1話 / 黄金の心臓と、尽きぬ焔の約定
技術は日進月歩。例えば携帯電話、昔は持ち歩きだなんて想像も出来ないような大きさと重さだったが、時代が進むにつれて折り畳み式となり、そしてタッチ式となり、遂にはAR(Augmented Reality。拡張現実のこと、人の現実環境をコンピューターにより拡張する技術の事を指す)機能を内蔵したアクセサリーとなった。
日本、いや、全世界を覆う高速ネットワークに常時接続し、決済機能、健康管理、果てはSNSからソーシャルゲームまでを提供するそのデバイスの名前は「ウェアラブル・リンカー」。リンカーは数十年の時を通して愛用されてきた。人々を繋ぐインフラとして栄光の時を過ごしたのだ。
しかし――リンカーの時代は唐突に終わりを告げた。大国アメリカの技術者が、人間の脳と電子世界を繋ぐ技術を開発したのだ。オープンにされたその技術は瞬く間に世界に浸透していき、僅か五年ほどでAR、MR(Mixed Reality。複合現実のこと、現実と仮想のもの同士がリアルタイムで影響する空間を構築することに関する技術を指す)の多くを淘汰した。視神経を介することによって視界に仮想的に表示させたブラウザは、リンカーより高速に、そして鮮明に、よりプライベートになった。散歩の途中で聞くような音楽は、鼓膜を揺らさずに音声信号を伝えることによって、より迫力のある音へ。
VR(virtual reality。現実ではないが、機能としては本質的に同一である環境を、ユーザーの神経を通じて生み出す技術のこと)が生み出した利益はもう数えきれないほどにある。技術の汎用化によって、多くの企業がバーチャルオフィスへと置き換えた。通勤の時間も必要がなくなり、バーチャルの世界で人々は仕事をするようになった。また、医者はあらゆるケースにおける手術を仮想空間で行うことが出来るようになった。難病の患者についても、本人の承認さえあれば身体をデータ化して、何度も何度も繰り返し仮想空間で試行を重ねた上で、最上の治療を施すことができるようになった。技術の進歩はそれだけに留まらない。難病患者の凍結睡眠、失った人体の再生治療、神の領域に手を伸ばさんとばかりに医療は発展を進めていた。
無論――仮想空間の恩恵はそれだけじゃない。娯楽にもその技術は大いに応用されている。その最たるものがVRMMOだ。かつてより夢見た世界が現実となった今、ユーザーはその世界に熱狂し、そして現実世界では決して手に入れられない興奮を求めてその世界へと足を踏み入れていく。
VR全盛期とも言える時代。日本の中枢都市でもある東京、その中に数多ほどある病院施設で一人の少女が目覚めたところからこの物語は始まる――。
篠原里香、年齢は十七歳。両親は既に他界済み、頼れる親戚なども居らず天涯孤独の身元。隔離された病室の中、里香はまだ睡眠から目覚め切っていない頭をさっぱりさせるため、ふるふると首を振った。腰元まで伸びた長い銀色の髪が揺れて、黒い宝玉のような瞳がぱっちりと見開かれる。
定期健診に訪れていた男性の医師――栗山は目の前で、自力で動く里香を見て、ようやく君を目覚めさせることが出来た、と里香が目覚めてから幾度となく抱いた感情を噛みしめた。そして患者の前であることを思い出した栗山は、おっと、と反省気味に自らの白髪交じりの頭を軽く叩く。
「……篠原さんが目覚めて、一か月。特にトラブルもなく過ごせましたね、近いうちに退院できますよ。よくリハビリも頑張りました、辛かったでしょう」
「えーと、あまり辛いとかは感じてなくて。どこか、ぼーっとした感じなんですよね。私が寝たきりになっていた半年くらいの間に、世間に取り残されたような、微妙な感覚」
「後遺症として残るものがなくて良かったと、私は思います。時間が経つにつれて、その感覚も薄れていくでしょう。まずは間近の、一人暮らしが始まるというイベントに目を向けましょうか」
篠原里香は交通事故に合い重傷を負った。両親はその時に他界、里香は生死の境目を幾度となく彷徨った後、主治医である栗山の治療によって目を覚ました。自分が目覚めたら病室のベッドにいる、それまでの経緯をそう里香は栗山から聞かされていた。
「……中々、世間と乖離した感覚というのは直りません。事故の際に故障してしまったリンカーですが、メーカーの好意で篠原さんに新型が送られてきてますよ。それをこれからお渡しするので、そうですね……若者の間では、シードオンラインというVRMMOが流行っていると聞くので、そちらで遊んでみてはいかがでしょう?」
「私、あまりゲームとかしたことないんですよね、それよりも端末で本とか読んでる方が好きで。……それにほら、VRMMOの遊ぶ相手って人間になるじゃないですか。なんとなく、誰かとゲームするっていうことが苦手でして」
「それでも、リアルな人との交流、対人関係は大いに刺激になりますよ。これも寝たきりで置いていかれてしまったと感じている、世間とのリハビリと考えれば悪くはないことです」
栗山は背後に控えていた齢五十程度の看護師から、小さな手のひらほどの白い箱を受け取るとそれを里香へと手渡した。リンカーですね、と里香がその箱を受け取って開けてみると、プラスチック製の土台に銀色の指輪が収まっていた。高級感のある光沢、シーンを選ばないシンプルな見た目。買ったらいくらだ、と想像した里香は思わず顔を顰めて見せる。間違いなく十万とか、下手したらそれ以上の桁になるはずだ。
「……VRMMOをするためには別途、機器が必要になります。篠原さんが付けていたリンカーのメーカーが丁度そのVRMMOの子会社のようなもので、復帰祝いとして機器本体も送られてますよ」
「うわー、なんだか申し訳ない気持ち。……そうですね、やるかは分からないですけど受け取ります。ありがとうございます」
そして栗山と看護婦が去った後、里香はリンカーを右手の薬指へと嵌め込んだ。一瞬だけぱちっと痺れを感じ、里香の身体とリンカーの接続が完了する。古いモデルだと接続されなかったり、とても痛かったりするのだが流石は最新型といったところか、特に不快感もなく接続できた。
「実感なんて湧かないですよ、起きたら天涯孤独だなんて。チープなドラマみたい」
リンカーの接続、認証が完了し、里香の視神経を介して、視界に仮想ディプレイが展開される。個人情報はリンカーに保存されているわけではない。日本全土、いや、世界を覆う無料通信ネットワークを介してクラウド・ストレージ上へと保管されるのだ。リンカーはそこから情報を取得し表示、更新を行ってくるデバイスであるだけ。
指先で仮想ディプレイを操作し、資産項目へと目を移した里香。
「……これからどうしようかなぁ、私」
桁が十個以上刻まれている、高額の保険金でも霞むような、膨大な金額。それらすべてが里香の資産というわけだ。おおよそ買えないものなど永遠の命しかないだろう、一般人からすれば天文学的な金額。とても十七歳が持っていい金ではない。以前聞いた金額よりも増えているのは、両親が生み出した何かのおかげなのだろう。
里香の両親ともに有名な技術者である。だが、里香は技術者ということしか両親の仕事を知らない。想像もつかない何かを作り上げ、利益を生み出し、未だに金を生み出しているということ。それだけのことしか里香には分からなかった。
そして数週間後、里香は無事に退院することが出来た。主治医である栗山から言われたことは、激しい運動には気を付けること、それだけだ。交通事故で頭を強打しているため、念のために、程度であったが。昏睡状態の間に住んでいた場所も引き払われてしまっていたため、入院中に里香は自分の住む場所を買っていた。持っている金額が金額だったため、セキュリティが万全との謳い文句に誘われて、東京都港区のハイクラスのマンションを一括で。担当の営業がやけにニコニコしながら対応してくれたのを、里香はよく覚えていた。
新生活というものは大概、期待と夢で満ち溢れているものだが――里香にそんなものはない。あるのはこれからどうするか、という漠然とした不安と、黙っていても信じられないほどの金が入ってくる故の虚無感。何せ既にサラリーマンの生涯賃金の五倍はあろうという金額が、里香の資産となっている。
今から自分で働いて、金を稼いで過ごすだなんてことも考えられなかった。
「……なるほど、そういうことか。栗山さんが言っていたこと、ちょっとわかった気がするかも」
一人では広すぎる新居。入居と同時に届き、冷蔵庫が近いほうがいいから、という理由だけでリビングの真ん中に置かれたシングルサイズのベッドに腰掛けたまま、里香は納得の表情で頷く。
「人と話さずに、やることもやりたいこともない生活続けてたら、流石に腐っちゃうってことだね。……あー、あんまり気乗りはしないけど、やってみようかな。シードオンライン、だっけ」
人間として腐らず、怠惰に生きる。そんな言葉がぴったりな目標を里香は掲げて、宅配便で届いたダンボールを時間をかけて解体し始めた。そして視界に移りこんでくる銀の髪の毛を見て――ようやく、あれ、と違和感に気付く。これまではぼーっと、長い時間を眠っていた後のように頭が霞みがちだったが、自らの住居を見つけて、そこで一人で暮らすことになって、ようやく自分の姿に違和感をもったのだった。
「……あー、確か、栗山さんが言ってたっけ。事故当時の影響で、脱色したって。戻せないって、申し訳なさそうに謝られましたね」
里香は特に何も感じていなかった。目立つのが嫌ならば染めればいい、ただそれだけのことだからだ。――既に両親がいない、その事実がそれ以外の全てをフィルタリングして、まとめてごみ箱へ捨ててしまっているのかもしれない。胸が痛むような、奇妙な感情を里香は抱いたが涙は零れてこなかった。長い間を寝ていて、その間に涙がどこかに消えてしまったのか、それとも元々自身が非常な人間だったのか、里香にはどちらなのか分からなかった。
時間をかけてダンボールの箱を解体した後、里香はVRMMO、シードオンラインに接続するために必要だと言われた機器を手にして、取り扱い説明書に目を通していた。要約すれば、体調が悪い時は利用を控えてください、身体情報に影響があるような数値が観測された場合は強制的にネットワークから切断されます、の二つ。ゲーム自体の詳細なヘルプはログインしてから見れるとのことだ。
自分の細い掌で抱えられた、真っ白のヘルメットのような機器の重さを感じつつ、里香はふぅ、と吐息を零す。
「平和に、怠惰に、人とのコミュニティを保ちつつ、遊ぶ。うん、頑張りましょうか」
ちくちくと胸に刺さるような痛み。両親が居ない、身内が誰もいない孤独感を振り払うように里香は接続機器を被る。リンカーである指輪をしている右手を、頭から被った機器の右側に当てた。軽快な電子音が響き、リンカーと機器の接続が完了する。そのままベッドに横になって、里香は指先で機器を二回叩いて、アプリケーションを起動した。
……
――僅か一瞬で目の前の光景が切り替わる。
透明な液晶越しの室内から、落ちるように青い空と清々しい緑色の草原の真ん中に里香は立っていた。目の前には、白いドレスを着たNPCの姿がある。透き通るような淡い水色の長い髪に、露出が控えめのクラシック・ドレス。里香が焦点をそのNPCに合わせると、視界上にNPCの名前が現れた。
「ようこそ、シードオンラインの世界へ」
「ありがとうございます、ルーセントハートさん」
NPCの名前はルーセントハート。まるでリアルに存在する人間のように、ドレスの端を摘まみ一礼するその姿はとてもNPCとは思えなかった。
ルーセントハートはそのまま里香を見つめると、整った顔に笑みを浮かべながら、里香へ対してゲームに関する同意を取り始める。
「シードオンラインではユーザーの識別情報を利用し、ログイン情報として取り扱いをさせていただいております。ユーザー様はグローバル・ネットワーク上の個人識別コードを提供しない限り、シードオンラインの世界への入場はできません」
ひゅん、と里香の視界にウィンドウが浮かび上がった。長々しくスクロールしないと最後まで読めないそれは利用規約だった。げ、と里香はげんなりしつつも、ゆっくりスクロールさせつつ、その全てに目を通していく。時間をたっぷりかけて読んだ後に、ウィンドウの最下部の同意するボタンを指先で押下した。ルーセントハートが言っていた識別コードは、リンカーに登録されているコードのことだ。ようは一人一人のデータを管理するために、電話番号を利用する、といったものと考えていい。
ただ、現代における識別コードは戸籍を得たと同時に払い出されるもので、よっぽどの出来事がない限り変更は出来ない仕組みになっている。つまり何かしらをしでかして、シードオンラインの運営にアカウント停止などの処置を行われた場合、永久にログイン不可となるということであった。
「コードを認証しております……完了しました。――里香様、私はあなたをお待ちしておりました」
その時、里香の視界が大きく変わった。草原も、青い空も、全てが白色へ溶けていく。
「それでは里香様のシードオンラインにおける定義を行いましょう。好みのスキル、ステータスを初期設定できます」
ああ、なるほど。設定専用の空間か。里香は納得したように頷き、目の前に何枚も上がってきたウィンドウへ目を通していく。まずは名前だろう、と個人情報の欄に目を通していったが――姓と名を入力する欄の、姓の部分が既に埋まっており、なぜかグレーアウトしていて変更が効かない状態になっていた。
「……ルーセントハートさん。どうして姓があなたの名前で固定されてるんでしょうか?」
「これは贈り物です。意味は分からないでしょう、きっと。それでも里香様が求めれば、いつかそれは里香様の知るところとなります。特にステータスの影響は受けませんので、今はそのまま受け取っていただけると有難いです」
「――いまいち分からないですが、こだわりはないのでいいとしましょうか。それにしても名前……えー、何にも考えてないや、どうしよう」
里香はぽつぽつと言葉を口にする。姓同様、名にこだわりもない。ただ、自分はコミュニケーションを目的としてこの世界に来ているのだ。ならば、大きく自分の名前から外れたもの――例えば、太郎や花子などにしても、呼ばれた際に自分だと気づかず支障をきたすだろう。ならば名前に近いものがいい――そしてア行から自分の名前の先頭に付け足すことにした。
「アリカ。……イリカ、ウリカ、エリカ、オリカ。カリカ、キリカ、グリカ、ケリカ、コリカ――なんかもう選ぶの面倒ですね、里香の響きさえ入っていればいいんで、アリカにしましょうか」
わずか数分で名前が決定した。世の中には新しいゲームを始める際に、名前で数時間悩む人がいるのにも関わらずだ。
別にゲームの世界上での名前だなんて記号でしかない。それが里香の、今の認識である。
「種族……あぁ、人間でいいです。異形の者にあまり興味が。それにとんでもない地雷な香りがしてますからね、なんですかスライムとかゾンビって。平和に人とのグループに入れればいいんで、選択の余地なし……ですね」
「里香様にヒントです。異形であれ、街中に入ることもできますし、通常通り会話も可能です。再考の余地を残しておくのも良いでしょう」
「いや、再考はナシで大丈夫です……オールラウンダーらしい人間様が一番ですよ、初心者ですし」
次に決めなくてはいけない数値は、才能値と呼ばれるものだった。STR、INT、VITの三種類に五ポイントを振り分けてくれ、というもの。左から順番に――筋力、知力、体格。どれがどんなことに影響するか分からない里香は、ハテナマークのボタンを押して、ヘルプと睨めっこしつつ数字を振り分けることにした。
STR――ストレングス。単純な筋力のこと。いわゆる物理系の攻撃力や、最大積載数が伸びる。
INT――インテリジェンス。これは知力の事だ。魔法的な、炎や氷を飛ばすといった攻撃や、マナが伸びる。
VIT――バイタリティ。最後に体格。ライフポイントやスタミナ、マナに補正を受けることが出来る。
「初期ポイントじゃなくて、レベルアップによる上昇幅に影響、ですか。ややこしい……」
ややこしい、と文句を言いつつも里香はぱっと決めて数字を埋めていった。
「どうせファンタジーするならこうでしょう! あまり乗り気じゃなかったですけど、魔法とかそういう要素にはちょっとわくわくしますし」
STRがゼロ。INTが四。VITが一。
里香は知らないが、割とよくあるパターンの入力だった。近接職業――例えば剣士のようなスタイルを好むのであればSTRを四にしてINTをゼロにする、というように、基本的に何かを特化させるというのが、現在のシードオンラインのテンプレートである。例外は敵の攻撃を引き受けるタンクであり、それだけはVITに極振り――五を設定するのが流行り。里香の選んだ値は、魔法使いのテンプレート、とも言えよう。
「ご安心ください、才能値はスキルの習得でも上昇します。近接系のスキルを多く習得すれば、STRに関わるパラメータも上昇しますよ」
「……ご丁寧に、どうもです」
不意に話しかけられて、びくっと反応しつつも言葉を返す里香。
まだログインできないのかなー、と考えつつ、次のスキルの項目へと進んでいった。案の定、よく分からない単語が並んでいたので、ヘルプ機能を最大限に利用しつつ、目の前に表示されたスキルに目を通していく。
「数が多い。多すぎる……初心者にはもっと優しくしてほしい……お勧めセット、のようなものないんですかね、これ」
シードオンラインはレベルアップ要素はあれど、基本はスキル制だ。レベルよりも、スキル習得によるステータス上昇値の方が高いのである。クエストをこなすだけで習得可能なスキルもあれば、報酬としてスキルロールというアイテムを手に入れて使用しなければいけないものもあった。また、スキルの発動にはキャラクターのとあるパラメータを消費する。
そのうちの一つがスタミナ。割と早いスピードで回復してくれるが、大半のスキルにスタミナ消費が設定されているため、不必要な乱発は回避しなくてはいけない。
もう一つがマナ。魔法系統のスキルを利用するたびに消費する、ファンタジーなエネルギーである。
「スタミナ、マナ、それにクールタイム。……頭が混乱しそうですね。ルーセントハートさん、これ、テンプレートってないんですか? 不便ない程度のセットで良いので」
「……承りました。里香様に適したスキルセットを抽出します――完了。こちらでいかがでしょうか?」
「あるんですね、もっと早く教えてくださいよーもう」
にっこりと笑うルーセントハート。里香はそれを見て、ほんとにNPCとは思えないなぁ、と改めて感心した後、ルーセントハートによって選ばれたスキル一覧に視線を向ける。
――点動。スタミナを極めて大きく消費し、瞬間的に半径二メートル以内の任意位置へ直線移動する。クールタイムは発生しない。非戦闘エリアでは発動が出来ない。
……その、点動一つしかなかった。えっ、と間抜けな声を上げて里香は消費した初期スキルポイントを見る。すると、このスキル一つで全てのポイントを利用しているではないか。
「あの、ルーセントハートさん。失礼かもですが、これバグってません? バグですよね?」
「いいえ、誠心誠意、真心こめて選び抜いた結果です。里香様にはこれが最適かと申し上げさせていただきます」
点と点を結ぶ。文字通り、瞬間的な移動を可能にする点動は上級者御用達のスキルであった。何も事前調査をしていない里香は知らないが、高難易度のダンジョン攻略ともなると、敵の攻撃範囲も広まり、威力も高くなる。死亡判定を貰ってしまうと、蘇生されてからしばらくの間は割と重めのデバフまで付与されてしまうのだ。ワンミスをこのスキルだけで回避できるのである、転ばぬ先の杖として多用されている――もっとも、上級者限定、であったが。
極めて大きく消費する――それ即ち、最大スタミナ値の半分プラス一の値であることが分かっている。クールタイムの設定がされてない故に、決して連打出来ないようにされており、初心者が通うことになるダンジョンなどで、点動が必要になる、もしくは、あると助かる、だなんて場面はない。
「……わかりました、信用しましょう。騙されたら運営にお問い合わせしますからね、ルーセントハートさんに嘘付かれた、って」
「ふふ、構いませんよ。ご意見はいつでもお待ちしておりますね?」
「わぁーすごい大人な対応された……これじゃあ私が負けたような感じじゃないですか……」
最後はアバターだ。自らのキャラクターの見た目を決める重要なフェーズである。ウィンドウを見れば、いつの間にか里香自身が映し出されたと錯覚するようなほど、精巧なモデルが表示されていた。ただし、性別は弄れない。他の見た目も大きく弄るようなことはできなかった。
「性別に関してですが、バーチャルで現実と異なった性別を選んだことが原因による人格障害の発生を確認しています。そのため、シードオンラインでは性別の変更ができません。その旨、御承知ください。また、里香様におきましては――<LucentHeartSystemError for 403. This is an unauthorized behavior. Blocked operation.>――により大きく異なる外見の変更ができません」
――人間の様な声色の中に交じったのは機械的なルーセントハートの声。
薄ら寒いものを感じた里香は視界の中に存在するウィンドウからログが表示されているものを選び、そこに記載されているルーセントハートの会話ログに目を通す。
「ルーセントハートのシステムエラー……英語苦手なんですよね。えーと、許可されていない動作です、ブロックしました。……ルーセントハートさん、これはなんでしょう?」
「申し訳ございません、里香様。私からは回答できない種別の問題のようです……ですが運営である株式会社イノセントに代わりまして、申し上げます。決して里香様の不都合になるような類ものではありません」
申し訳なさそうなルーセントハートの表情。とてもシステムとは思えない彼女のそれと、運営会社を代表、という担保に免じて、里香はアバターの設定を進めることにした。ログアウトしたら近いうちにお問い合わせでバグってますよメールを送信しようと心に決めて。
不信感はぬぐい切れてないが、里香には先に進みたい理由もあった。主に身長と、胸に関してである――。
「……瞳の形とか、身長に胸も弄れるんですね。なるほどなるほど」
里香の指先が胸と記載されたスクロールバーに触れて、思いっきり最大値までスライドした。不意にずん、と肩に圧し掛かるような重さが増えたので、里香は自分の眼下を見下ろしてみる。するとそこには、現実世界の自分には見えない巨大な谷間があるではないか。……虚しい。それだけ呟くと、里香は頬を引き攣らせつつスクロールバーを元に戻して、それでもちょっとだけ大きさを上げておく。
視線を感じて隣を見れば、にこにことルーセントハートが笑みを浮かべていた。少しだけ、里香の頬が熱くなる。
「一度くらい、ぶらさげてみたいじゃないですか。興味があっただけです」
「個人の問題なので深くは言葉にしませんが、良いと思いますよ。……ちなみにシステム的な最大値はいわゆるKになります。諸々加味してのKですので、見た目はユーザー様の個人的な数字で差がでますが」
「あっ、そうですか」
個人的な数字とは胸周辺のサイズのことだろう。里香はルーセントハートの大きな胸元に怒りを込めた視線をほんの少しだけ向けた後、ごほん、と咳払いして身長のスクロールバーを少しだけ下げた。他、少しだけ瞳を鋭く。ウィンドウのアバターをくるくると指先で回して覗き込めば、良い感じになった自分自身の姿がある。こういうのはフィーリングも大事ですよね、と里香はそのまま完了のボタンを押した。
「お疲れ様です、里香様。これでシードオンラインへ入場するすべての準備が整いました」
「ご丁寧にありがとうございます。……それで次、私の方でやるべきことは?」
ルーセントハートの淡い水色の髪が、ふわりと踊った。彼女は柔らかい笑みを浮かべたまま、その指先を白い世界の天へと向ける。そしてその口からは、人間そのもののような温かい言葉ではなく――機械的な、先ほどのエラーメッセージを告げた時と同様の、機械的な言葉の羅列が吐き出された。
「篠原里香の初期登録処理――完了。リミテッドクエスト "愛を語るべく" 払い出し処理――完了。指定継承準備――完了。事前準備シークエンスの起動――完了。シークエンス十番までの完了を確認。シークエンス二十番までの完了を確認。二十六番まで全ての事前処理シークエンスの完了を確認。指定継承―― "黄金の心臓" 、 "尽きぬ焔の約定" 完了。シードオンラインの拠点確認処理――完了。初期指定箇所を "リインカーネーションの森" に指定――完了」
思考する暇を与えない情報の羅列に、思わず里香は怯む。口を挟もうとした時には、ルーセントハートは全てを告げた後で、困ったように眉を八の字にしていた。なんと声をかけていいか分からず、とりあえず里香が声をかけようとしたところで、ルーセントハートがそれを封じるように先に口を開く。
「……どうやら演出の一つのようです。度々、不安を掛けるような行動をしてしまい申し訳ありません」
「いや、それは……いいんですが、今のは? 多分これ、本来の挙動じゃないですよね。一度ログアウトして、運営に連絡しましょうか?」
「いいえ、これが指定された私の行動になります。エラーなどによるものではありません」
まっすぐな瞳が、里香を捉える。そこに宿っていたのは――感情だ。焦がれ続けていたものを目の前にして、感嘆を抑えきれないものをみる瞳。どこかで最近見たことがある気がする、そう感じた里香が記憶を掘り起こせば――あの白い病室で、里香のことを見ている栗山医師のものと同じだった。思わず言葉に詰まり、続く言葉を里香は出せなくなる。――こんな瞳をするだなんて、もうシステムやAIの範疇を越えている。もはやただの人間ではないか、と。
「私と里香さんは――また、出会うことになるでしょう。このシードオンラインの中で、里香さんが繋がりを求める限り、きっと。割と悪趣味に感じる演出でしたが、先ほど申し上げた通り、里香さんに不都合はありません。どうかお許しください」
この白い世界に亀裂が入る。散っていく真白の破片の下には、濃い緑色――生い茂る木々の数々があった。ゆっくりと世界を移動しているのだ。初期設定の為だけの空間から、シードオンラインを始める初期地点へと。残された時間は少ない、そう直感的に理解した里香は、焦りから早くなる鼓動を感じつつ、ルーセントハートへと問いを投げかける。
「……わかりました。今はそう、不都合はないと覚えておきます。最後に一つだけ教えてください――私が最初にやることの、おすすめを!」
「それでしたら、まずは――レベリングになります。初期エリアですが、不足ない相手がいる箇所を選びました。他ユーザーがまだ未到達のエリアですので、里香さんも気にせず感覚を掴むために色々できますよ」
「えっ。……いや、私、そんな辺境じゃなくてもっと人と会話できるような、ベターなところでいいのですが――」
「時間の様ですね。また、会いましょう――里香さん」
ルーセントハートによって包まれた里香の右手。それに懐かしい何かを感じたと同時に甲高い音が響き、最後の白い欠片が溶けて消える。里香の右手は宙を切った。辺りを慌てて見渡せば、視界いっぱいに広がる木々。確かリインカーネーションの森と言ったか。なんて優しくないゲームと、ルーセントハートさんなんだ。そう独り言を零しつつ、このままここにいても仕方がないとばかりに、目印の一つさえもない木々の中を歩き進んでいくことにした。
そして不意に、インフォメーションと記載されたウィンドウが点滅していることに気付く。
「――新スキル?」
ウィンドウを確認した里香は、驚いたような声を上げた。
――黄金の心臓。自身のスタミナ消費をゼロにする。
――尽きぬ焔の約定。自らの身体を赤く燃える焔に転換することが可能になる。
スキル名の隣には、金色に輝く文字で "リミテッド" と記載されていた。あの時か――里香が振り返ったのは、この森の中へ飛ばされる前にルーセントハートが告げていたシステム的な音声の一部。ログを見返してみれば、確かにこのスキルの名前と同様のものが残されている。スキルにはフレーバーテキスト(雰囲気を作る為に記載されている文章のこと。カード・ゲームに多く見受けられる)も設定されており、里香は無意識の内にそれを読み上げた。
「黄金の心臓。それは決して止まらない――鼓動の音」
里香は、そのフレーズに、どうしてか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
Tips:レアリティ
シードオンラインにおけるレアリティは三つ。ノーマル、レア、リミテッド。左から順番に、N、R、Lといった略称で使われることが多い。
ノーマルは良く手に入る。レアは貴重、リミテッドは凄く貴重、これくらい感覚である。リミテッドはその文字の通り、限定のクエストや、限定の武器など、サーバーで限られた人数しか持てないようなものが該当する。
VRMMOなどが流行るよりも以前のゲームでは、もっと過剰にレアリティが定められていた。しかしこの時代において、現実世界のお金が関わってくるアイテムに関しては原則レアリティなどの表記を三つ以内に納めなくてはいけない、と景品表示法で定められている。
無論、シードオンラインもアイテム販売がある。そのため、消費アイテム、武器、防具、その他もろもろの全般に渡って、ユーザーの視認性、理解のしやすさを高めるためにレアリティ三つとなっているわけだ。
ちなみにこの時代でもリンカーを利用したソーシャルゲームは存在している。システム的に拡張が難しい、数十年続いているようなゲーム以外は殆どがこのレアリティの原則に乗っ取っているのだ。ただ、それでも抜け穴はあり、たまに掲示板を見てみれば炎上していたりもする。結局、いたちごっこでしかないのが残念なところであった。
制定されたきっかけは課金のし過ぎによる借金、そして自己破産が高まったこと。課金はほどほどに。