何も知らない男 中編
――あれから幾十年が経った。
あの後、俺たちの国は隣国と(無理矢理)合併されることになった。
俺たちの国の最大の守りである騎士たちを葬ったのだから、当たり前といえば当たり前だろう。逆にこんな小さな国、なぜ侵略ではなく合併なのかという疑問が浮かんだものだ。
だが、この合併は騎士たちというより幼馴染の上司である隊長を失ったのが原因かもしれない。
俺たちの国は、自然が豊かで脅威にもなりえないほどの小さな国だ。他の国から見れば極上の餌みたいなものである。
だというのに、他の国々が俺たちの国に戦争を仕掛けてこなかったのはみな、隊長を敬遠してのことだった。
幼馴染から聞くに、一軍は軽く全滅させることは容易な腕だとかで。
流石に冗談だろうとその時は笑って見せたものだが、あの時の幼馴染の硬い表情と騎士たちが全滅した直後の合併から見るに、あの情報はありがち間違いではなかったのかもしれない。
――だとすれば、そんなにも強い男を殺しうることのできる人間は一体何者なのだろうか。
村のみんなはこれまでの生活が変わる可能性に怯えていたが、それよりも俺はあの最強を殺した化物が何よりも恐ろしかった。
まあ、友人はいつもどおり能天気だったが。
おかげ様で怯えてるこっちが馬鹿らしくなって、村全体がまた穏やかな日々を取り戻せたのだから感謝しなくてはならないだろう。幸運なことに、合併されても村にはなんの負担も掛けられることはなかった。
あ、そうそう。友人といえば朗報があるんだった。
どこで拾ったかは知らないけど、めちゃくちゃな美人と結婚したんだ。
式では友人の昔話でもしてやろうと乗り込んだのだが、まさかいきなり会って感謝の言葉をぶつけられるとは思わなかった。以前会った時に世話になったと言っていたのだが、残念なことにその事柄が俺の記憶からすっぽりなくなっていたので返事に困ったものである。
だが、今や友人の妻は子を産み、その子は十台半ばまで成長している。
一つ下の少年を連れまわしている姿は、過去の自分たちを思い出した。唯一の違いは、少女は騎士なんてものを目指してはおらず、少年が一人足りないということだ。
まあ、つまり――馬鹿が一人足りないということだ。
俺たち幼馴染三人が遊びまわっていた情景からするに、少女が正義のために駆け回り、俺が無理をさせないために追いかけ、友人が馬鹿をやっている。確かこんな役柄だったはずだ。あの頃の記憶がまったく薄らいでいないことが嬉しくなり、頬を緩ませる。
む、馬鹿をやっていたと言っても何やってたんだったか……。ああ、そうだった。確かいきなり俺は空を飛ぶ! とか発言して屋根に上ったりしていたんだ。(もちろん人間は空を飛べないし、高いところから落ちれば必然的に怪我をする)多分原因は鳥だろう。あの時、確かあいつは鳥にハマっていたはずだ。
しかし、少女は幸か不幸か、父親に似てしまった。
それも、父と同レベルのトラブルメーカーだというのが救い難い。
盗賊のアジトを発見してお宝を持って帰ってきたりした時は、寿命が縮んだと思った。いや縮んだ。
あの時は本気で死を覚悟したものだ。
だけど、気づいたら盗賊も村の住人になってるし、涙目の少年を頭領と呼んでいるし、心配した俺の苦労はなんだったんだって出来事だった。
そんな死ぬ思いをした昔話も今ではすっかり笑い話だ。
不意に、まどろんでいた脳が覚めた。
静かにリズムを奏でていた雨の音が、急に大きくなったように感じられたからだ。
「――……気のせいか?」
誰もいない家の中、雨の音がもっとも騒がしい音であったせいか、自分の声が通常よりも大きなものに聞こえた。
いや、確かに聞こえた。
まるで、何かが爆発したかのような音を雨に紛れさせたようなものが。
――なぜか、今では鮮明に思い出せない幼馴染の顔がおぼろげに頭に浮かんだ。
あれから何年経とうと、俺は彼女のことが忘れられなかった。否、忘れることなどできるはずがなかった。
俺は、あれ以上に凄惨な赤を見たことはない。
今でも、人から血が出ている場面を見ると胃のものが喉まで迫り上がってくるのだ。
もし、そう、もしだ。
あの時、彼女が生きているという話を真剣に聞いていたらどうなっていただろう。
この記憶にこびりついた悪夢を見ずにいられただろうか。
今では昔ほどの頻度で見ることはなくなったが、それは昔よりはましというだけだった。
それに頻度が少なくなっただけであって、時が経ち記憶が曖昧になった分前よりも惨い夢になっている。
俺は硬い表情で家の外へと通じる扉に手を伸ばした。
きっと俺は後悔しているのだろう。
何もできずに蹲ることしかできなかった、無力な自分が嫌いなのだろう。
過去は変えられない。ならば、せめて今やれることをやるしかないじゃないか。
意を決して、俺は外へと――。
「「小父さん助けて!!」」
「――うわッ!?」
――出ようと思ったら、友人の娘とその幼馴染が必死の形相で現れた。
雨の中に長時間いたのか、二人は全身ずぶぬれになって震えていた。
このままでは風邪をひいてしまう。
「一体どうしたんだ……っ!」
――ぽたり、と地面に鮮血が弾けた。
ハッと、視線を上げる。泣きそうな少年の顔が視界に映った。
「小父さん……、お願い。――彼女を助けて……っ」
少年の背で血に濡れている者は、いつの日か見た、白い少女だった。
「――粗方の手当ては終わったが、それでも危機的状況であるのは確かだ。雨が止んだら直ぐにでも医者に見せるべきだな」
消毒液に濡れた手を、乾いた布で拭いながら二人に告げた。
数時間気を抜くことがなかったせいか、少年は心身ともに疲労しているのが目に見えていて今にも倒れてしまいそうだ。その反面、少女はまだやれると気を滾らせていた。
どちらにせよ、二人ともこのまま無理をし続ければ倒れるな……。
「ありがとう小父さん……っ」
「いつも迷惑かけてすいません……」
「なあに、お前たちはうちの子供みたいなもんだ。迷惑も何もないだろ? それよりも、風をひくといけないから風呂に入っておいで」
「「でも……っ」」
「この子なら大丈夫だ。俺が診てる。だから安心して行ってこい」
二人は目を合わせると、渋々頷きながら風呂場へと向かった。
一つだけ言うと、俺の家の風呂場は男女共有のものだ。お互いを大切にする二人なら、片方に風邪をひかすなんてことは絶対にしないだろうから、一緒に入ることになるだろう。このまま順調に素直になっていってほしいものである。
友人がいれば、何かたくらんでいるような笑みと評するであろう表情を顔に浮かべるも、少女に顔を向けると直ぐに引き締めた。
見れば見るほどなんて儚い少女だ。触れた途端に散ってしまうような、まるで束の間に見た白昼夢のようだと思った。
少女の全身に巻かれている包帯がそう見せているのか、血が抜けて青白くなった肌がそう見せているのか。
――いや、きっと少女の存在そのものが儚いものだったのだろう。
なぜ今の今まで忘れていたのか。今なら、はっきりと思い出せる。
あの時、幼馴染が死んだ日。俺は――この少女に出会った。幼馴染の死を伝えに。そして、俺に悪魔の囁きとも言えるものを与えに来たこの少女に。
「……なあ、あんたなら」
今なら、俺の願いを叶えてくれるか……?
あの時叶えられなかった思いを。願うことを諦めてしまった俺の希望を。
だが俺は言葉に詰まり、そこから先は口にすることができなかった。
目の前で横たわっている少女が、あの時の白い少女とは限らない。きっと彼女の娘なのだろう。さもなければ年齢が合わない。
――そうだ。何も知らない彼女が俺の願いを叶えてくれるわけがない。
なんて馬鹿で都合のいい男なのだろうか、俺は。いい年になってまで夢だの希望だの……。
俺は自分自身を小さく嘲笑した。そして、自分の顔を隠すようにして片手で覆った。
「…………――……馬鹿みたいだ」
雨の音が窓を激しく叩く中、その言葉はぽつんと部屋に残された。
そうして項垂れて、どのくらい経っただろうか。短いようで長く感じられた時間だった。
「…………ん」
少女の白く長い睫毛が小刻みに震えた。
瞼がゆっくりと開かれ、銀色の瞳が怠慢に覗かれる。近くにいる俺に気づいたのか、錆色の宝石のような瞳が驚愕によって見開かれた。
「――な」
流石に叫ばれてはたまらない。確実に馬鹿の娘が勘違いする。
「君を手当てしたのは俺だ。危害を加えるつもりは一切ないし、君をここへ運んできた二人も俺の知り合いだ。だから、安心してほしい」
と言って安心する馬鹿は、俺の友人以外俺は知らない。
さて、どうすれば落ち着いてもらえるだろうか。
「……んで……」
「ん? 今なんて?」
気が逸れていたせいで少女の言葉がよく聞こえなかったので、失礼だが聞きなおした。
「なんで……生きてるの……」
「俺、君に対して悪いことしたか?!」
初対面でなぜこんなにも痛烈な言葉を言われなければならないんだ。
「あ……いえ」
少女は戸惑いがちに目を逸らす。その瞳は先ほどのような驚愕した色ではなく、疑いの色になっていたことを俺は見逃さなかった。
だが、俺の全身を舐めるように視線を彷徨わせると、すぐさま目の色を変えた。
直感だがこの瞬間、俺はこの少女があの時の白い少女である確信を持ったのだ。
「あなた――」
「よかったぁ! 起きたのね?! 痛みはない? 小父さんに変なことされなかった?」
失礼な。
友人の娘と少年は風呂から上がった直後だからか、頬が微かに赤く火照っていた。霧が晴れたような表情からすると、もう心配は要らないようだ。
「おじさん……? 彼はあなたの血縁者なの?」
「ううん。この人はお父さんの友達。いつもお世話になってるの」
「努力賞をもらいたいぐらいだけどな」
「独り身の小父さんに潤いを与えてるんだから、逆に感謝してほしいわね」
「こら、そんなこと言っちゃ駄目だろ? すみません小父さん、こいつホントは感謝してるんですよ」
「ははっ。ちゃんとわかってるよ」
むー、と不服そうに頬を膨らませる友人の娘の頭を撫でると、特に反抗もされずにされるがままになった。
なんだか猫を飼っている気分になる。
すると、空腹を知らせる音が撫でている者から発せられた。
「小父さんお腹空いた」
「わかったわかった。今から作ってきてやる」
もはや呆れ半分笑い半分で頭を軽く叩く。
三人で話をしておいたほうがいいだろうと、一人で食事の準備をし、出来上がった頃に二人を呼んだ。
「テーブルと椅子をあっちに運んでくれ」
「え、こっちで食べないの?」
「あのなあ、あの子は怪我人なんだぞ? 歩けるわけないだろう」
あ、そっか。と納得して二人は運び始めた。
食べ物も全て運び終わると、きょとんとした表情で戸惑う白い少女に少し笑う。目の前で起こっていることがよくわからないといった風の表情だ。
「な、なにして……」
「何って、みんなで食べるんだよ。一人は嫌だろう?」
「わ、わたしは、いらない」
「食欲がなくたって駄目だ。ここは俺の家なんだから、ちゃんと言うことは聞いてもらうよ」
「そうだよ。それに食べないと怪我は治らないし」
「なんならあたしが食べさせてあげよっか?」
ニコニコとやる気を滾らせた笑みからは不吉な気配しか感じなかった。
少年もそれに気づいたらしく、慌てて止めに入る。
「自分が不器用だってこと忘れてない?」
「な、何よぅ! 流石にあたしでもこれぐらいはできるわよっ!」
そうは言いながらも、彼が病人だったときに彼女の失敗のフォローをした彼の病状が悪化したのは確かなのだ。
第一、何故俺がその事を知っているのかと言うと、その時看病したのはこの俺自身だったりする。
久しぶりの数人での食事を終え、全員布団の中に潜り、慌しい日も終わった。
――はずだった。
昼間の雨も小さな音を立てるだけのものになって窓を叩いている。
ほぼ無音と言ってもいいこの家で聞こえる音と言えば、この雨音と忍ぶように歩く俺の足音だけだった。
なぜ俺がこんな空き巣のようなことをやっているのかと言うと、至極簡単なことだった。
あの楽しい食事を終えると、白い少女に声をかけられたのだ。
みんなが眠ったらこの部屋に尋ねてきてほしい、と。
態々俺に声をかけたのは、傷のせいで歩けないためだろう。
丁度いい、こっちも話があると思い、その言葉に頷き今に至るというわけだ。
慎重に、慎重に二人が眠っている寝室を通り過ぎる。この先の部屋であの白い少女が待っているのだから、避けては通れない難問だ。
無事通り過ぎ、ほっと息を吐く。
「小父さん?」
背後から突然聞こえた少年の声に肩が跳ねた。
「な、なんだ? こんな夜中にどうした?」
内心冷や汗だらけで振り向く。
「どうした……って、だって、寝れるわけないじゃんか」
恨みがましい目で見上げてくる少年の赤らんだ顔を見て、納得した。
少年が出てきた寝室からは、少女が一人安らかに寝息を立てている。少年の心境など知りもせず、我の道を突き進む少女らしい。
「一緒に風呂に入った仲だろう? なら気にすることも……」
「あ、あれは無理やりだったしすぐに終わったから……! っ、つーか小父さんなんで知ってんだよ!」
赤くなったり青くなったりとからかいがいがあるな。
うん、若い若い。
「こら、静かに。起きるだろ?」
はっとして口を閉じた少年は、寝室を覗き見ると静かにドアを閉めた。
少女の寝起きは悪いと村でも有名なほどだ。顔を青くするのも仕方がないだろう。
「……小父さんこそどこ行くんだよ」
「お前と違って邪な感情に耐え切れなくて……みたいなことはないから安心しとけ。ちょっと喉が渇いてな」
「な……?!」
否定はしないのか、顔を真っ赤にして俯いた。これが少女だったら必死に否定していたことだろう。そう思うと、ますますあの女騎士に似ていると思った。
彼女も、よく周りから囃し立てられて否定していたものだ。自分は騎士道一筋だ、恋心など二の次に決まっているとかなんとか。その度に俺に言い訳していたのは笑ったなあ。
「じゃあな。早く寝ろよ」
そう言って背を向ける。
早く少女のもとへ行かなければ。機嫌を損ねることだけは避けねばならない。
「……小父さん……っ!」
まだ話すことがあるのか、少年が静止の声を挙げた。
「ん? どうした?」
少年は自分でもなんで呼び止めたのかわからないのか、視線を彷徨わせている。
「あ、いや……ほんとに、小父さん水を飲みに行くだけなんだよね?」
まさか気づかれたのか。いや、そんなはずがない。彼女との関係を知っている者は他にいないはずだ。
ただ疑問を感じたから聞いてみたという、ただのそれだけのことだろう。
「ああ……そうだよ」
「や、やっぱりそうだよね。……なんか小父さんがどっか遠いとこ行っちゃう気がしてさ。そんなわけないのにね」
事情は聞かなかったが、やはり辛いことがあったのだろうか。この少年がここまで弱気なのは久しぶりに見た。
不思議と、小父さん小父さんと懐いていた小さな少年の面影が頭に浮かんだ。
「大丈夫、小父さんはどこへも行きやしないさ」
柔らかく微笑み、少し硬い髪質の頭を撫でた。
こうして撫でるとよくわかる。本当にこの子らは大きくなった。いつまでも子どものままではないのだ。
「……うん」
だが、不安に揺れる瞳が、そこにあった。
念のため本当に水を飲み、白い少女のいる部屋に入る。
暗い世界の中で、ただ一人白く照らし続ける少女がそこにいた。所々赤く滲んだ包帯が毒々しく映る。
ただ、そうであっても神々しさを失わない美貌は、まるで天使のようだと自分でも思った。
背中に天使の羽があっても疑わない美貌と、人の目を惹き付けて止まない白。
きっと、いや、この少女は人ではないのだろう。
この顔からしてそうだ。あまりにも美しすぎる。愛を囁く者よりも、信仰し、崇める者のほうが多いとみた。
少女の観察をしていると、少女の銀色の瞳がこちらへと向いた。
このような暗闇の中でも、その瞳は輝いているような錯覚を抱く。本当に、なんて人間離れした美しさを持つ少女なのだろう。
「来たわね」
少女のベットの横に置いてある椅子に座り、話はなんだと問うた。
「……あなたの真珠をもらいたいの」
射抜くような瞳で見つめてくる少女が頼んできたことは、俺にはまったく心当たりのないものだった。
「…………真珠って、なんのことだ?」
やっぱり、と少女は憂いを帯びた目を伏せた。
「手を貸して」
特になんの疑問もなく差し出すと、包帯に巻かれた手が添えられた。
「いい? これから起こることを目に焼き付けて。――絶対よ」
頭の端に微かな痛みを感じながらも、白い少女の言葉に頷く。
ここまでは何の問題もない。問題もはずだが……。なぜだか、頷いた瞬間に決定的な何かを失ってしまったような、背筋が凍るような恐怖が体を支配した。
――絶対よ。と、少女の白い言葉が頭の中で煮込まれる。
吐きそうなほどの支配は頭から離れなかった。他の事を考えようにも、その途端頭の痛みが脳内に響き渡るのだ。より気分も悪くもなる。
「おい、君……何を」
「黙ってて、すぐに終わるわ」
間一髪、言葉を遮られたので口を閉じる。
すると、何かヒビが入ったような音がし、その次に折れた音が聞こえた。
まさかと思い、少女が放した手を見ると、指が一本欠けていた。
だが、傷口からは血液の一滴も零れてはこなかった。傷口は石灰で固められたかのように白く、まるで、人形のようで。
「――な、なんだ、これ……」
ただ、目の前の出来事に呆然と呟くことしかできなかった。
信じられなかった。だが、忘れることなど到底できないほどの衝撃的な事実に視界が歪んだ。
白い何かが頭の中を、全身を支配しているのがわかる。決して心地の良いものではない。だが、不快なものでもない。そう、これは体の一部。――俺なのだ。
俺の中から俺が消せるわけがない。
だというのに、これはこの白い何かは一体なんだ? という疑問が頭にこびりついて離れなかった。
消さなくては、疑問を。そうしないと、俺が壊れてしまう。
そうだ。忘れなくちゃ。さもなきゃ願いが叶えられない。
――でも、彼女が言ったんだ。目に焼き付けろって。
どうしようどうしよう――どうすれば――。
「いいの。もう忘れなくていい」
少女の腕が、俺の頭を包み込んだ。包帯の感触が肌に直接あたってくすぐったく感じたが、どこか不快ではなかった。
いつの間にか、俺の目からは透明な雫が零れ落ちている。
「……俺の体、どうしちゃったんだ……」
「もうない。あなたが彼女を諦めた日、彼女の願いが叶わなかった場所で死んでいたわ」
その言葉に、ああ、彼女も願ったのかとようやく思い至った。
そして叶わなかったのだ。きっと、彼女は騎士になりたいと願ったのだろう。昔から、それしか頭になかったから。
「あなたの体が死んだ代わりに、真珠が体を与えたの。あなたは結局何も願わなかったから、それができたんでしょうね」
それは遠まわしに、あのときの希望は願いではないと言ってるも同然だった。
そして、彼女の願いが叶わなかった今、その希望も打ち壊されてしまったのだから当然と言えば当然と言えよう。
「幸い、あなたは彼女のこと思い続けた。それに……いくつか違う真珠も取り込んでいるみたいだし。だからあなたは体を失わず、死なないですんでいたの」
きっと、一時でも彼女のことを忘れてしまっていたらあなたの体は無くなってしまっていただろう、と少女は言った。
その言葉に少し安心した。そうか、自分はあの誇り高い女騎士のことを忘れたわけではなかったのか。
この執拗な思いは、無駄になっていなかったのだ。
俺の頭を包んでいた温もりが消え、代わりに俺の目をじっと見る銀色の瞳が、俺を映していた。
「……もう一度、あの女騎士に会いたい?」
「もちろんだ。会えるというなら、今すぐ死んだって心残りはない」
即答で答える。
ふ、と彼女は自分の子どもを愛でるかのような微笑を浮かべた。見る人が見れば、悪魔のような魅惑的な笑みと言うだろう。
「じゃあ、交渉成立ね。わたしはあなたから真珠をもらって、あなたは彼女に会える」
「――……できるのか……?」
「ええ、だって、わたしは真珠に愛でられた少女だもの」
まあ、その代わりにあなたは死んでしまうけれど、と少女は言った。
ああ、確かに、この少女は真珠に愛でられた少女だろう。彼女ほど、真珠に愛された少女もいない。
「……一体どうするんだ?」
「あなたの肉体は亡くなったって言ったでしょ? あれは、今のあなたの精神が過去に送られたからだとわたしは思っているの」
「つまり、今の俺が過去の肉体に入り、その時に過去の俺が真珠の体になった……ということか?」
「そう。よって、あなたにはこれからのあなたを捨ててもらう」
それでもいいか、と。
脳裏に、二人の少年少女と友人夫婦が浮かんだ。
この少女は、俺に今まで培ってきた全てを捨てる覚悟はあるかと聞いている。友人も、これからの人生も、――あの子たちの未来を見たいという思いも。
それらは幾十年と年をかけて作り上げた、俺のかけがえのないものだ。
「かまわない」
だが、それ以上に俺はあの赤髪の女騎士に会いたい。
家族であり、友であり、愛していた騎士に。
人は俺を薄情な人間だと罵るだろう。過去よりも今を生きろと。残された者はどうなるのだと。
だが、例え周りが何を言っても友人は笑って許すだろう。あの二人は泣くかもしれない。だが、結局は俺の身勝手な願いに反対せず、ありのままを受け止めてくれる。彼らはそんな人間だったはずだ。
残された者の気持ちは俺が誰よりも知っている。
知ってるからこそ、残るわけにはいかないのだ。
「やっぱり、変わってないのねあなた」
あの時、初めて出会った時から何も。
「そう言うあんたは変わったな」
どこが、とは言わなかった。それは、この先少女が自分で気づかなければならない事だったからだ。
そう。と、少女もまた聞かなかった。
そっと少女が白い額を俺の額と合わせる。
不意に近づいた少女の美しい顔に目を細めた。美しいとは思う。だが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
この身が真珠のものとなったせいか、俺には欲がない。
今まではそのことに何の疑問も抱かなかったものだが、それもあの赤い騎士に並々ならぬ執着をしていたからだろう。
忘っとした頭で、そんな簡単な事実に気づいた。
身体が消えていく。いや、元から無かったのだから消えていくもなにもないのかもしれない。
白い守りが消え、身軽な俺だけが取り残された。
それは今までの俺にとって大切なものであったはずなのに、それよりも過去になくした思いが胸の中に沸き起こり、喜びに打ち震えている。
欲とは醜く、目を背けたくなるものであったはずだ。だというのに、今、俺は取り戻したこの醜い人間性がたまらなく愛おしい。
小さな意志が、膨大な時間の中を遡る。片時も忘れられなかったあの日向かって。
真珠の足跡を辿り、今度こそ己の願いを叶えるため、俺は自分と無くした身体を取り戻した。
まさかタイムトリップ……いいえ違います時間を乗り越えて体を交換したってだけです。体を過去に送ったりするのはまさかの真珠の少女でも数秒ぐらいしかもたないので無理ゲー。
質問あったらどうぞ気軽にお聞きください。