17話 / 振り出しの場所
一度、自らが所有する港区のマンションから外へ踏み出した里香であったが――照りつけてくる昼時の太陽に、思わず建物内部へと戻っていく。退院した後、ろくな運動もせずVRMMOに浸っていた里香の身体は、茹だるような暑さを忌避してやまない。明確に体力の衰えを感じ内心で焦りつつも、今度考えようそうしよう、と後回しにする。
「……あのー、すいません。ちょっと外に出たいんですけど、今ってタクシー呼べたりします?」
そうして里香が取ったのは、マンション・コンシェルジュに依頼することだった。要はお金で解決するのである。ぱりっとしたスーツに身を包んだコンシェルジュが、里香の願いを聞いて手早くタクシーを手配してくれた。お礼を述べて、里香はタクシー待ちをする。自分の情報、主にあのイベントの情けない姿が入り込んだ動画や、それにまつわる自分の評判を知りたくなくて、暫く見るのを避けていたシード・オンラインの情報をリンカー内臓のARブラウザで調べること十分ほど。手配されたタクシーがマンション前まで来たので、里香はブラウザを閉じてとことこと車内へと乗り込んだ。
「どちらまで向かわれますか?」
「えーと、文京区の国立名医大学附属病院、までお願いします」
運転手はそれを聞くと、そのまま運転席と助手席の間にある、大きめの電子パネルを操作する。目的地が入力されると、軽い電子音が車内へと響き渡った。――目的地へ向かいます。おおよそ三十分です。ゆっくりと動き出した車体は、里香の住むマンションの敷地を出ると、そのまま滑らかに国道まで進み、目的地に向けて道を選びつつ走り抜けていく。
電気の力で動く車体の中はとても静かだ。今やほとんどの車が自動運転となり、里香が後部座席から運転席を眺めていても、運転手が自らハンドルを取っているようなことはなかった。この時代のタクシー運転手は、もう車を運転するだなんて役割を持っていないのだ。基本的な走行先の入力、万が一の事故が起きた際の対応と、お客さんとの事務的なやり取り、ただそれだけの為に運転席に座っている。
久しぶりの車のエアコンの風は、何十ものフィルターを通して綺麗になっているはずだけど独特な匂いがした。気分が悪くなりそうだと感じた里香は、すいません窓開けさせてください、と予め了承した上で後部座席左側、自分に一番近い窓を少しだけ開ける。並ぶビルの間には様々なホログラフ・広告がこれでもかと並んでいた。
「……よりお手軽な美味しい食事をあなたに、お湯をかけるだけで名店の味を再現、マイクロフリーズが旨みを逃がしません。あれは美味しそうですね、ていうかお肉でもお湯をかけるだけで料理になるって」
手持無沙汰気味の里香はその広告に目を通していく。シード・オンライン上で一人呟く癖がついてしまったのか、ぽつぽつと口元を動かして、僅ばかりの声を零しながらだ。
「大切な人の命を救う為に。未来の再開を祈って……疑似凍結睡眠が手段を一つとして確立するために、あなたの投資が必要です。――詐欺くさいですね、最近グラスさんやあのシリカさんの言葉のせいで、どれもこれも胡散臭く感じますよ、ほんと」
不意に、よく見知った文字が視界を過った気がした。信号で車が止まったので、それを視界で追ってみれば、シード・オンラインの広告がホログラフで表示されていたのだ。新しい世界を君に――それを見た里香は、確かに、と思わず納得してしまう。鮮明なグラフイックに、自由度が高いゲーム内部の設計。ご飯は美味しいしで、シード・オンラインがもう一つの世界という文言に思わず納得してしまう。これだけ流行ってるゲームでも広告打つんですね、と里香が眺めていると――ホログラフの下部に、ARブラウザでより詳細を見てみよう、と記載されているのを見つけた。
「そういえばトレーラーは見ましたけど、広告の動画って見たことないな……」
車内なので念の為に音声出力を控えめにして、リンカーをホログラフ広告へと向けた。ちなみに、里香が利用しているリンカーは最新の中でもより最新の部類であり、公共の場などでは、指向性伝導出力(特定の方向へ向けて音を出力する技術のこと。里香には大きく聞こえても、それ以外の別方向の人に対しては殆ど音が聞こえない技術を指す)によって鼓膜を揺らすのではなく、神経伝導で音声を出力できる。つまるところ、里香以外には誰も聞こえないのだ。
「どれどれ――」
トレーラーでも見た映像が広告でも使いまわされていた。しかし、最後に――新たな魔王、降臨などと銘打って、例の里香の姿が映し出される。燃え盛る紅蓮の世界を背景にして、腕を組み頬の端を吊り上げるような笑みを見せつけ、白銀の髪を散らすアリカ・ルーセントハート。
『――余が紅蓮の魔王だ。膝を付き、頭を垂れろ、有象無象が』
うっ、と思わず心臓を抑えて俯く里香。あの運営、勝手に広告に使いましたね、と大声で喚き叫びたくもなるが――シード・オンラインのすべての著作権は運営にある。つまり、この動画を使用することに法律上の問題は何一つ発生していないのだった。
「(広告を見るのも、もう止めましょう……。まさかこんなところで精神ダメージ受けるだなんて聞いてないですよ……)」
大人しくARブラウザを閉じて待つこと二十分ほど。タクシーは病院の前へと辿り着き、里香はリンカーで料金の支払いを済ませ、車内から出た。直射日光を浴びて溶けそうな思いをしつつ、退院した日を思い出しながら正面入り口より院内へ足を踏み入れていく。
「すいません、特に予約は入れてなかったんですけど――ちょっと主治医の先生と相談したいことがありまして、来院させていただきました。急なんですが、大丈夫でしょうか?」
「えっと……あぁ、篠原里香さん、ですね。担当の栗山まで繋ぎますので、今しばらくお待ちください。……他の患者さんと同じく、順番が来たら番号でお呼びするので!」
「はい、急なのにすいません……」
受付の看護婦は手早くリンカーから本人情報を受け取ると、来院履歴と照会し、慣れた様子で受付を済ませていく。そして最後に払い出された待ち受け番号のシートを里香へと手渡した。そこに書かれているのは三番、院内の電光掲示板を見ても、呼び出しまではそうかからないだろう――。
その一方で、栗山医師は自らの部屋――この大病院に一つだけ存在する主任教授室で、スーツ姿の男と会話を進めていた。栗山は困ったような笑みを浮かべて、幅広なテーブルの向こうに着くスーツ姿の男は、何故、と不満を表情に表しながらだ。
「……老いた私に熱心に声を掛けてくれていること、そして真宮寺さんが私を認めてくれていること。この二つはとても有難いし、一人の医者として誇りを感じているよ。でもね、真宮寺さん――私は、医者になるべくしてなった理由があるんだ。そして、今、それは達成されている。これ以上の理由を、もう老いた私は見出せないんだ」
スーツの男の胸元には――真宮寺充と書かれた社員証がぶら下っていた。栗山の返事を聞いても、真宮寺は決して引き下がらず、強気の口調で言葉を返す。
「ドクター。その理由については深く問いませんが、それでも貴方は――最上とも言える名医だ。少なくとも、私の知る限りこの日本で貴方を越える医師は誰一人としていない。……貴方は、患えば必死とも言われた心臓病に対して幾つもの論文を書き上げ、そして、メスを持てば数多の患者を救い続けてきた。それこそ心臓でも癌でも肝臓でも、貴方に治せない病気はない――いくつもの海外の医者が、そう貴方を評してきた」
「それは必要なことだったからです。こう言ってしまえば非難されるかもしれませんが――私は、私の目的の為にこの立場に至る必要があった。だから、その為にやらなくてはいけないことをやった――つまるところ、副産物なのかもしれません。真宮寺さんが思っている程、私は聖人ではないのです」
「それでも、貴方が人を救ってきた事は事実だ。背景だなんて私にとっては、いや、実際に救われた患者にとってはどうでもいいことなんだ……! だからこそ、私は貴方を迎えたい。その知恵を技術を、人を生かすための未来に使って欲しいんですよ!」
「……思いは伝わるけど、私は――いや、僕はね。もう救われてしまって、燃え尽きてしまったんだ。真宮寺さんが言いたいことはとても分かる。例え何年を越しでも聞きたい声があるのは分かるし、どんな努力をも……いや、この人生を使い果たしてでも、そう願うことがあるのも分か――」
丁度、主任教授室に設けられた内線がじりりと電子音を響かせた。栗山は真宮寺に対して、すまない、大事な来客があると伝えていたんだけど――そう謝りつつ、リンカーが起動させたARパネルから内線を自らのリンカーへと転送する。ソファーから立ち上がり、白衣を翻して栗山はブラインド付きの窓元へと移動し、大きな教授の椅子へと腰を下ろして、ペンと手に取った。些細な事でもメモを取って忘れないようにする、栗山の若い頃からの癖だった。
「急用ならば緊急ラインで鳴らして欲しいんだけど――……なんだって、それに間違いないですか?」
栗山の顔が強張る。真宮寺はそれを横目で見つつ、驚きをどうにか胸へ仕舞い込んだ。真宮寺と対する時の栗山は常に余裕を持っていて、まさかそんな顔をするとは思ってもいなかったからだ。今日の会話はこれで御終いだろう――そう察した真宮寺は机の上に広げていた資料、凍結睡眠などと記載されているそれらを鞄の中へと仕舞い込んでいく。
「……私の方で一度、問診しましょうか。あぁ、でも、それはいらないのかな。余り邪魔をされたくないので、教授部屋に呼んでしまってください」
そうリンカー越しの看護婦に伝えると、栗山は内線を切断した。
「すまない、真宮寺さん。急用が入ってしまったので、本日のところはこれまでにしましょう」
「いや、私の方こそ時間を頂き申し訳ない。……ちなみに、その急用は――貴方の言っていた、医者になった理由に関係しますか?」
「さぁて。……繰り返しになってしまって申し訳ないんですが、何度訪れて頂いても、きっと私が首を縦に振ることはないでしょう。私が医師に理由もありますが、それ以上に――私は医師として失格なんだ。真宮寺さん、この世のどこにも聖人だなんていないんですよ……次、ここへいらっしゃる時には有望な医師を私から紹介しましょう、彼らであれば真宮寺さんの力になってくれる筈です」
「……私は、貴方じゃないと駄目だと確信しているんですよ、栗山さん。時間もないのに押し問答になってしまいそうですね、またおいおい会話をさせてください。どうにか、貴方を納得させる材料を揃えてきます」
――首を縦に振らない。そう言い切った栗山が、それでも真宮寺と対面して話しているのは、何故か。きっと彼には大っぴらに出来ない事情があるに違いない、それを解消さえすれば、俺のプランに乗ってくれるはずだ。そう真宮寺は考えを巡らせながら頭を下げて一礼し、主任教授の扉を引いて開け放とうとした、その時だ。
「――う、わ」
驚いたような声が廊下から聞こえてきた。真宮寺はそれに、どこかで聞いたことがあるかのような錯覚を覚えつつも、看護婦を驚かせてしまったか――そう思い、開け放たれた扉の先にいる人物を見て、ひゅっと喉を鳴らす。服装や髪形こそ違えど――ハーフアップにされたのは艶やかな銀色の髪、そこそこ整っている目鼻の造り、そして僅かに白いその肌色。
「お前、紅蓮の――」
そこまで口にしてしまったところで、自らの空いている手で口元を覆い、真宮寺はどうにか言葉にすることを防ぐことが出来た。そして頭を振ると、こんな場所にあの紅蓮の魔王がいる訳あるまいし、リアル・アバターなんぞ使っている訳もあるまい――そう頭の中で全否定をして、謝罪の言葉を口にした。
「すまない、余りに知り合いと似ていたもので、勘違いをしてしまった。……では、栗山先生。これで私は失礼します」
そうして真宮寺充――こと、極光の魔王であるレイ・アークロイヤルはその場を去っていく。対して里香は心臓をばくばくと鳴らしながら、こんな身バレぎりぎりの事が起きるだなんて外にもおちおち出れないじゃないですか、と内心で悲鳴を上げていた。心臓に手を当てて、どうにか鼓動を落ち着かせた里香は、失礼します、とだけ口にして主任教授室の内部へと足を踏み入れていく。
「お久しぶりですね、栗山先生。事故の際はお世話になりました、お陰様で毎日を健康に……最近は不摂生気味ですが……はい、生活できてます」
「お久しぶりです、里香さん。不摂生はともかく、特に後遺症なども起きてなさそうでなによりです――」
栗山は座ってください、そう手で革張りのソファーを指し示す。窓際からそのまま移動すると、そのまま自らの手で机の上に出されていた、空のティーカップを手早く片付けた。リンカーによる連絡で、客――里香に出すための新しい飲み物を要求すると、里香がソファーへ座り込むのを待ってから、対面のソファーへ自らも腰を落とす。
「……それにしても急でしたね。いや、私は全然構わないのですが。今日は何かあってきたのですか? 特に体調周りであれば精密検査を行うのですが」
「いや……体調自体は問題ないです。半年近くも寝たきりだったのに、こんな普通に過ごせるものなんだ、って自分でも驚いてます」
「昔であれば、衰えた筋肉のリハビリなどで入院期間も長引いて、日常生活に完全に戻るまで時間がかかったんですけどね。今は電気信号で意図した通りの筋肉運動を起こせるので、例え十年以上寝たきりでも、ごくごく僅かなリハビリで済みますから……」
確かに、自分が目覚めた後もリハビリに費やした期間は僅かだ――里香はそう納得して、なるほど、といった体でうんうん、そう首を縦に振る。里香の場合であるが、確かにリハビリよりも検査に費やした時間の方が多くの割合を占めていた。
「ちなみに、先の人は……なんだか、私が邪魔しちゃったみたいなんですが、帰してしまって良かったんですか?」
「あぁ……。先の人は取引先の方でしてね、彼のプロジェクトに勧誘されていたのですよ。もう公開されているので喋ってしまいますが、最近よく話に上がっている凍結睡眠についてです。現代の医学で治せない難病の患者を、未来に送る技術とも言えばいいでしょうか」
「あぁ、それなら病院に来る前に広告で見ましたね。……あまり詳しくない私からすれば、眉唾と言うか、失礼な言葉かもしれないですが……胡散臭いというか」
「はは、初めは皆そう言っていったものです。……昔、私がそれに関しての論文を書いたことがありましてね、それが先程の彼の心に火を付けてしまったようです。残念ながらもう老いぼれの医者なので、あと少し若ければ参加したんですけど……」
栗山は困ったように白髪交じりの髪を掻いた。先程まで真宮寺と話していた事実とは勿論違う――だが、それに里香が気付くすべはない。年代を理由に上げられてしまうと、まだ二十歳にもなっていない里香はなんとコメントしていいか分からず、黙り込むしかなくなってしまう。それを見かけた栗山は、あぁ、気にしないでください――そう言った。
「(でも、先程の男の人、どこかで見たことあるような顔立ちだったんですよね。どこでしたっけ――)」
そこまで出てきているのに、最後までが出てこない。もやもやとした感情を抱き始めた里香が唇に指先を当てた時、部屋の扉が開いて看護婦が新しい飲み物を持ってきた。ほのかに香るのは紅茶の匂いだ。看護婦は栗山と里香のティーカップをそれぞれ机の上に並べると、頭を一度だけ下げて直ぐに部屋を出ていった。
「……体調ではない、となると――恐らくですが、御両親の事故の件ですよね」
里香が頷いたのを見ると、栗山は立ち上がり、壁に沿った本棚の中、綺麗にファイリングされた書類の群から一つのクリアファイルを取り出した。上部に掛かっていた埃をぱっぱっと手で払うと、それを机の上に置いて再度ソファーへと座り込む。
「これが、里香さんの御両親と、里香さんを診た時のカルテです。……専門用語も多いので軽く説明しますが、もし里香さんが深く知りたいところや、もし気分が悪くなったりしたら教えてください」
去年の七月三十一日、都内の高速道路で玉突き事故が発生。
篠原香――里香の父親は自らが運転していた電気自動車の自動操縦時に、右後ろから衝突した車両により押し潰されて即死。そして篠原茉理――里香の母親も同じく、運転席の背後に座っていたため、篠原香と同じ原因で死亡した。
唯一生き延びた篠原里香、彼女は助手席に座っていたため押し潰されるような事はなかったが、衝撃によりサイドガラスに強く頭を打ち付け重傷を負った。強い頭部への衝撃と同時に、打ち付けた個所からの流血も起こしており――失血死ぎりぎりのラインで救出され、半年間の昏睡の後に目覚めた。
尚、銀に近い白色への頭髪に関しては原因不明。物理的な強い衝撃を受けた為か、それとも気を飛ばす寸前に、精神的にダメージを負うような光景――例えば両親が圧死するところを見てしまったか、それらが原因として考えられている。事故当初は黒色であったが、三か月後には全てが白へと変わってしまっていた。毛根の色素細胞の存在を確認したところ、それらの全てが失われていた――。
「……ぅ、え」
そこ張り付けられた写真には、玉突き事故が起きた現場が、何も隠されていないありのままの姿で残されていた。零れた赤い血に、燃え盛る車の列。当該車両、そう赤いペンで書かれた付箋の先には右半分が潰れた自動車がある。余りにも酷い状態の車両は、里香自身に生きていたことが幸運だと思い知らせるには、余りにも十分過ぎたのだ。
込み上げてきた強い吐き気。それをぐっと堪えた里香は、そっと渡されたカルテを閉じる。
「――まるでドラマの中みたいな、そう、作り物みたいですね。よくこんなことが起きて、自分だけが生き残ったと、そう思ってます」
「……ええ。まさに、里香さんは幸運でした。医療の発展が無ければ、間違いなく命を落としていたでしょう――人造血液、人工心臓、数十年前とは比べ物にならない程の医療器具と身体に大きな負荷をかけない麻酔。そして、それを扱える人材がいて、ようやくでした。本来であればこんなことを患者だった方には言わないのですが、里香さんは詳細まで知りたがっていそうなので、ここまで話しています」
栗山はリンカーのブラウザを起動して公開する。そして、先日に里香へ送信したばかりのサイトを開いて、里香へと見せた。
「もしかしたらマスコミが嗅ぎつけてくるかもしれません。が、全て無視してください――私の名前を出していただければ、私が対応します」
栗山が懐から取り出したのは紙の名刺だ。既に殆どの企業で紙製の名刺はとうに使われていないが、ごくごく一部の職種――医療系や公務系、議員などはまだ紙の名刺を持ち歩いている。リンカー同士のやりとりで済ませるのが一般的なのだが、彼らには守秘義務が発生する為である。リンカー同士でのやりとりでシステム・クラッキング(不正なプログラムを送信し、情報を破壊したり、盗み取ること。広義的にIT技術を用いた犯罪のこと全般を指す)が発生したこともあり、互いに紙での名刺交換を行いその可能性を捨てているのだ。
「紙で申し訳ないんですが、ね」
「いや、大丈夫です。寧ろ、面倒事を引き受けて頂けるようで私の方が申し訳ないです――」
まだ就職もしていない里香の年代で、名刺なんて持ち歩いていることもなく。名刺を受け取った里香は、それを自らのテーブル前にそっと置いた。過去に一世を風靡したビジネス・マナーだなんてものは殆どが忘れ去られた現代だ。受け取った名刺は自らの名刺入れの上に置く、だなんてどこの企業でも研修内容に含めていない。分かりやすい場所に置けば、それでいいのだ。
「……もし里香さんがご両親の死亡証明書を利用するようでしたら、市役所に向かうといいですよ。今はリンカーを使って申請するだけで、紙で払い出されますから。数十分程度で済むかと」
「ああ、いえ、そう言うわけではなく――」
そもそも、今日病院を訪れた原因はシリカ・ルーセントハートの言葉が原因だ。VRMMOのNPCに言われたことが原因でここまで来ました、だなんて言えるわけもない。しどろもどろになってしまった里香を見て、栗山は軽く笑みを浮かべて見せた。
「それでも、里香さんが前を向けているようで良かったです。……この後はどうしましょうか、一応、検査でもしていきましょうか?」
「……そうですね、はい、お願いします」
そうして里香は知りたいことを全て聞いて、検査をして病院を後にした。結果まで数日待ち、だなんてことはなく、この現代では検査結果はすぐに払い出される。血液検査や脳スキャンの結果は正常、ただし――体重は微増。検査用紙を渡した看護婦は、入院していた頃からの里香を知っているようで、痩せているより少しくらい肉を付けていた方が健康よ、だなんて言って笑っていたが。
入ってきた時と同じく、看護婦に見送られつつ正面から里香は病院を後にした。一歩外に踏み出すとともに、栗山が居た主任教授から検査の為に移動していた時に見た、長期入院をしている人たちの部屋を里香は思い出す。もしかしたら、自分は今もそこにいたかもしれないのだ。
もう少し打ちどころが悪かったり、或いは救出されるのが遅かったりしたら――。改めて里香は、今の自分が幸運の上に成り立っていることを実感する。そう考えながら歩いていたせいだろうか、里香には歩き進んだ部屋の前に並んでいた名札が記憶に焼き付いていた。田宮、五十嵐、鈴木、天宮――。その最後に、篠原という里香の苗字が並んでいる可能性があった、そう考えるだけでも思わずぞっとしてしまう。
それでも、栗山の言葉、そして渡されたカルテ。それらから正しい情報を知ることが出来たのは収穫だ、そう満足して里香は再度タクシーを呼んで、病院を後にする。その充足感の裏に、何か引っかかるようなズレみたいなものを感じたが、何度考え直しても振り返っても明確な何かが思い浮かぶこともなく――里香はそれを、気のせいか、とそう片付けた。
誰もいなくなった部屋に一人。栗山はブラインドを指先で開きつつ、タクシーに乗り込んだ里香の姿を見送っていた。そして誰にも届かず拾われることない呟きを落とす。
「香さん、茉理さん、里香さんはお元気の様ですよ。今や、万を超える人が彼女を知った……きっと、お二人の望み通り、これから彼女はいろんなことを楽しんで、そして時に悩んで、苦しんで――生きて、大人になっていくと思います」
それは里香の両親に対する報告なのか。或いは、ただの感傷が産み落とした言葉なのか。この世界にそれを知る人間はたった一人、栗山しかいない。
「次、里香さんが私のところを訪れる時は、きっと全部を吐き出さなくてはいけない時でしょう。それも、今日の話を聞く限り、きっと遠くはないかと。それでも、お二人の愛が、里香さんに語られると良いな、そう思っています」
全ては二人の愛を語るべく。栗山は視界から消えたタクシーの行く先を見守りつつ、指先で開いていたブラインドを閉じて頬を一回叩く。そしていつも通りの微笑みを張り付けて、この部屋を出ていった。自分の仕事に戻らなければならない、この扉を潜り抜ければ医師栗山で在るべくなのだ。




