何も知らない男 前編
大変お待たせしました。
まさか二万文字いくと誰が思っただろうか……。
あんまり長いと読みづらいのではと思ったので三つに分けました。
これほどまでに恐怖に苛まれたのはこの夜だけだろう。
――また、こんなにも悔い、嘆いた一日もこれで最初で最後だったはずだ。
願いは叶わなかった。でも、お前を信じ続けた。この事実が残っただけで、俺はもう十分だ。
これは、真珠の気まぐれで実にされた。ただ己を信じ、たった一人の女を守ろうとしただけの男の話。
『馬鹿みたい。そんなことをしてもあの子は止まらないわ』
男は言った。
変わっている。本当に小さなことだけれど、それはたった一つの希望なんだと。
『希望……? たったそれだけのちっぽけなものに貴方は命をかけるの?』
少女は色んな願いを見てきた。
醜いもの、綺麗なもの、黒いものに白いもの。
気に入ったものは育てて食べ、気に入らなかったものは元から腐っていた。
だけど、自分に得のない願いなんて見たこと無かった。みなが自分の欲に忠実だったのだ。
――だというのに、この男は希望だけでいいとのたまった。願いではなく、叶うかどうかも曖昧な希望をだ。
生き返らせろとか、そんなものを予想していたこちらとしては拍子抜けである。
今まで少女がそんな人間に出会わなかったというのも事実だろうが、少女にとって、そんな人間がいることが信じられなかったのだ。
『何それ、訳わかんない。だったら願えばいいじゃない』
そう。騎士を止め、自分の傍にずっといてほしいと。
この男の心の奥に潜む願いがそう囁いているというのに、なぜこの男は自身の欲望に従わないのだろうか。
あの子の復讐心に最も邪魔な存在だったから来たのに、と心の中で少女は不満を漏らした。
それじゃ意味が無い。彼女がそれだけのために自分の夢を捨てるはずが無いんだ。彼女が決めないと駄目なんだ。
それこそ意味が解らない。あらゆる願いを叶えてきた少女にとって、男の言い分は不可解極まりなかった。
『ふーん。じゃあ、貴方の願いにあの子は何の不満も持たないのね』
それはどうだろう。彼女は我侭だったから、嫌かもしれない。と、男は快活に笑った。
ピクリ、と少女の片眉が跳ねた。
――これだから、人間の考えることは理解できない。
虫唾が走る。胸の奥でざわざわする何かを鎮めようと、強く拳を握り締めた。
男の笑みがあまりにも眩しかったせいか。少女は男から目を逸らした。
嫉妬からかもしれない。憎しみからかもしれない。
ただ、今の少女にはこの感情がどちらなのか判別できなかった。
『……なら、これを持ってて。捨てたら願いは叶えないから』
空の真珠を押し付ける。
まだ何色にも染まっていない赤ちゃん真珠。綺麗な色に染まってね。
ありがとう、なんて滅多に言われない言葉を最後にお別れを済ました。
――うそつき。
どうせ、私があの子に何をしたのかを知ったら〝死ね〟って言うくせに。
人間は嘘つきだから嫌いだ。
私にできないことを見せ付けるから、嫌い。――大嫌い。
お前も早く死んじゃえ。
友人が切羽詰った表情で訪ねてきた。
急いでいても、ノックもせずに人を叩き起こすのは人としてどうかと思うのは俺だけだろうか。
いつの間に寝てたんだろう。ここ最近色々考えてしまって眠れない日々が続いていたというのに。
「いいから! 早く来い! 今大変なことになってんだよ!」
よほど焦っていたのか、乱暴に俺の腕を掴み取る。
動いた拍子に小さな何かが床に落ちたらしい。軽い音が床に響いた。
どうやら、手の中に納まっていたものが掴まれた拍子に落ちてしまったようだ。
ぞっと、背筋を悪寒が駆け上った。まるで、親に叱られることを恐れる子どものように。
咄嗟に手を振り払い、地面に這いつくばって落ちた物を手探りで探す。深夜だからか、暗くてよく見えないのがもどかしい。
「何してんだ?! 早くっ――」
「うるせえッ! いいから明かりを持って来い!」
焦りからか、感情をむき出しに怒声を浴びさせる。
早く――早く見つけないと――!
何か取り返しのつかないことをしているような気分だった。胸の奥に巣くう不安を取り除きたいのに、それらは俺の手の届かないところまで侵食してくる。
俺が必死に探していると、小さな白い光が灯ったのが見えた。一瞬それは幻のようにも思えたが、今にも消えそうな光はそこに灯り続けている。
一瞬で染められてしまいそうな白がそこにあった。暗闇に飲まれてしまうのではないかと感じるほどに、小さな白い光はあまりにも弱弱しい。きっと、これはどんな色にもなれる。まるでバケツ一杯に溜まった墨の中に、無慈悲にも一滴だけしか垂らされなかった儚い白のように。
急がないと光が消えてしまうんじゃないかと我に返り、素早く手の平に納めた。一度掌の中に納まってしまうと、もう役目は終えたとでも言うように光は消えてしまう。
ほっと、安堵の息を吐く。もう落とさないよう、そっと懐に入れておいた。
「あ……終わったのか?」
どうやら待っていてくれていたらしい。右手に俺の家の灯りを持っているところをみると、さっきまで探していてくれていたのか。
あとで何か奢ってやろう。女の子でも紹介したほうが喜ぶかもしれない。
「ああ、ありがとう」
感謝の言葉を述べると、友人はじゃあ、さっさと行くぞと駆け足で林へと向かっていった。
俺も急いでその後を追った。
裏山の中へ入ると大勢の村人がいるにも関わらず、そこはしんと静まっていた。
しかし、よく聞くと数人が小さな声で話しているのが分かる。
(何があったの?)
(――が死んだらしいのよ)
(嘘……いくつあったの……?)
(五つ。まだあるかもしれないから今手分けして探してる)
(……なんてこと。あの子、無事だといいけど……)
(やっぱり女の子が騎士だなんて止めるべきだったのよっ……――)
耳を疑った。
違う人なんじゃないかと考えを巡らしたものの、この村から騎士になった女なんて、脳裏を掠めた少女だけしか、俺は知らない。
自分をこの場所まで導いてくれた男を押し退け、
「ちょっ、落ち着――! っ、なんでこんなとこにバナナのか――ガッ……!」
背後の悲鳴を無視して先へ進む。
そう多くはない人を押し退けながら、俺は人がより集まっている場所を目指した。
何も考えずに、ただ駆けることに集中した。
さもなければ嫌なことを考えてしまうだろうから。
〝大丈夫大丈夫。なんとかなる〟
彼女がよく口にする言葉だ。
どんな失敗を犯したときも、危険な状況に陥った時にもこの言葉を用いて自分を元気付けていた。
大丈夫、あいつは生きてる。
確信は無い。あるのは嫌な胸騒ぎしかなかった。だが、そう自分に言い聞かせなければ俺は先へ進む勇気を持てなかっただろう。一歩も歩けなかったかもしれない。
俺は、あいつが死んだなんて考えたくなかったのだ。
幾つものの鳶色の光が多くの木々の中を照らしている。
この森の中だけが日の光に包まれているかのような明るさだ。
――。と聞き覚えのある声が俺の名前を呼んだのが聞こえた。
「――親父」
聞こえた方向へ視線を移すと案の定、そこにいたのは親父だ。
いつもと違うのは、いつも以上に眉間に深く刻まれた皺と、服にところどころ散っている黒い染みだった。
「こんなところで何をしている」
「騎士が数人死んだって聞いた。俺も手伝わせてくれ」
必死の思いだった。縋り付く勢いだったかもしれない。
「人手は足りている。帰れ。……と言っても、ついて来る気だろう? 来い。幸い、彼女の遺体はまだ見つかっていない」
そう言って、親父は俺に背を向けた。
俺はほっと息を吐いて、その大きな背中について行く。
「見つかってないってことは、まだ死んでない可能性もあるってことだよな? 親父」
不安がまだあった。
尊敬する親父にはっきりと〝ある〟と言ってもらい、僅かでもいいから不安を拭いたかったのだ。
だが。
――親父は、一言も俺が望む答えも俺が言ってほしくない答えの両方を言ってはくれなかった。
ある程度歩くと、鼻腔にむせ返るような臭いが押し寄せてきた。
錆の強い臭いが、ここだここだと自己主張するように辺りに漂っている。
胸騒ぎが一層激しくなり、自然と歩く速度を速めた。
――ふと、赤い塊が目に留まる。
赤黒いそれはルビーとは似ても似つかず、なぜか目から離せない印象を持った。
それは、まるでついさっき捌かれた肉のように瑞々しくて――。
それがなんであるかを理解した途端、俺は口を押さえて地面に両膝をつき、地面に倒れこまぬよう咄嗟に片手で上半身を支えた。
胃のものは俺の意思に反して、喉元を駆け上り口から漏れ出していく。
錆び付いた臭いの中、吐瀉物特有の刺すような味が口の中に広がった。
「――っ、ぅっ……!」
赤い塊の近くには多くの騎士たちの死体があった。
首がない者。腹から腸がこぼれている者。胸を一突きされている者。頭が割れている者。
騎士たちの死にようは様々だ。
到底人のものとは思えない惨状は、俺の胃袋を刺激するのに十分だった。
先ほどの塊が、脳裏から離れない。
まさかとは思う。
頭の中に浮かんだ考えをかき消すようにがぶり振った。
一瞬、錯覚が見えたのだ。
この中にあの幼馴染がいた。そんな錯覚が。
「――っは…」
思わず笑みが漏れた。
ああ、怖い。俺は、お前を失うのが恐ろしくてたまらないんだ。
「立てるか?」
親父の声に心配するような気配はない。ただ、この程度で無理そうなら帰らせるという意思だけは窺えた。
「……平気」
思ったよりも暗い声が出た。口元を拭って、立ち上がる。
「――」
どうすればいいかなんてわからなかった。
これほど彼女の死を恐れている自分に何ができるというのだろう。
ただ、呆然と立ち尽くすことしかできないじゃないか――。
「おやっさん! あっちの方で死体がたくさん――!」
「わかった。すぐに――おい! 戻れッ!」
――お前が行ってもどうにもならないことぐらいわかってるだろうッ!
親父の怒鳴り声が耳にこびりついて離れない。
だが、それでも俺は足を止めなかった。いや、止めてはならなかった。
俺にだって譲れない物の一つや二つはある。
「――ああ、」
自分の身勝手さも、物分りの悪さも、臆病者な人間だってことも。
「――わかってるよ。そんなことぐらい!」
それでも、俺は考えるよりも動かなきゃやってられねえんだよ!
先ほどよりも濃い血の臭いに、駆け足を歩みに変える。
喉元まで押し寄せてくる錆の臭いに酔ってしまいそうで、右手で口を覆った。
――すぐ近くにある。それも、さっきよりも多い。
どうかその数多くの死体の中に彼女はいないことを祈りながら、血の臭いがする方へ向かった。
女のすすり泣き、叫び、絶望する声が奥から響く。
自然と前へと進む速度は速くなった。
疲れているのか、周りの音が小さくなり、自分の心臓の激しい鼓動ばかりが耳に入る。
胸が締め付けられている気分だった。
「――大丈夫……大丈夫――」
彼女の魔法の言葉を呟く。その言葉を頼りに前へ進む勇気を得る。
暗い夜道をずっと歩いてばかりだったせいか、突然視界に明かりが入ったときには目が痛み、目の前が真っ白になった。
――事実、頭の中も真っ白になった。
吐く息は震えていた。寒いわけでもないのに体は硬直していて、ただ無感動に目の前の自体を受け止めている。
息をするのがこんなにも難しいとは思わなかった。
辺りで女たちの慟哭が響いている。その叫びは、声が出ない俺の代わりに嘆いてくれているようにも思えた。
一点だけ、赤毛の女が騎士たちの中に混じって倒れているのが印象的だった。燃えるように赤い髪には赤黒く乾いた血がこびりついている。それは、彼女の誇りを汚しているようで、今すぐにでも拭い取ってやりたかった。
傷一つない体は、生きているのではないかという希望を抱かせる。
――もっとも、それは割れてしまった頭を見るまでの一時のことだったが。
「――――ぁ――――」
声は虚しく、森に木霊した。
本当のことを言うと、この時のことを俺はあまり覚えていない。
親父が言うにはまるで生きた骸のようで、涙ひとつ流さなかったらしい。
気が狂ったと判断した親父は、反応のない俺を何度も殴ったのだとか。どうも頬が痛いと思ってたらそれが原因か。
そのことを話題に出すと、知らんぷりな親父に一発ぶちかましたくなった。
それだけ元気だったらもう大丈夫だろう、と頭をぐしゃぐしゃにして立ち去った親父を見ると、気を遣ってくれたのかと少しだけ照れくさくなった。
俺は、今でも昨日あいつが死んだのだという現実を直視できずにいる。多分、それもあって俺は笑っていられるのだろう。まるで、他人事のようだ。
「おいっ! 起きてるか! てか元気か?!」
「起きてるし疲れてるわ。お前のその活力は一体どこから湧いてきてるんだか不思議でならん」
朝っぱらからまた煩いやつがやってきた。
やつが開けているドアがミシミシと鳴っている気がするが、もう壊れる前兆であることは確信している。大体、ドアを壊れるのはいつもこいつが原因だ。その数は十はとうの昔に超えている。
「小母さん……叫んでるけど平気か?」
「あー、無理無理。人の話聞く余裕なんざこれっぽっちもねえって、あれ」
友人はもう駄目だと顔の前で手を振った。
小母さんというのは、俺の幼馴染である赤毛の騎士の母だ。娘と違って、優しげで保護欲を搔きたてられるような雰囲気と胸囲を持っている美人だったりする。
「現実直視できないのはわかるけど、生きてるあいつを見たって言ってるんだぜ? もうだめだわな」
「……本当にそう言ったのか?」
「ああ。でもよ、小母さん今狂人みたいになってるし、ただの幻覚だってっ。あんま気にすんな」
昨日の俺の奇行を見たせいか、焦った様な仕草をする友人を見て笑みが零れた。
思えば、こいつにも心配をかけたな。
「気にしてねえよ。って言ったら嘘になるけど、昨日みたいにいきなり走り出したりすることはない。……昨日は心配かけたな。すまん」
昨日言えなかった謝罪の言葉をようやく口にする。
「本当だぜ。迷惑にもほどがある」
うわ、正直なやつ。まぁ、そこがいいとこでもあるんだが。
まだ寝たりないのか、俺は大口を開けて欠伸をした。目元の涙を拭って、元気な友人に寝るとだけ宣言して布団を頭から被る。
――と、同時に布団を剥ぎ取られた。
「……おいコラ」
「なんだよー、寝んなよー。俺が暇じゃんかよー」
お前は駄々っ子か。そういや駄々っ子だった。
「お前は気絶してたからぐっすり寝れたんだろうけど、俺はまったく寝てねえの」
精神的にも肉体的にも疲労しているし、今まさに眠って癒されようとしていたところを邪魔され、流石の俺も非難の声を挙げる。
てか布団返せ。
「お前も気絶したじゃん」
「放心してたのと気絶は大いに違う」
「……しゃーねえなー。ほんじゃ今日は帰ってやるぜ! 明日また来てやるからなっ!」
寂しかったら呼んでもいいぞ! という台詞を帰り際に残し、外へと駆けていった。嵐のようにやってきて、嵐のように去っていったなあいつ。
あと、帰るのはいいがドアを閉めろドアを。
古くもないのに不吉な音を立てて閉まるドアの未来に不安を抱えながら、俺は取り戻した布団を被りなおした。
今、俺は一人だ。
孤独であると、考えたくもないことにも没頭してしまう。
もしかしたら、友人は俺がそんな馬鹿な考えに思いつめることを避けていたのかもしれない。
いつの間にか村の騒ぎも止んでいて、部屋には秒針が時を刻む音だけが支配していた。
カチカチ、カチカチと。
病的に静かなこの空間にカチッ、と分針の音が大きく響いた。いつもだったら特に気にしないほどの小さな音であるはずなのに、今に限って不安を煽ってくる。
投げやり気味に、硬く瞼を閉じた。もういい、寝よう。このまま起きていても疲れるだけだ。
そうは思っていても視界が真っ暗になったせいか、秒針の音が俺の耳元で響いているような錯覚を抱いた。
子どもの頃も、なぜかこんな風に恐かったときがあったものだ。少し可笑しく思い、緊張が緩む。
やはり疲労が溜まっていたのか、緊張が解けるとともに睡魔がどっと襲ってきた。
ようやく訪れたまどろみに身を任せる。
――深い眠りに落ちる寸前、確かにカタリ……と、何かが動く音が聞こえた。