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真珠の実  作者: 秋花
見えぬ世界
8/14

見えぬ世界 後編

「きーつーねーさーんっ! できたよー!」

『でーきーたーかーいーっ?』

 この場で言えることは一つだけだろう。

 お前誰だ、だ。

 あの人を見下すような姿勢を崩さなかった狐が、自分の孫を甘やかす老人と同じ蕩けた笑みを浮かべているのだ。この場に蟲毒がいれば無言を突き通し、真珠がいれば驚きに言葉を失っただろう。

 盲目の少女の手にあるのは鼠の天麩羅が乗っている器だった。

 そう、狐の大好物である。以前の約束を果たすため、遠路はるばる狐は少女を訪ねにきたのだ。執着深いともいえよう。

 突然訪ねてきた狐に、少女は喜んで約束を果たしたというわけだ。

 狐は、目の前に差し出された好物に涎を隠しきれずにいた。一刻も早く口に入れて、飲み込みたいと子どものように輝く瞳が大声で語っている。

「はい、どーぞっ」

 それは一瞬だった。鼠の天麩羅、瞬殺である。

 風のような速さで食らいつき、水滴が落ちるよりも早く飲み込んだ。

『――っかぁー! やっぱり人間なんかよりコレだねコレ! 人間を食いたがるやつらの気がしれないよっ!』

 まだあるかい? との質問に、少女はあるよーとそれを出した。

『っまあ、はぐ、そのお、はぐ、お狐様、はぐ、たくさ、はぐ、食え、はぐ、からいい、はぐ』

 訳:しかし、そのおかげで我々狐たちはこうしてたくさん食べられます。感謝の念が尽きません。

 (少女の中ではこう解釈されています)

「うん、お口の中空っぽにしてしゃべろーねー」

 それを聞いた途端、狐は食事のスピードを緩めることなく淡々と一心不乱に鼠の天麩羅を食らい続ける。どうやら、口に入れるものがなくなることで、口の中が空になることを選んだようだ。



『――天国にいたよ……』

 全て食べ終わってからも、狐は先ほど味わった一生に一度あるかないかのご馳走に恍惚としていた。

 思い出すだけで、唾液が(ほとばし)る。

「大げさだなぁ」

『大げさなんてもんじゃないさっ! まだまだ言い足りないぐらいだね! あの香ばしい焦げめ、そして素材! かんっぺきだった……』

 結局、鼠を揚げただけではないかとツッコむ者は、幸か不幸かそこにはいなかった。

「狐さん狐さん、涎ー」

『おっと、いつの間に。――それでさ、嬢ちゃん。こんだけいいモン食わしてもらったんだ。何かお願いしてごらん。お狐様がなんでも叶えてあげるよ』

 ご満喫の狐の言葉に、少女は首を傾げた。

「お礼? いらないよー? だってお友だちだもん」

『あらら、そんじゃああたしの気がすまないよ。ほんっとーになんでもいいから言ってごらん。叶えてあげるから』

 狐の押し付けとも言える言葉に、少女は仕方なさそうに考えた。

 だが、やはり何も思い浮かばない。

 うーん、と白い腕を組んで頭を悩ます。やはり何も思い浮かばない。

「やっぱりなんにもいらない」

『しゃあないねえ……。じゃあ思い浮かんだら言ってごらんよ。いつでも受け付けるからね』

 いらないって言ってるのに……と、少女は頬を膨らませる。

 少女の可愛らしい動作に、狐は底意地が悪そうに笑った。

『きひひひっ、願いがないやつなんていないさ。嬢ちゃんはまだ己の願いを見つけてないだけ、いつか見つけるだろうよ。――まあ、それまで嬢ちゃんがここにいるかどうかは知らんがね』

「――? わたしはずっといるよ?」

『ああ、そうだろうね。きひひひっ』

 少女はまたも頬を膨らました。

 いつもの狐さんの笑ってる顔は好きだけど、この狐さんはなんかやだ。





 ―― ごめんね。こんな、母さんで ――






「――あれ?」

 どこかおかしい気がした。

 何かを失いそうで、それと引き換えに何かを取り戻したような……。

 少女の世界で、大事な何かが欠けてしまった。

『おや、嬢ちゃん。その目、どうしたんだい?』

「え、目? わたし目なんて――」

 ――ないよ。と言おうとした。

 しかし、他のことに気づいた少女はその言葉を途中で止めてしまう。

「狐さん、だよね?」

『お狐様はお狐様だよ。それ以外の何が見えるって言うんだい』

 狐の言うとおりだ。

 少女の目の前にいるのは九つの尾を持った大きな狐以外の何者でもない。


 ――ならば、なぜ、こんなにも形がぼやけているんだろうか。


 狐の表情がわからない。尾がいくつあるかさえも、少女にはわからなくなっていた。

「狐さん、わたし、おかしい。おかしいの。狐さんが、よく見えないの」

 それどころか、この世界が歪んでさえ見える。

 一体どうしたというのだろう。

『……そう、そうかい。そういうことか』

「狐さんわかるの? わたしどうしちゃったの?」

 こんなこと初めてだった。自分が消えてしまう恐怖で身がすくむ。

 だからだろう。目の前にある禁断の実にも手を出してしまうのだ。

『嬢ちゃん、あたしが言えるのは一つだけさ。――いますぐ母親のとこへ行きな』

「はは、さま?」

 なぜ、ここで母の話が出てくるのだろう?

 わけがわからない。突然何かをしろと言われても、少女の頭の中は混乱で溢れていた。

『早く行かないか。さもなきゃ、あんたの母親消えちまうよ』


 ――消える?


 ごちゃ混ぜになっている頭の中に突然放り込まれたのは、少女が今まで懸念していたことだった。

 ははさまが、消える?

 悪寒がした。理解したとたん、一人になる恐怖が体中を蝕んでいく。

 あの温かくも冷たい手が頭を撫でることがなくなる? この真っ暗な世界で、母という拠り所がなくなって一人に――?


 ――いやだ。


 狐に背を向けて走り出す。

 目が熱い。今までなにも感じなかった目が焼けるほど熱かった。

 突然のことが続いて、頭は真っ白なまま母の元へ向かう。ただ、(いや)だ、という感情が足を動かしていた。

「ははさ――!」

 白い、あの真珠のような白さを纏った少女が、そこにいた。

 息が思わず止まる。それは見惚れたから。この暗闇の中、純白の美しい少女は、この歪んだ世界でも完璧な美しさを保っている。

 まさに、神に愛されたがゆえの美貌だろう。

 誰よりも純粋である少女ですら、白い少女の清さに圧倒されていた。

 白い少女は無表情に、足元に転がっている今にも消えそうな白い(もや)を見つめている。

 それを認知すると、少女途端に呼吸を取り戻した。

 違う、あれはただの白い靄ではない。

「ははさまッ!」

 思えば、母に駆け寄る少女にとって、初めての悲鳴だったのかもしれない。

 母を起こそうと少女が手を伸ばすが、それは白い手によって阻まれた。

『触るのはやめなさい。もう、彼女は触れれば消えてしまうほどに、儚い存在なのよ』

「はは……さ、ま」

 母の顔すらよく見えない。

 なんで、なんでこんなときに限って。

 母に触れることすら許されず、母の最期の顔すら見られないというのか。


 ―― あ……、よかった……。ちゃんと、目を、戻せたのね ――


「ははさまっ……!」

 大丈夫。まだ、消えてない。

 触れることはできないけど、話すことはできる。

『当たり前でしょう。わたしは、あなたたちと違って嘘は言わないわ』


 ―― ええ……ありがとう。これで、もう悔いはないわ ――


 少女からは母の表情は見えないが、きっと満足そうな笑みを浮かべていることは理解できた。

 だが、悔いがないと言ったのは理解したくない。

 少女はまだまだ足りないと言ってもいいほどに、母の存在を必要としているのだ。

『自分勝手ね。だから人間は嫌いなのよ。あなたも、この子も……! 勝手に温情をかけて、誰が泣くかなんて知らないで……』


 ―― ふふ、優しいのね…… ――


『――っ! 見当違いも――っ、もういい……! 勝手に家族談話でもしてなさいよっ』

 そして勝手に死ねばいい、と白い少女は捨て台詞を吐いて、どこへともなく行ってしまった。

 残ったのは、泣きそうに母に触れるのを耐える少女と、そこにいるのかも感知するのが危うい白い母のみだ。


 ―― お前に、母さんはどこまで見える? ――


「真っ白な、もやだってことしかわかんない……」

 靄は人の形すらしていなかった。

 少女の強い直感がなければ、母であることすら理解できなかったかもしれない。


 ―― いい? 母さんの言葉をよくお聞き。今、お前には今までなかった目がある。だから、ここから出なきゃいけない。ほら、周りを見渡してごらん。遠かろうが、近かろうがそれでも眩しい光があるでしょう? 大丈夫、今のお前ならきっと見える。それを追うんだ ――


「――……なんで……」

 そんな必要ないと、少女は首を横に振った。

 ここにいたい、どこにも行きたくなんかないのだと。

 またも、靄は微弱ながらも小さく動いた。


 ―― さっき、綺麗な白い子がいたね? そう、お前の友だちだ。わたしの姿に哀れんでくれて、願いを叶えてくれた。おかげで、お前にようやく目をあげられたんだ ――


「知らない、あんな綺麗な子……。なんで、わたしの目を願ったの? ははさまが、消えないように願ってくれなかったの?」

 どうせなら、少女と共にいてくれることを願ってほしかった。

 少女にとって、母は世界だったから。


 ―― 母さんはね、お前に人間であってほしいんだ ――


「にんげん……?」

 それを聞いた少女の中で、生まれたものは空白の感情だった。

 言葉も、行動も、何もかもが怠惰になってしまって呆然と白い靄を見つめている。


 ―― ああ、愛しい子。お前は愛されてる。この暗闇で、永遠に輝き続けている純粋な存在だ。母さんは、そんなお前を失いたくないんだよ ――


「……消えない……消えないよ? わたし、ずっとここにいるもん。どこにも行かない」

 狐も先ほど言っていた。なんで、みんなそんなことを言うのだろう。少女はここが大好きだというのに。


 ―― いいや、行かなきゃいけない。……違う、帰るんだ。元いる場所に。お前がいなきゃいけない場所へ ――


「いやだよ! わたしが帰る場所はここ! いたいのもここ! 他に行くとこなんてない!」

 楽しいここにいたい。

 ははさまのいるここにいたい。

 お友だちがたくさんいるここにいたい。

 ここじゃないとこなんて嫌だった。だから叫んだ。理解して。ここに居させて。切望の願いを籠めて、悲痛な声で母に伝えた。


 ―― ごめんね……。でも、母さん、もうここにいられないから。母さんの最初で最後のお願い、聞いてくれる? ――


「やだやだやだッ! ははさま一緒じゃないとやだぁ! そんなの、絶対にきかないもん!」

 それは、少女が母に対して初めて行ったわがままだった。

 全てを拒否するように両耳を塞ぐ少女の頭に、そっと冷たい手が添えられた。いつものように撫でようと、その手は右往左往しようとするが、途端にその手は消えてしまう。

「――っ……やだっ……」

 すぐさま顔を上げると、白い靄は小さくなっていた。

 触れたら消える。あの白い少女が言っていたとおりだ。

 なんで、と頭の中で少女は叫んだ。本当は声を挙げて叫びたかった。

 それよりも母が消えることが怖くて、思わず散り散りになっていく白い粉をかき集めようと手を伸ばした。

 ――しかし、手を伸ばした少女が飛び込んだのは白い靄の中だった。

 冷たくも温かな母の温もりが、少女を包み込む。

 ごめんねと再度囁く母の声が遠くから聞こえたと思った刹那、少女は靄をすり抜け、何も掴めなかった手は暗闇の上を叩いただけだった。


「ぅっ、うぁっ、わぁぁぁっあああああああぁぁぁ……」

 誰も居ないそこで、空しく泣き声が響いた。

 胸が張り裂けそうなほどに、苦しくて辛い。目頭が熱いのに、それはどうしても零れることはなかった。泣きたいのに、なぜか泣けない。

 今まで喜びで満ちていたがらんどうな心には、少女の断腸の思いが溢れ出さんばかりに溜まっている。しかしどうすることもできない。悲しみは、今にも少女の小さな心を壊そうと膨らんでいて、出そうにも蓋は硬く閉じてしまっていた。

 呼吸がしづらい。息がしようにも、苦しみで胸が痛かった。

 少女にできるのは、この苦しみを少しでも和らげるために声を張り上げることだけだ。





「――ぁ、そうだ……光」

 未だに胸は苦しみを訴えていたが、今はそれよりもしなければならないことがある。

 怠慢に周りを見渡すと、確かに微弱ながらも小さな光が見えた。以前なら見えなかったものだ。

 立ち上がって、光のほうへと向かう。

 不思議と、目隠しは外す気にはなれなかった。今の今までずっと着けていたものであったし、もはや体の一部と言っても過言ではない。それよりも、これを外し、目蓋を開けてしまったら本当に母がいなくなってしまったことが事実だと自分で確信づけてしまうのではないかと恐れていたからかもしれない。

 本音を言えば、もう何もしたくなどなかった。

 しかし、ここで負けてはならない。前へ進まなければならないのだ。今は、止まるべきではない。

 だが、先は長い。どれだけ歩いても光へ近づく気配はまったくなかった。

 この際、もう諦めてもいいだろうかと少女は沈んだ心を濁らせる。

 きっと、母ならばできなかったのだから仕方ないと怒らないでくれるはずだ。

 光へと歩んでいた足を止め、少女は小さな体を細い腕で抱きしめた。

「……寂しいよ、ははさま」

 お願いだから、帰ってきてください。


 ――タヨ。


 カサカサと、無数の草が風に遊ばれてぶつかり合う音が暗闇に広がった。

「……ははさま……?」

 違う。ははさまじゃない。ははさまはもういない。

 ――じゃあ、だれ?


『イたヨ』


 子ども声に似た高い音が、喜びをにじませて響いた。


『キョうハヒトり『だ、レもミてなイ『イイよ『いイかな『タべても『デモ『コワい『バレなキャいいヨ『たべタイ『――』


 動けない。寒い。息が震えて苦しい。

 たくさんの、数え切れないほどの小さなモノが集まって動いている。黒い。何かが暗闇の中を這いずり回っている。

 一つ一つは見落としてしまうほどに微弱なものだ。だが、少女の小さな体を押しつぶすほどの強大な集合体が、暗闇の中に潜んでいた。


 すると、唐突に音がなくなる。聞こえてくるのは己の荒れた息づかいだけだ。

 いなくなったのだろうか。


『ジャあ食べちャお』


「――っひ」

 耳元に急にやってきた声に悲鳴をあげた。

 硬直していた体がようやく動く。恐怖を原動力に、少女は闇から逃げるために走り出した。

 怖い怖い怖い怖い怖い――!

 小さい彼ら。可愛らしいと感じていたそれらを、少女は初めて恐ろしいと思った。

 光へと向かって走る。

 あの光なら、今の少女を救ってくれると信じて。


『逃げちゃダめ』

 闇が足に纏わりついて、少女の足がもつれる。

 重心が崩れて、少女は闇色の地面に体を打ちつけられた。

「っぅぁ!」

 一目散に逃げ出そうと指先に力を入れて立ち上がろうとするも、闇がそれを許さずに少女を地へと押しつけた。

「ぃやだっ!」

 闇が笑う。子どものように、老人のように。

 少女の抵抗を嘲笑する。

『捕マエた『タノしいね『モットあそボ『ボくオヤゆビ『ワたすはミミ『ず、ルイみミはぼぐノ『早イモの勝チ『セーのでタベヨう『サンせー』


 いただきます、と雑音が大きく重なり合った。

 温もりなんて欠片もない冷たい闇が、足から伝って体を覆いつくすのが怖い。

 痛みがないのが怖い。感覚がなくなっていくのが怖い。声が出ないのが怖い。一人なのが怖い。

 こんなに怖いのは嫌だ。誰か助けて、ははさま、ははさまははさまははさま――!


『私の物においそれと手を出すな、汚れてしまったらどうするんだ』


 悲鳴が聞こえた。たくさん、たくさん。小さくて怖いものが、ガラスが割れるような痛い悲鳴を闇の中で響かせた。

 イヤダと叫んでいるものがいる。タスケテとこちらに手を伸ばそうと小さな触手を伸ばすものもいた。イタイと悲鳴を挙げて消えていくものも。

 助けなきゃって思った。だって痛がってるんだもの。誰だってそう思うはずだ。

 だから、少女は手を伸ばした。痛みを、感覚を取り戻した手で、先ほど己を食おうとしたモノたちに手を差し伸べた。

 しかし、助けるはずのものたちは、助ける前に消えてしまう。

 小さなものたちよりも大きな存在にかき消されて、闇の中へと溶けてゆく。


『こら、危ないよお嬢さん』

 大きな声だった。少女がいつも散歩に行くたびに、時々話しかけてくれる優しい巨人。

「おっきな、ヒト……助けてくれたの?」

 母のときのようにかき集めようとは思わなかった。

 消えてしまうのなら、仕方ないと思ったからだ。コレは少女の世界ではいらないものだったのだろう。

『ああ、友だちだからね。……おや? お嬢さん、瞳があるね。誰かからもらったのかい?』

 以前はなかったはずのものに、巨人が指を指す。

 純粋な興味に、なんと言えばよくわからなかった。だから、何も考えもせずに、いつものとおり、本当にあったことを言うだけ。


「……これはね、ははさまが、わたしに最後にくれたものなの」

 ああ、ようやく。ようやく言えた。

 ははさまの、最後の、お願い。


 ―― 母さんはね、お前に人間であってほしいんだ ――


 ははさまは、本当に消えたのだと、ようやく自分に納得させることができた。

 それが、すごく嬉しくて、すごく悲しい。

『……お嬢さん。人間はね、醜い俗物だ。その中でもお嬢さんは(まれ)に見るほど純粋で綺麗な生き物なんだよ』

「――え……?」

 巨人が突然口にした言葉に、少女は戸惑いを感じざるおえなかった。

『私にはお嬢さんが俗物になるのは耐えられない』

 巨人の声は変わらない。

 悲しみでもない。諦めでもない。いつもと同じ。散歩していたときと同じ。残酷で無慈悲な声だ。

「おっきなヒトは……なにを言ってるの……?」

 少女の声は震えていた。

 恐怖で、悲しみで、戸惑いで。

 わたしの友だちは一体なにを言っているのか。

『そうだね……死なれては困る。食事はいつも用意しよう。楽しい話も毎日しよう。

 ――だから綺麗で在り続けなさい』

 人の体を優に超えるだろう太い指が、わたしの目を潰そうと――。


『あららら、どうしようどうしよう。もし、それを独り占めしようというのならお狐様は土地の(しん)に怒りを抱いちゃうねえ』

 圧迫は消えていた。体も自由に動く。

 その代わり、少女を守るように九つの尻尾がふわふわと頬を撫でた。

「……狐さん?」

『やあ、嬢ちゃん。お願いを聞きにきたよ。このお狐様がここで叶えてあげよう』

 それは、言外にここ以外の場では叶えないと言ってるも同然だった。

 思わず、拳を握り締める。

「わ、わたしは……」

『何を悩むことがある。今、ここで、わたしを助けろと言えばいい。お狐様にはそれが容易だ』

 他の願いは許さないと、狐は言っている。

 一人になれと、一緒にはいられないと、狐は拒否をしている。少女はこんなにも一人は嫌なのに。

 吐き出すように、少女はたった一つの選択を口にした。

「わたしを、たすけて」

 狐は嬉しそうに喉を鳴らした。

 狐との決別は終了したのだ。

『――狐の』

『きひ、あんたが怒り出すなんて面白いねえ。まったくもって面白い』

『それは私のものだよ。だからどうしようが私の自由だ』

『きひひひっ。馬鹿なことを言うんじゃないよ。綺麗であり続けることになんの意味があるのさ。綺麗なものがどんなものに変わるのかが面白いんじゃないか。やっぱりお狐様には土地の神の娯楽は理解できないねえ』


 突然、冷たい手に手を掴まれた。

 知ってる手だったので怯えることはなかったが、驚きに声を挙げてしまう。

「……ぁ、クロちゃ――」

 し、と小さな声と冷たい指に口を閉ざされる。

 白い。白いクロちゃんだ。黒くない。

『静かに、今のうちに外に出るんだ』

 小さく頷くことで意思を伝え、姿勢を低くしてその場から脱する。

 大丈夫だ。狐さんはこんなところで死なない。

 背後で爆音が響いた。

「っ……狐さんっ」

『振り向かないでっ。走ってっ』

 手を一層強く引かれ、二人で爆音の響かない場所まで走った。

 だいぶ走ると、急いていた足は、ゆっくりとした足踏みへと変化していく。

『もういいよ。走らなくて』

「……クロちゃん、なんで白いの? どうしちゃったの?」

 少しの沈黙を持って、クロはようやく言葉を発した。

『……ボクはね。君に感謝してるんだよ』

 その言葉に息を呑んだ。彼は勘違いをしている。

「わたし、何もしてない」

 いつも何かをくれたのはクロちゃんだ。

 今だって、わたしを助けてくれた。

『してくれたよ。君が知らないだけで、君はたくさんのものをボクにくれた。――真珠の少女に会わせてくたのも、その中の大きな一つだ』

 真珠といえば、たった一人しかいない。

「しろちゃんが……?」

 少女の母の願いを叶えてくれた、美しい真珠の色をした娘。

 それで合点がいった。彼は、あれに願いを叶えてもらったのだ。

 やっぱり、あれはしろちゃんだったんだ。

『そう、ボクを開放してくれた。あの悪夢からようやく抜け出せたんだ、君のおかげで』

「……なら、それは違うよ」

 クロちゃんを助けてくれたのはしろちゃんであって、わたしじゃない。

 わたしは、引き合わせただけだ。

 だが、クロちゃんはそれを違うと首を振った。

『ボクが今まで正気を保てたのは君のおかげだ。そもそも君がいなければ、ボクがこの悪夢から抜け出したいなんて願いすら、持てなかったはずなんだから』

 だから恩返しをさせてよと、クロちゃんは笑った。よく見えないが、笑ったのだと思う。

『彼女に願いを叶えてもらって、力はなくなってしまったけど。こうやって手を引くぐらいはできる』

 少女の幼い手を、冷たい手で強く握り締める。

 己の恩を忘れぬよう、しっかりと戒めるために。この温もりを忘れずにいたいがために。

『まだ目は開けちゃ駄目だよ。そしたら全てがなくなってしまう。君は何もできずに死んでしまう。それと、何が聞こえても後ろを向くのも駄目だ。あいつらが君を捕まえようと躍起になってるから』

「うん。……クロちゃん、ここから出たらどうするの?」

 できればお礼がしたかった。

 もう見えないだろうけど、そこにいたのは確かなのだから。

 いや、少女にとって、彼らがそこにいたという証が欲しかったのかもしれない。自分が決して彼らのことを忘れたくがないために。

『ボクはね、帰るんだ』

 気のせいか、その声からは寂しさと喜色がにじみ出ているように思えた。

「――帰る? どこに帰るの?」

『ほんとはもっと早くに行かなきゃいけなかったところ。もう行けないと思ってたんだけど、君たちのおかげで行けるようになったんだ。だから、改めてありがとう』

「……クロちゃん、消えちゃうの?」

 白い姿からはなんの感情も感じられないのがもどかしい。

 いつもなら鮮明に見えるだろう表情が、目が見えるようになったおかげで白く曇っているせいだ。

『そんな顔しないで。君は、もうボクたちが見えないんだ。だからもう気にかけなくていいんだよ』

 声は正直なのか。クロちゃんの悲しそうな声が(かも)し出されていた。

「それで、いいのかな……」

 少女は、いつの日か彼らのことを忘れてしまうだろう。

 ――時に恐ろしく、悲しく、楽しく、醜い、彼らの世界を。

 このまま。何も見ないまま、無くしていいいのだろうか。

『それでいいんだよ。ボクたちは、君が人間であることを望んでいるんだから』


 ―― 母さんはね、お前に人間であってほしいんだ ――


 彼らは、なぜこんなにも優しいのだろう。

 なぜ、わたしに対してこんなにも温かな手を差し伸べるのだろう。

 なんて残酷なヒトたちだ。

 その手を掴めない事ぐらい知ってるくせに。掴みたくても、その行為を許してくれないくせに。

 本当になんて、残酷で、あったかくて、優しい――化け物たちなんだろうか。

「――っ……」

 自然と、少女の瞳からは涙が溢れ出していた。

 この世界で最も純粋で透明な涙が、閉じられていた目蓋から隙間を潜って溢れ出す。

 少女の涙に気づきながら、化け物は何も言わなかった。

 謝罪も、労わりも、何も、言わなかった。

 だから、その無言に対し、少女はこう言った。

 ありがとう、と。


 長い道を歩いていると、少年が突然立ち止まり、少女に体を向けた。

『さぁ、ここでもうお別れだ』

「一緒に、行かないの……?」

 できれば、この世界から去るまで共にきて欲しい。

 無論、少女はそのつもりだった。そのため、声は戸惑いで満ちていた。

『ボクは、まだ行けない。……お狐様の元へ行かなきゃいけないから、まだ帰るわけにはいかない』

 そうは言うものの、少年の声はどこか寂しそうだ。

 だが、引き止めるわけにはいかない。引き止めてはならない。

 だって友だちだから。大切な、友だちだから。止めちゃ駄目なんだ。

『ここを真っ直ぐ行けば、外に出られる。でも、目隠しはまだ外しちゃだめだよ。外したら出られなくなる。本当の出口が見えなくなる』

 クロちゃんは真っ黒な道を指差して、少女の背を叩いた。

『さ、お行き』

 少女は少しだけ一歩足を踏み出すのを躊躇すると、一瞬だけ息を止めて背後にいるクロちゃんに話しかけた。

『……クロちゃん。わたしの名前、教えてあげる」

『――っ! 駄目だっ。それだけはやっちゃいけない!』

 名前を教えると言う行為は、己を差し出すことと同意だ。

 そんなことをすればこの少女はこの世界に縛られてしまう。人間になれない。

 たとえ、友だちであろうとも人間が化け物に決してやってはならない禁忌なのだ。

 だからこそ化け物は焦った。

 恩人であり、友であり、妹のような存在であり、人間であり続ける少女だからこそやってほしくないことだった。

「うん、知ってる。だから、ヒントだけ。わたしね、月なの」

『月……?』

「うんっ。みんなを照らすんだって! だからお前は月だってははさまが言ったのっ」

 闇を照らす、たった一つの灯火。

 ――確かに、そのとおりだ。この少女は、我々化け物を照らしてくれる大きな光。それでいて、遠くで輝き続ける手の届かない、触れてはならない高嶺の花ならぬ高嶺の月。

 さすれば、我々は少女()に触れることを許されない魍魎()か。

 少女の母親も、上手いことを言ったものだ。

 少女は素早く後ろへ振り向くと、クロちゃんの腹回りに両手を回して抱きついた。

『――っうわ』

 驚きに一歩後ろへと下がる。

「えへへー、驚いたっ?」

 悪戯を成功させた子どもと同じ笑みを浮かべて、少女はクロちゃんを見上げた。

 眩しい笑みだ。目を離せない、そんな輝きがその笑顔にはある。

 ――ああ、やっぱり、この子はボクたちにとって光なのだ。

 もう日の光浴びれないこの身の上で、この少女の光を見てしまった以上、もう手放したくない。だが、手放さなければならない。大切な、(友だち)だから。

『……うん、驚いた』

「えっへへー、やったー」

 無邪気な子どものような笑みを浮かべて、少女はクロちゃんのお腹に頭をぐりぐりと押し付けた。

 冷たいが、温かい。母と同じ温もりが確かにそこにあった。

 しかし、母とは違い、白い彼は少女を抱きしめることだけはしなかった。

『……ほら、もう行かなきゃ』

 放すよう、肩を叩く。

 本当は手放したくない。だが、このままずっとこの光の温もりを感じていたら本当に手放せなくなる。それだけはあってはならない。

 先ほどより、少しだけ少女の抱きしめる力が強くなる。

「ねえクロちゃん、撫でて。そしたら、頑張るから。頑張って、みんなのお願い叶えるから」

 ――だから、お願い。

 クロちゃんの白い手が少女の頭を撫でた。優しく、優しく。妹に接するように親愛の想いを()めて。もう触れることは叶わないだろうボクらの宝物の幸福を祈って。

『さぁ、もう時間がない。早くしないとあいつがくる』

 相手は土地の神。かのお狐様でも相手にするのは厳しい敵だ。

 あのお狐様なのだから死ぬことはないだろうが、できるとしても痛手を負わせるぐらいか。

「……うん」

 少女なりに自分の葛藤と戦っていたのだろう、白く、子どもらしい柔らかな頬には涙の跡がついていた。

 少女は震える体をクロちゃんから離すと、顔についた涙の跡を両手で拭った。

 目の周りに巻かれた布なんかは、雨で濡れた後のようにびしょぬれだ。

『……うん、いい子だ』

 今度は撫でなかった。

 もう、これ以上の温もりは与えてはならない。自分も、少女も、決断が鈍るだろうから。

 少女は顔を上げると、いつもと同じような笑みを浮かべて、いつもと同じように別れを告げた。


「――それじゃあね、バイバイ」

 今度こそクロちゃんに背を向けて、指差した方向へと歩き出す。

 もう、後ろ()見ない(いらない)

 同じ友だちは、二人もいらないもん。














「っは……っ」

 瞳を覆っていた布はもう破けてどこへいったかはわからない。

 でも、まだ目蓋は開いては駄目だ。どんなに辛くたって、前が見えなくたって、まだ開けちゃ駄目だ。

 地面を這いつくばってとにかく前へ進む。僅かな光を追って、目に見えない障害に怯えながら四肢を動かす。

 その時、涼しげな風が髪にふれた。

「――? 風……ぅっ……!」

 何かに頭をぶつけたのか、頭部を中心に鈍痛が走った。

 あまりの痛みに涙が目元から垂れる。

 何があたったのかを確かめるために、両手を動かし目の前の対象物に触れた。

 段だ。奥のほうもしゃがみながら触れてみると、また一つ段がある。

「階段……?」

 では、この上に外があるのか。

 壁に手をあて立ち上がる。幸い、怪我はあまりない。

 一段一段壁を頼りに慎重に上へと上る。

 微かに見える光はまだ遠い。一体どれほど歩けば届くのだろうか。


『おやおや、お嬢さん。どこへ行くんだい? 君が帰る場所はそっちじゃないだろう?』

「――っ!」

 この場で最も危険な人物の声に息を呑む。

 どうしてどうしてと言葉が頭の中で渦巻いた。冷たい汗が背筋を伝う。

「おっきな、ヒト……なん、で……」

 体の震えは止まらない。

 つい先日まで仲良く話していた相手だというのに、今ではなぜこんなにも恐ろしく感じるのか。

『おや? なにに怯えているのかな、お嬢さん? ……ああっ、そうか! 大丈夫だよ、お嬢さん』

 大丈夫ではない。

 確かに視界には入ってはいないが、巨人は少女の近くにいる。

 もしかしたらすぐ後ろいるかもしれない。上にいるかもしれない。この壁一枚先にいるのかもしれない。

 いったい、この人の何十倍も大きな巨人は何を根拠に大丈夫と言うのか。


『――私の邪魔をする狐なら始末したから』

 それこそ、晴れやかな笑みを含めて巨人は言った。

 顔は見えない。だが、確かにその声には隠し切れない愉快な感情が含められていた。

「――――――え?」

 今、この大きな怪物はなんと言った?

 シマツした? わたしの友だちを? 殺した? 奪った?

 これから自分で失くそうとしたものを奪われた?

 ――嘘だ。

「……嘘だ」

『我侭はいけないよお嬢さん。それは人間の醜い感情だ。すぐに捨てなさい』

「我侭じゃない。狐さんは死んでないっ。わたしは嘘は言わない! 嘘を言ってるのはおっきなヒトだ!」

 巨人にとって、ここまで少女が声を荒げるのを見たのは初めてだった。

 それこそ、まるで人間のように感情を(あらわ)にしている。

『……お嬢さん、君は疲れている。元々満ちているものに余分なものを授けるからこうなるんだ。私の元に戻ってきなさい。邪魔な目を取り除いてあげよう』

 ――そして、君はまた綺麗なものになるんだ。

 巨人は言う。

 母の願いを捨てよと。友たちの決断をなかったものにせよと。

 恐ろしく、無情な化け物を前にして少女は嫌悪した。

 己が、今まで天秤にかけていたものの価値に気づけなかった自分に。

 天秤にかけていたその二つこそが、自分が何度も涙し、別れを嘆いていた大切にしていた友だちだったのだと。今、ようやくわかった。自分は、友を捨てようとしていたのか。

 少女は流した。自分が天秤にかけ、捨てられてしまった友だちを思って涙した。

「ごめんなさい」

 わたしの、大事な――。

『謝らなくていい。君の罪を全て許してあげよう。さあ、私の元へ降りておいで』

 優しい毒を吐く巨人は、少女に手を伸ばした。

 その手を掴んでしまえば、自分の意思に反して、みなの願いを叶えることはもう叶わないだろう。

 だから、わたしは謝罪をする。

 優しくて残酷な、愛し方を間違えた化け物(友だち)に酷いことをしたわたしは、静かに最後の涙を流して謝罪をした。

「ごめんなさい。――わたし、人間にならなきゃいけない」

 足の震えはもうない。孤独への恐怖もない。

 一段、一段と上へと目指す。

『お嬢さん、どこへ行く。こっちへ来なさい』

 後ろは向かない。上も向かない。下も向かない。ただ、前を向いて歩いていく。

 焦った様子の土地の神は必死に引き止めようとするが、少女は聞く耳を持たずに光を求めた。


 友の願いを叶える光を。

 母の思いを遂げる光を。

 わたしが、幸せになれる光を。


『こっちに来るんだッ!』

 巨人の一声に地面が揺れた。大きな揺さぶりに一瞬体が浮遊感に支配される。

「――っぁ!」

 なんとか地面に伏せて衝撃を抑える。

 目の前の段にしがみつき、必死で階段から転がり落ちないように腕に力を込めた。

『……ほら、危ないだろう。私が助けてあげよう』

 大きな一本の指が背後から現れる。

 駄目だ。あれにだけは助けを求めちゃいけない。それこそ、友だちを裏切ることになる。

 眉間を深く刻ませながら、少女は激しく首を振った。

「嫌、……だ! わ、たし、はっ、人間にっ、なるん、だ!」

 地面の揺れに耐えながらも、声をはっきりと出してその助けを拒否する。

『そこにお嬢さんの意思がどこにある? 君は周りの言い分に従っているにすぎない。従うのが楽ならば、私のものとなるのになんの不都合があるというんだ』

 意思が、ない?

「――違うッ! わたしは自分で考えてここに上ってる! ははさまやクロちゃんや狐さんに言われてここまで来たのは本当だけど、それでもここに上っているのはわたしの意志だ!」

 確かに、今まで自由に気ままに生きてきた。

 周りのことなんて考えずに自分の楽しいことだけを選んで生きてきた。

 ははさまがなんで悲しそうなのかなんて気づかないで、一人でのうのうと笑ってた。

 それがははさまの願いだったから。

 何も知らない純粋な子どもとして振舞えば、ははさまは戸惑っていたけど喜んでくれた。わたしの傍にいてくれた。

 あのヒトは、わたしのお母さんだから。ずっと、傍にいてほしかった。わたしの味方でいてほしかった。

 ――でも、もう()()()はいない。

「わたしは、生きなきゃいけない」

 ――人間として。

 それは母の最期の願いだった。友だちの願いだった。そして、わたしの希望になった。

 揺れる地面をものともせず、わたしは上の段へと手をかける。その次に両足を次の段に乗せる。これを繰り返して上を目指した。

「っわたしは、自分の想いで、自分とみんなの想いで、ここにいる!」

 だから、自分の意思がないなんて言わせない。

 わたしは、わたしだ。みんなが、教えてくれた。わたしの想いだ。

 もう、我侭な少女はここにはいない。

『……もういい。面倒だ』

 風が先ほどよりも強く頬をなでた。

 ――外だ。あと、少し。あと少しで外に出られる。

 手が光を浴びる。右手が光に包まれた。

 温かい光を見ようと生まれて初めて目蓋を開こうとした瞬間、わたしはまた闇の中に引きずり戻された。

 すぐそこにあった光が一瞬にして遠くのものとなってしまった。

「――っいやぁ! 放してぇ!」

 大きな手が体を掴んで放さない。

 光が遠い。願いが、希望が遠い。想いが、薄れてしまう。

 必死に抵抗するも、大きな手は岩のように微動だすらしない。

『さぁ、帰ろう』

「いやっ! 一人で帰って! おっきなヒトなんてだいっきらいッ!」

『だいっ……?!』

 一瞬動きが止まったのを機に、力が抜けた指を動かし手から飛び立つ。

 地面に体を打ちつけて、痛みに悲鳴を挙げた。

「――ぃっづッ……!」

 しかし、少女は痛みなど苦ともせず立った。

 己が己であるために。自分の手で願いを叶えるために。

 少女は走った。

 今度は障害はない。大きな光へと続く真っ直ぐな道が目の前に広がっているだけだ。

『――っ! 行かせるか!』

 大きな声が背にぶつけられた。

 だが、足は止めない。誰のためでもない。自分のために恐怖しない。恐怖なんていらない。己の願いを叶えたいのならば――止まるな恐がるな、前だけを見て、走れ!

『……しつっこいよ、木偶の坊がっ』

 懐かしい声がした。

 油揚げが大好きで、いつも一緒に食べるたびに尻尾を嬉しそうに振る大きな狐の声が。

 会いたかった。だが、振り返らないことを少女は選んだ。

 だって、せめて最後はかっこいいところを狐さんに見せたい。

『狐の……ッ!』

『きっひひひ! お狐様がそう簡単におっちぬわけがないだろう? あんな初歩的な幻影に騙されるなんざ、土地の神降格は確実だろうね。なんならお狐様がもらってやろうか? その安っぽい椅子をさぁ!』

 巨人の咆哮が響き渡る。

 同時に、狐も競うようにたけり立った。



 次第に、自分の呼吸音だけがその世界での唯一の音であることに気がついた。

 真っ暗闇はもうない。初めて感じる眩しいまでの光が目蓋を焼いた。

 冷たい風が、走って火照った体を冷やしていく。

 ――ああ、外だ。

 生まれて初めて開くであろう目蓋をゆっくりと開かせる。

 それは、一つの小さな世界が終わる瞬間だった。幼い少女にとって、忘れたくなくとも忘れてしまうおぼろげな世界が失われる瞬間でもあった。

「――っ」

 その光を浴びた途端、網膜を焼くような痛みが神経を伝って脳まで響いた。

 とっさに目を両手で光から隠す。眼球が初めて光を浴びたせいか、痛みを感じたのだ。慣れさせなければ。

 今度は視界を下に向け、両手を影にしながらゆっくりと目を光に慣れさせる。

「――っよし」

 光に慣れてくると、少女は意気込んで顔を上げた。


 ――言葉を、失った。

 あまりに美しい光景に、少女は大きな瞳を見開いた状態で固まる。

 ()()を、少女の持っている言葉だけで表現するには足りないがゆえに、少女は涙した。それをしっかり瞳に焼きつかせながら。眉が歪み、視界が悪くなろうとも、少女はそれから目を離さず手を伸ばした。

 もちろん、届きはしない。手に入れようとも、どんなに手に入れたくても、決して届かないものだと知っていて、少女は手を伸ばす。

 それは、()だった。

 闇を照らし、触れさせることを許さない、美しい光だ。

 化け物が少女に手を伸ばすように、少女も月に手を伸ばした。

 手に収まらないほどに大きな光。闇の中で過ごしてきた少女にとって、その光は十分なほどに眩しかった。

「――母さん、見える……?」

 声は涙で震えていた。

 ああ、あなたは、これをわたしに見せたかったんだね。


 ―― お外はね。綺麗なものでいっぱいなんだ。お前にも見せてやりたいぐらい、ほんとに綺麗な―― ――


 見える。見えるよ。

 母さんが見せたかったもの。まんまるで、おっきくて、わたしなんてちっぽけだって思えるぐらいのお月様。

 少女の顔は、月のような眩しい笑みで輝いていた。

 その笑顔こそ、化け物たちが己の身を(てい)してまで守ってきていたもの。少女の幸福、純粋だからこそ浮かべられる輝きだった。

 友は、少女の笑顔を守りきれた。願いは、ここに叶ったのだ。


「世界は、こんなにも綺麗だよ――」


 真珠は(またた)く。

 少女の輝きを浴びて、純白の光を帯びる。

 世界で最も純粋で、最も稀有な想いは、永遠に忘れられることはないだろう。

 真珠の娘がいる限り、決して。
















 目を覚ますと、真っ白な天井が最初に目に入った。

 コン、コン、と連続して金属にぶつかる音が左側から聞こえてくる。

 ぎこちなく動く首を音のするほうへと向けると、そこには点滴を変えている最中の看護師がいた。

 作業をぼーっと見ていると、気が逸れたのか、看護師の目と合った。それもばっちりとだ。

「――え……」

 呆然と声が響く。

 小さく、点滴からぽた、ぽた、と雫が秒単位で落ちていく音が耳に入った。

 看護師は一歩、二歩とベットから離れると、脱兎のごとく扉に向かって走り去り、動揺した声を当り散らした。

「――せ、先生ぃ! お、起きましたっ! 患者が! ()()ちゃんが目覚めました!」



 暗い世界の中で、女は陰りを帯びた表情を浮かべている。

 その体はもはや形を成してはおらず、今にも黒に呑まれそうなほどに儚かった。

 しかし、未だに光の宿る瞳は語る。

 希望の光を自愛で包んで、女は告げた。


 ―― お前は光だよ。みんなを、わたしたちを照らしてくれるお月様だ ――


 遠い、遠いどこかで、誰かが、誰よりも温かかった誰かがそんなことを言ったような気がした。

やっぱり長くなったので分けました。

しろちゃんかしんちゃんで呼び名は悩みましたが、後者だと某クレヨンryになりそうだったので前者に致しました。ですが、心の中でいつもしんちゃんです。キャラがぶれぶれな気がするけど気にしない気にしない。


次は本編のほう行こうかなーと悩み中。

双子ちゃんか、オオカミさんか。

やっぱりハッピーハッピーブラックのコンボより、ハッピーブラックハッピーのコンボのほうがいいかね。

よし、決めた!次は本編いきます!

え、ブラックなのかと?なんのことでしょう。ハッピーに決まってるよ。

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