兄ちゃんと喧嘩別れして、ギルドがギスギスして、爆発ッ! アリカさんはメンがヘラのマジ病み! うわぁ、お兄ちゃんのせいじゃん。ほらほら、責任の一つでも取ってこないといけないんじゃない?」


「……在り得ないと思うよ。何せ、残りのメンバーだってアリカさんとの方が仲がいいだろうし。それに喧嘩の原因は俺のせいじゃない、あっちが勝手な事を言い出して――」


 残りは聞かない。そう言うかのように椅子から立ち上がって背中を向けた由香はとことこと速足で部屋を出ていくと、ひょこりと入り口から顔だけを出して、笑顔で軽口を叩いて見せる。


「ほら、ご飯食べてさくっと解決してきてよ。出来るでしょ、ラインハルト君なら!」


「お、お前、家の中でもそう呼ぶのは止めろっていっただろ!? それにお前だってリーゼロッテだなんて同じ作品のキャラの名前を使っ――……扉、閉められた。はぁ……」


 先程まで由香が座っていた椅子に座り込むと、湯気が立つスープとオムライスが目の前にある。いただきます、そう言って無心で食事を取り、食器を下げるついでに歯磨きを済ませて、恭介は再び黒いヘルメットへと手を伸ばす。


 自らのシード・オンラインのアバターであるラインハルト・ユーフィールはもう捨てたつもりだった。残りの時間は母さんと、由香の為に使うつもりだった。何せ、自分はこの数年の間、シード・オンラインで遊ばせてもらったのだ。もう十分だ、そう自分に言い聞かせて来た。だけども、妹にあそこまで言われると――どうしても自分の手で確かめたくなってしまう。もう一度、ログインしたくなってしまうのだ。


「……もう少しだけ時間を貰うよ、お母さん、由香」


 そして恭介――いや、ラインハルトは再び、シードオンラインの大地を踏みしめる。

 丁度それと同時刻、恭介の妹である由香は自室で受験勉強を勧めながら、ポツリと一言だけ零した。


「お兄ちゃんの楽しそうな顔、久しぶりに見れたんだから。……頑張って解決してきてね、ああいうタイプの女の子は大概面倒臭いと思うけどさ」


 ……


「――大詰めも大詰め。くそ、後は栗山先生に手伝ってさえ貰えれば、いけると思うんだが。いかんせん、俺じゃあ経験が足りん』


 八月も後半に差し掛かる某日。渋谷に聳え立つビルの一つ、その地下に備えられた研究室で極光の魔王・アークロイヤル――真宮寺充は苦い顔をしながら重い吐息を一つ零す。白衣を椅子の背もたれにかけると、疲れ切った体と頭を休める為にメッシュ製の椅子へと座り込んだ。折よく、部下である黛誠一郎が入室し、疲れ切った顔をしてますねー、そう笑いながら真宮寺の手元にコーヒー・カップを置く。


「誠一郎、お前も少し手伝え」


「嫌ですよ、僕はワーカー・ホリックじゃないんで。ていうか僕まで研究室入りしたら誰が充さんの面倒見るんですか。食事も洗濯も僕任せ、研究室引きこもりの先輩をここまで甲斐甲斐しく面倒見てくれる後輩だなんて僕以外にいないと思いません?」


「……その時は手伝いでも雇うさ。実際問題、手伝えと言うのは冗談だ。やはり、ここは栗山先生の手が欲しい――圧倒的な知識と、実力を備えた医師の力がな。課題は超えた、が俺では副作用をどうすることも出来ない、解決の目途が見えん」


 この研究室から直通出来る隔離された空間を、室内硝子越しに真宮寺は一瞥する。そこには――体毛が銀に近いような真白に染まっている研究用マウスと、霜柱に包まれて中身を伺い知ることは出来ない透明な筒状の装置がいくつか並んでいた。


「たまには気晴らしにランチでもしましょうよ、明日にでも。今日は休んだらどうっすか? 充さん、流石に臭いっす。夏場なのに三日も風呂入ってないってヤバいっすよ――服は着替えてても激クサ待ったなしですって」


「む……確かにそうかもしれん。これだけ籠ると、自分の匂いだなんて分からないからな――仕方ない、少しシャワーでも浴びるか。その後で飯にしよう、銀座にでも繰り出すか?」


「お、この前連れだした効果が出てきた? じゃあ銀座行きましょうよ銀座、僕は可愛いお姉ちゃんとイチャイチャ話したいっすね。充さんと外に営業に出ることも無くなって出会い無いんですよ本当、会社の金で癒されたいっす!」


「却下、メシ代なら経費切ってやる。それ以降は自分の金で行け――それとすまんが俺の部屋、社長室から替えのスーツを持ってきてくれ。下着は残ってる予備の奴を使う」


「ちぇー、経費切ってくれてもいいじゃないっすかもう。接待費とかで。……持ってきたらどこ置いときましょ、底の机でいいっすか?」


「構わん。それと、昔ならいざ知らずだが決済のログはリンカー経由で税務署に送られてるぞ。脱税するなら辞めてからやるんだな」


 冗談交じりに真宮寺が笑みを交えて言い放つ。誠一郎はこんな手取り良い仕事辞めないっすよー、そうぼやきながら研究室を出ていった。真宮寺は俺もいかねばな、と併設されているシャワールームへと向かっていく。そういえば仕事に夢中で囲ってる女性プレイヤーと全然話していなかったな、とリンカーを起動し公式から提供されているシード・オンラインのアプリを起動した。


「――誠一郎の言っていることにも一理あるな。今夜は食事を取って、夜はログインして、明日は一日休暇にするか。流石に参ってきた」


 そして慣れた手つきでブラウザを起動し――少し前のラインハルトと同じようにニュースサイトを開いて、紅蓮の魔王がギルド間の抗争を仕掛けている、という見出しを見つける。飛ばし記事か? そう疑問を抱きつつも真宮寺は記事を見て、動画を見て――成程、と首を捻る。


「……以前、リミテッドクエストの時に話した限りではこのような事をするキャラクターには見えなかったが。しかし、気になるな。刻のが付いている筈なのに、なんでこんな枯れた土地に対して? 寝る前にでも事情を聴きに行くか、魔王という冠の品まで疑われるようになってしまっては構わん」


 そこで思い出したように、真宮寺は浮かび出た思考を口にした。


「やはり紅蓮のと、栗山先生のところで会った少女は似ているな。……あの少女の手がかりさえ追えれば、栗山先生に協力を求められる切っ掛けになるのだが」

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