単三電池の弱点と倒し方
【pixiv】にも同じ作品を載せていますが、こちらは細かい部分を手直ししました。
教室の隅に、空の段ボール箱がある。
ウサギはしばらく前からから目を付けていた。あれを使えば頑丈なウサギ穴ができるだろう。
それなのに、マユキに取られてしまった。誰もいない時を見計らって運び出そうとすると、マユキが中に入っていたのだ。
出ろよ、とウサギは言った。
「お前は本棚にでも入ってな」
「嫌です。今は段ボールに入りたい気分なんです」
箱を傾けても、腕を引っ張っても、マユキはびくともしない。人形のように小さくて痩せているのに、どこにこんな力があるのだろう。
「出ろってば」
「嫌です」
結局、翌日の理科のテストで勝負することになった。ウサギはサイエンスクラブに入っているので、電池とモーターのつなぎ方、天気観測といった分野は得意中の得意だ。
しかし結果は惨敗だった。マユキはのたうつような字で回答用紙を埋めていたが、答えは全部合っていた。ろくにノートもとっていないのに、一日ごとの気温の移り変わりまで覚えていて、腹立たしいほど完璧だった。
「なあ、箱くれよ。お前は満点とったんだから満足だろ」
「いいえ」
箱の中にゆうゆうと収まったまま、マユキは言う。ウサギはあきらめて他の材料を探すことにした。
ウサギ穴は簡単に作れるものではない。廊下や壁、給食の鍋などに穴をあけて新しい空間を作るのだから、格別に良い素材を選ばなければならない。
誰かが落とした髪飾り。教材を運ぶ台車。学年だよりの束。教育計画のファイル。気づかれないように盗み、焼いてこねて穴の形に整える。ここにあるけれどどこにもない、別世界へつながる穴だ。ウサギだけが、それを作ることができる。
三年生の時は最悪だった。穴を作るそばからアザラシが壊してしまい、ほとんど使い物にならなかった。俺たち親友だろ、と笑うアザラシは、ヒレの一撃でたいていのものは壊せる。ウサギは今も自分が生きているのが奇跡だと思った。
ようやくアザラシと離れられたと思ったら、今度はマユキと同じクラスになってしまった。四年生の男子の中で、いや全校児童の中でも一番鼻持ちならない奴だ。まったく反りが合わないのに、欲しいものだけはいつもウサギとぶつかる。
「ウサギ、テストどこ間違えたんですか」
「単三電池の弱点と倒し方」
「ふーん。バカですねえ」
マユキが甲高い声で話すのを聞いていると、急にひらめいた。
「そうだ。電池でウサギ穴を作ろう」
ウサギはもったいぶって教室中を見回した。
「実験用のを全員分集めれば……でもどうやって盗むか」
「使用済みのをもらえばいいんじゃないですか」
マユキが段ボール箱から上半身を起こして言った。ウサギはわざと目を合わせないようにして、首を横に振った。
「ウサギ穴は、なくなったら困るもので作るんだ。使用済みなんて絶対にだめだ」
周りに誰もいないのを確かめ、声を落として言った。
「何とかして盗み出すしかない」
「そんなの、ちょちょいのちょいです」
マユキは箱から飛び出し、部屋中の引き出しとロッカーに入り込んではするりと抜け、実験セットから単三電池だけを綺麗に抜き取ってきた。
「こんな簡単なことができないなんて、やっぱりウサギはバカです」
ウサギは見ていなかった。とっくに段ボール箱を持ち出し、廊下を駆け抜けて階段を下りているところだった。
「ほんと、ちょちょいのちょいだよな」
一階の廊下に下り、非常口のそばに箱を置いた。玄関ほど騒がしくはないが、休み時間や体育の前にはそれなりに人が通る。いろいろな学年の子供が落ちてくれるだろう。
ウサギは切れ長の目をちらっと光らせた。ほの赤い光が段ボールの表面に映り、やがて小さな炎になる。じわじわと箱を歪ませ、埃や砂粒を照らして引き寄せ、スープのように混ぜて溶かしていく。
「そろそろだな」
手を触れる。熱くはない。段ボールは焦げ茶色に変わり、柔らかい粘土のような感触になっている。ゆっくりこねてみると、しなやかに曲がった。指に吸い付いてくる。ちょうどいい案配だ。
ウサギは段ボールを丸め、平たく伸ばしていく。廊下に貼りつくように、できるだけ目立たないように、それでいて人を引き付けるように、透明に。
漆器や吹きガラスを作る人の気持ちがわかるような気がした。一つとして同じものはない。作っても作っても、まだ作っていないものを作りたくなる。学校中をウサギ穴で埋め尽くしても、きっとまだ足りない。誰を罠にはめても、何をどれだけ盗んでも、きっと満足できない。
手のひらを滑らせる。穴がゆっくりと口を開け、廊下に溶け込み始める。
できた、と思った。
夢中になりすぎたのがいけなかった。
「何をしてるんだね?」
ウサギは身を起こした。振り返ると、校長先生が立っていた。ぽってりとした体を曲げ、黒ぶち眼鏡ごしにウサギの手元を覗き込んでいる。
迂闊だった。この廊下は校長室に繋がっていたのだ。マユキやアザラシと違い、そうそう呼び出されることもないので忘れていた。
「何でもないです!」
ウサギは出来立ての穴をはがし、走っていった。穴だったものは、ウサギの手の中で灰色にひび割れ、指の隙間からこぼれ落ちた。もう、ただのゴミだ。
失敗だ。失敗だ。失敗だ。
ウサギは急速に心が冷えていくのを感じながら教室へ戻った。マユキはまだいるだろうか。段ボール箱を取られて、さぞ悔しがっているに違いない。その顔を見るのだけが楽しみだった。
「おーい。マユキ、いるんだろ」
扉を開けると、黒いものがそびえていた。宇宙船か戦車のようにてらてらとして、圧倒されるほど大きい。
よく見ると、単三電池を積み上げて作った塔だ。指先でつつくと雷のような衝撃が走り、ウサギは飛びのいた。
「いますよ」
ウサギは天井を見上げた。塔の上にマユキが座っている。
「全員分集めましたよ。倒してみなさい」
「倒す?」
「単三電池の倒し方、今ならわかるんじゃないですか」
マユキはかすかに得意げな目をして言った。ウサギは立ち上がり、痺れた指をさすった。
「本当にいいんだな?」
ウサギは腕を振り上げ、電池の壁を殴った。当然崩れるだろうと思ったが、曲がりさえしなかった。頭から爪先まで刺すような痺れに襲われ、耐えきれず床に倒れた。
「バカですねえ」
「うるさい。叩き落としてお前ごとウサギ穴にしてやるよ」
体当たりをし、頭突きを食らわせ、ヒップドロップをし、そのたびに痺れて転げ回る。
手あたり次第に椅子や机を投げつける。算数のプリントやコンパス、鋏がばらばらと落ちてくる。誰かが残した食パンの切れ端が頭に当たる。色鉛筆が散らばり、墨汁が床に染みこむ。
中身の切れたホチキスが転がり、足にぶつかる。
切れたホチキス。
切れたら何もできない。
ウサギは手を止めた。
「そうだ、その手があった」
ウサギが言うと、マユキは塔の上から少し身を乗り出した。
「単三電池の倒し方は電池切れを待つこと。どうだ? 俺に頭を下げるか、ヘロヘロになって落ちてくるか、自分で選べ」
マユキは黙って目を伏せている。バカですね、とはもう言わなかった。
ウサギは倒れた机の脚に座り、マユキの表情が変わるのを待った。
じわじわと心に熱がこもってくる。ウサギ穴の材料は目の前にあるのだ。いくら待っても構わない。
「わかりました。僕の負けです」
マユキはひらりと飛び降りてきた。電池の塔は一瞬にして崩れ、教室の端から端まで散らばった。立ち上がろうとしたウサギの横を、マユキはすり抜けて走っていく。
「片付け頼みます。僕は怒られたくないですから」
軽やかに遠ざかり、やがて豆粒のようになる後姿を、ウサギはぽかんと見つめることしかできなかった。