誕生
―狂気が感染している。それは僕にしか見えていない。
最初は親だった。
黒い靄のようなものが親にまとわりついているのを僕は見た。
すると親は豹変し、僕らを虐めるようになった。
次に親の口から吐き出されたそれが弟に移っていくのを見た。
狂気を弟に移した親はもぬけの殻のようになった。
それから弟は……
弟から狂気が抜け出したその時、それが僕の元へと飛んで来るのを見た。
逃げられない。
次は僕の番だ。―
悪い夢でも見ている様だ。
辺り一面に広がる赤。
僕は吐き気を覚え、口元を押さえた。
くるりと振り返って彼は嗤った。
「ありがとう。おやすみ、兄さん。」
黒かった彼の瞳が赤く歪む。
カシャンと音を立てて足元に落ちてきた鋏を見た途端、思い出したかのように恐怖がやってくる。
彼はまるでぐちゃぐちゃにされた人形の様に、力なく崩れた。
現実感に欠けるこの空間で、妙にリアルな強烈な臭いが鼻をつんざく。
「どうして……?」
僕は呟いた。
理由が分からない訳ではない。理解したくなかった。
黒い靄のようなものが辺りに広がる。
(嫌だ……。)
逃げられない。嫌だ。怖い。
「助けて……。」
―
悪い夢を見た。
全てが崩れていく夢。
(……。)
脳裏に浮かび上がる無惨な弟の姿。
傍らに彼が居ないのを見て、あれが夢ではないことを知る。
(何も出来なかった。)
事が起きるのを防げなかった。
あの時見たあの景色がフラッシュバックする。
僕は吐き気を覚えた。
静かに訪れてきた朝は昨日のあまりに酷い光景がまるで嘘であったようにすら感じさせる。
いや、実際何事もなかったようになっているのだ。
―弟は?
周りは皆、まるで弟が最初からいなかったかのように振る舞う。
もしあの事が嘘だと言うなら弟はどうなるのだろうか。
嘘の様に消えて居なくなった弟。
僕はこのまま大事な弟が居なくなってしまう事が怖かった。
だから僕は弟の名を名乗るようになった。
本当の名前など忘れてしまった。