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真珠の実  作者: 秋花
騎士の栄光
2/14

裏切り者

 少年には道がなかった。

 辺りには己の道をこつこつと作っている者もいるし、元からある道を辿っている者もいる。

 だが、少年の手には道具一つなく、道を作るための土台すらなかった。

 闇だ。闇しかない。一歩踏み出せば、底のない奈落に落ちてしまいそうなほどに、真っ暗な。

 どうすればいいのかなんてわからなかった。

 周りにいた人々は、もうずっと先に行ってしまっている。

 少年だけは零から動けないままだ。どうしようと焦る心すら少年にはなかった。

 何もない少年の近くで、せっせとまた己の道を作っている者を見かける。

 そうだ、少年は一ついいことを思いついた。


 ――無ければ奪えばいい。


 ふと思いついたそれは、とても素晴らしいもののように思えたのだ。













「任務ご苦労。お前の活躍により、この国はより長い安寧を得ることだろう」

 五年ほど共にした仲間を殺した果てに得たものは、国王の無駄に長い話と国王になる権利だけだった。


 カツカツカツ。磨きぬかれた廊下を歩く。


〝わたくし、以前から貴方様をお慕いしておりましたの。きっと、これは運命ですわ〟

 頬を桃色に染めたお姫様は、初めて会ったのにそんなことを言った。

 無心に無心に、青年は姫の惚けたような瞳に対して微笑をかける。

 たったそれだけの動作で、姫は頬を真っ赤にして恋人に接するかのようにその身をすり寄せた。

 それこそ魔法のように。


 カツカツカツ。

 意味もなく、硬質な靴が強く床を叩く。

 単純に人気が少ないせいなのかもしれないが、その音は青年の孤独を刻んでいるようにも思えた。

 どこを見つめているのか分からない人形のような瞳は、ずっと空中を彷徨っている。

 すると、少年の左腕が失った右腕を探すようにして動いた。

 中身のない袖口から上へ、肉のある部分を鷲づかみする。

「あ、痛い……」

 手を開くと、そこには鮮やかな血が花開くように一面に赤が散っていた。

 傷が開いてしまったのだろう、青年は己の体液が少しずつ外へと漏れ出るのを感じていたが、数秒経つとその傷はすぐさま塞がっていく。残ったのは白い服に染み付いた赤い血だけだ。じきに黒くなるだろう。

 昨日まではあったはずの右腕。それは、自身の部下に切られたものだった。

 確かに強いとは思っていたが、両腕を失ってなお動けるほどの男だっただろうか。いや、自分が知らなかっただけなのだろう。彼は、とても慕われていたように見えていたし。

 ――しかし。

 しかし、それでもだ。自分の腕が、誰かに奪われたという事実を青年は飲み込めずにいた。

「――おいっ! そこの隻腕の色男!」

 野蛮な声と共に、強い衝撃が青年の背中を襲った。

 どうやら走ってきた勢いで叩かれたらしい。少し驚いた。

 うわ、微動だしねえでやんのと、その憲兵は残念そうに舌打ちをする。少し失礼だと思う。

「……リーダー、何か用?」

「用ってほどでもねえけど。おいおい、お前どうしたよ。ご自慢の爽やかスマイルがからっきしだぜ?」

 ああ、いけない。表情を変えておくのを忘れていた。

 すぐさま口角を上げ、目尻を和らげる。

 これで誰もが見惚れる顔の完成だ。これならみんなに()に思われずに溶け込める。

「なんのこと? 俺はいつもどおりだよ、リーダー」

「あ? いやだってお前、――ああっと、やっぱ俺の見当違いだったわ。なんでもねえ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、憲兵は頭を掻いている。

 青年はその様子を微笑みながら見つめていた。

 先ほどの会話がまるでなかったかのように、青年は口を開く。

「みんな元気にしてる?」

「元気も元気。毎晩女の相手できるくれえには元気よ。そうそう、女と言やあ、お前結構女侍らしてただろ? あいつらまだ待ってんぞ」

「そうなの? 頑張ってるんだ」

 少し驚いたように青年は形の良い眉を上げた。

 しかし、反応と言える反応はそれだけで、一度は共に一晩を過ごした仲であろうに、青年は素知らぬ顔で歩む。

「うげ、お前まったく変わってねえのな……」

「リーダーこそ変なこと言うんだね。俺は俺だよ。何も変わらない」

「それにしちゃあ、最強と名高い隊長さんの腕はどこへいったんだよ? お前が誰かに負けるなんて想像できねえんだけど」

「んー、なんでだろうねえ」

 改めて、負けた理由なんてわからない。

 あの反撃は予想できなかったと言うべきなのか、俺が弱くなったと嘆くべきなのか。

 きっと、その両方なのだろう。もしかしたら、俺は変わったのかもしれない。どのように変わったのかはわからないが、その証拠に腕がないのだ。これが負けたというのなら、確かに俺は変わったのだろう。

「なんでって……お前なぁ」

 憲兵の呆れた表情が視界に入る。

 ――やっぱり何か違和感がある。何かが足りない。なんだったろうか。

 青年はその失った何かがよくわからず、首を捻った。

 または、元々なかったことに今気づいたというのだろうか。


「――っと、宰相じゃん。何そんなとこで突っ立ってんの?」

 顔を上げると、そこには柱に背を預けた宰相がいた。

 随分と不機嫌そうだけど、あんまり怒ってると皺が残ると言っておいた方がいいのだろうか。

「貴様こそ、近々起こす戦の身支度を整えろ。私はそこの馬鹿男に用がある」

「へーい」

 憲兵はやる気のない返事をした後、応援をするかのように青年の肩を叩いて立ち去った。

 その行動に青年は若気の疑問が浮かんだが、まあいいかと過去のことを忘れて宰相と向き合う。

 強い瞳だ。相手が萎縮してしまうような猛獣のような眼光。

 ――やはり、違う。何が? いや、わからない。わからないが、違う。

「隊長――いや、次期国王とでも呼んだほうがいいか?」

「いいよ。別にどっちでも。呼びやすいほうでいい」

「そうか」

 こういう細かいところを気にするのが宰相の悪いところだ。

 顔はいいし、仕事もできる。皆に敬遠されているのはこの無愛想さが原因だろう。

 もっと気楽に生きれば全てが簡単に済むのにな。

「私は言ったはずだぞ。残ってもいいと」

 なんのことだったろうかと、過去を遡る。

「えっと――ああ、あれね。それがどうしたの?」

 以前、宰相はあの国にいた青年に対して国への反乱としか言えない言葉を残したのだ。

 そのまま残ってもいいんだぞ、と。

「なぜ、残らなかった」

「なぜ――って」

 その問いにこそ青年は驚いた。

 それではまるで残っていたことが当然のようではないか。

「なんで残らなきゃいけないの?」

「は? まさかとは思うが、それは本気で言っているのか?」

 当たり前だと青年は頷いた。

 その様子に宰相は顔を引きつらせる。

「馬鹿だ大馬鹿だと思っていたがまさかここまでとは――」

「時々宰相ってズバズバ言うよね」

 そこまで言われるようなこと言ったかな、と青年は苦笑した。

「あそこは、お前の居場所ではなかったのか?」

「居場所? 俺はどこでも生きていけるし、そんなのいらないけどなぁ」

 今までだってそうだし、これからだってそうだ。

 今回は珍しく自分で壊したってだけなんだから。

「私が言っているのはそういうものではない。……ここで生きていたお前と、あちらで生きていたお前とでは決定的に違うものがある」

「違い?」

「そうだ。あそこにいたお前は、なんというか、人間らしかった」

 言いずらそうに宰相は青年から目を逸らす。

 人間らしい――。その言葉に青年はカラカラと笑った。

「ひっどいなー、それじゃ俺が化け物みたいだよ。みんなと一緒なのにさ」

 周りと同じように笑い。周りと同じように話す。

 ほら、ちゃんと人間だ。みんなと同じじゃないか。一体何を根拠に、彼は俺を人間ではないと言うのだろう。

 しかし、宰相が青年を見る目はどことなく同情が含まれているように感じた。

 なぜ。なぜ彼はそのような目で青年を見るのか。

 青年がなくした赤毛の女騎士と同じような、その瞳。

 一体、彼らは青年の何を見ているのだろう。

「そういえば、今まで訊いた事がなかったが、お前はなぜ騎士になったんだ?」

 突然降って湧いた問いに、青年はきょとんとした反応しかできなかった。

 なぜ、騎士に。

 その問いは、以前自分が仲間である赤毛の騎士にした問いと同じものだった。

 彼女は憧れた英雄と同じになりたかったからだと言っていたが、では自分は何を思って騎士になったのだろう。

 そんなこと、考えたこともなかった。

「……成り行き、かな」

 周りの流れに身を任せていたら、この地位に立っていた。

 理由はなんだと問われれば、これしかないだろう。

「自分の意思はないのか?」

「さあ? あったんだろうけど、今の俺は知らないよ」

 残念だけれどこれが事実だ。

 別に興味はないが、例え知りたくともこの青年には過去の青年がどんなことを思い、願っていたのかなどわかるはずもない。

 過去(他人)過去(他人)であり、決して(青年)ではないのだ。

「それじゃ、宰相。俺ちょっと用事があるんだ。またあとでね」




 幸い、いつも通り笑みを浮かべて立ち去った青年を宰相は追いかけることはなかった。

 彼が何を思って青年の背を見つめていたのかを知る者はいない。それこそ友情なのか、同情なのか。ただ、宰相の地位にいる男の願望は、誰もが知らないのと同じように。男は青年に侮蔑の視線を最後に向けてその場を立ち去った。

 青年は久方ぶりに見る自分の国の朝日を、眩しそうに目を細める。誰もが美しいと賞賛する光景に、青年はがらんどうの瞳を向けた。

 過去の青年であったのであれば、なんの感想も浮かべずに階段を下っただろう。しかし、この場に立っている青年は、明らかに不満顔で呟いた。

「……あっちのほうがいいなぁ……」

 もっと綺麗で、温かだったあの国のほうが、ずっといい。

 以前、この光景を見た憲兵はこれが自分たちの守った景色なのだと誇っていたが、青年からすれば疑念の沸く言葉でしかなかった。

 景色はずっとそこにあるものだ。なくなることなんてない。だというのに、この男は何を守ったと言っているのだろう。なぜ嬉しそうに笑っているのだろう。疑問は渦巻くばかりだ。

 でも口には出さない。言葉にしてしまったら異物として見られる。この皮が剥がれてしまったら、青年は青年として生きていけなくなる。

 そういえば、と。青年は自分の変化に気がついた。

「……〝あれ〟と〝これ〟の違いなんて考えたことなかった」

 何が良くて何が悪いなんて、違いがあるなんて思っても見なかった。

 キリキリと被っている皮が悲鳴をあげる。ようやく意思を持った怪物が、内側から青年を食い破ろうと暴れだした。

 怪物を抑えるように、青年は一つだけの手で両目を隠す。視界は暗く、闇の中で怪物が蠢いているのが察せられた。

「――だめだよ」

 青年の否定の言葉に、怪物はうなり声を響かせながらゆったりと身を引いた。

 これ以上は考えてはならない。

 これ以外の生き方を知らないんだから、これを捨てたら生きていられない。

 先ほど気づいた事実を頭の片隅に置いて、青年はそれを打ち消すように頭を振った。

 手を顔から離し、一段一段と下っていく。

 目的地すら見出せずに、青年は歩みを止めることはない。

 実際、宰相に言った用事というのは、咄嗟に口から出たでまかせだった。自分でもなぜそれを口にしたのかはわからないが、言ってしまった後の祭りである。

 ――でも、この際本当にどこかへ行ってしまおうか。

 行きたい場所と考えて、脳裏に浮かんだのはあの国の丘だった。

 あの仲間であった騎士たちと、またここで会おうと約束した場所。唯一誰もこない、青年だけの安らぎの世界。

 今ようやく自覚したことだが、どうやら自分は思っている以上にあの国に未練があるようだ。

 ―― なぜ残らなかった。

 青年を嫌悪しているだろう男が、自分から話しかけるほどに問いたかったその答え。

「本当にね。なんの理由もなかったんだ」

 ただ、やらなきゃ、だめだった。これをやらないというのなら、この皮を破らなくてはならなくなる。

 そんなの――。

「やっちゃいけないんだ」

 その規律だけが、青年という人間を作り上げているのだから。

 岩のように頑丈に作られた規律。青年を作り上げた願い。

 願いが有ったからこそ規律は生まれた。しかし、その願いの持ち主が誰かを思い出せずに、青年はこの規律を守り続けている。

 きっと、この皮が破れるときに思い出せるのだろうと、青年は何となく感じとっていた。

 ついに段を下りきると、青年は暗みを残した薄い青空を見上げた。

 遠く、遠く、果てのないどこまでも。人にならばそう思わせるほどに広大な空を、青年はなんの感情も持てずに見つめる。

 だが、きっとあの丘でなら()()だと思えるのだろう。

 青年は、今度こそ確たる目的を持って歩き出した。






 隣国と言っても、同じ国と言っても()(つか)えないほどに密接しているからか、その丘にたどり着くまでに一日とかからなかった。

 あの青く瑞々しかった空は、もう赤く熟している。腐り落ちるのも時間の問題だろう。

 視界いっぱいに広がっていた青い草原は、今では赤と黒のコントラストで彩られていた。

 鳶色の光の眩しさに、青年は目を細める。

「――やっぱりいいなぁ。こっちのほうが」

 意識してもいないのに頬が緩んだ。初めてのことに少し動揺する。

 やはり、今日の自分はどこかおかしい。こんなこと、今までなかった。

 青年は脱力するように背後に仰向けで倒れた。赤い草原が、青年が倒れた範囲で波打つように揺れる。

 痛いはずなのに、青年の顔からは苦痛の色は見えない。

「ここが、汚れるのは嫌だな……」

 この美しい丘が、血に汚れるのは見たくない。

 青年にとってここまで執着するものがあるというのは奇跡に近かった。どれに対してもなんの感情も抱かなかったし、どうでもいいという投げやりの思いもなく、ただ人に従って生きてきた。

 騎士たちを殺したのだって、この青年という皮がそういう行動をするだろうと思ってのことだ。決して自分の意思ではない。そんなものを持ったことなどない。

 しかし、今、初めて青年から〝自分〟という人間はなんなのかという疑問が湧いたのだ。


 ――残念ながら、その思考も乱入者によって妨げられることになってしまうのだが。


 青年が勢いよく左側へ大きく転がることで、青年の下敷きとなっていった草たちが潰れていった。

 間一髪、青年が先ほどまで寝転がっていた場所に殺気が突き刺さる。

 その衝撃で切れていった葉が宙へと飛んでいった。

 少し悲しい。これから自分の手でこの美しい丘を汚してしまうことが。

「……人の寝込みを襲うのは、よくないことじゃないかな」

 服についた土と草を払いながら、青年は立ち上がった。その瞳はいつになく鋭い。

 もしかしたらそこに自分の死体が転がっていたのかもしれないというのに、この状況でその余裕のある言葉が出てくるのは彼だからこそだろう。

 一寸前まで青年が寝ていた場所には、見覚えのある剣がめり込んでいた。剣の持ち主は、暑い日の犬のように激しく呼吸を繰り返している。見覚えのある剣に制服、確かあれはこの国の騎士に配られたものではなかったか。

「――っは、あんたにだけはそれを言われたくねえよ隊長」

 予想もしなかった軽い口調が、その少年の口から発せられた。

 少年は草むらの中から造作もなく剣を抜き取ると、青年を睨みつけ、愉快な感情を隠しきれないのか口を歪ませて嗤った。

「まあいいや、あんたここで死ぬんだからいいか。恨み言は俺の分もあの世であいつらから聞けよ」

 どうやら少年の中で、自分はここで死ぬ予定であるようだ。苛立ちも何もないが、勝手に話を進められると少し反応に困る。

 まあいい、殺してしまえば全て同じだ。

 青年は考えるが早いか、元から抜き身の剣を左手で構えて少年に近づく。

「――は? 馬鹿にしてんの隊長様。今の俺はあんたなんかよりつよ――」

 それは瞬きも許されなかった。

 気だるそうに青年の腕が傾いた途端、剣と共に左腕は消えたのだ。

 嘲笑の笑みもすぐに消し飛ぶ。人を止めたからこそわかる、化け物になったはずの自分が見えない速度をこの男が作り出しているのが。そんなこと、ありえるはずがなかった。この男は人間であるはずなのだ。人間が、化け物を越えられるはずがない。

 気づいたら少年の視界は空だけを映していた。赤く、暗闇へと沈もうとしている空を、死という闇が覆いつくす。

「――ぃ……」

 消え入るような声を宙へと飛ばして、少年の意識は何処へと消えた。

 草の音を鳴らして、首と体が草むらに落ちていく。

「んー、やっぱりやりづらいな。ちょっとバランス崩しちゃった」

 無くなってしまった右手を惜しみながら、青年は剣を素早く振って剣についた血を飛ばした――はずなのだが、血が飛んだ気配はない。首を傾げて刀身を見るも、使う前と変わらず血痕一つない。

 どういうことなのか。不思議に思ったものの、まあいいかと剣から目を放し、襲撃者であった肉片のもとへと向かう。

 改めて少年の死に顔をじっくりと見た。

 先ほど、この少年はまるで青年のことを知っているかのような口ぶりであったからだ。しかも、自分が騎士たちの寝込みを襲っていたのを知っていた。あの出来事を知っているのは、死人か、一般の目撃者ぐらいだろう。まあ、目撃者がいたというのなら自分が気づかないはずがないので、死人のみだが。

 どことなく見たことのある顔だ。確か今年入った新入りだったか、十六だったはずだ。

「……あー、えっと……」

 名前が思い出せない。第一、青年にとってもう終わったことであるというのに顔を覚えていることが奇跡である。

 だがしかし――不思議とこの男が死ぬ前に何をしたのかを、青年は覚えていた。


〝あー、隊長、危ねえっすよ。後ろはしっかりと見ないと。にしても、隊長も隅に置けねえっすね! そいつが裏切りモンだったんなら言ってくれればいいのに! 城からの依頼だったんっすよね? あーあー、しかも右腕切られてんじゃないっすか。早く治療しねえと……うわっ、え、なんで血止まって……〟

 少年が勘違いをしていることなどどうでもよかった。裏切り者はそこで倒れている男ではなく、自分であることであったり、少年の心配そうな表情が恐怖に転瞬した事実など、どうだってよかった。

 問題は、咄嗟にと思ってぶつけたのであろう少年の剣が収まっている鞘が鮮やかな赤で濡れていることで、なぐられただろう赤い髪をした女がぴくりとも動かないことだった。


 そう、そうだ。

 女騎士を殺したのはこの少年だった。そしてこの少年を殺したのもまた青年だったはずだ。

 この手で殺したはずだ。確かに呆然としてばかりいて、殺したことは記憶に残っていないが、死体はこの目で見たのだ。

「なんで生きて――」

 その言葉の続きを口にする前に、視界が反転した。

 叩きつけられるような振動。同時に左腕を切り裂かれる感覚。

 動揺ゆえに他の人間がいたことに気がつかなかったというものもあるが、今青年の首に剣先を突きつけている者の強さもあるのだろう。普通の人間であれば、気づいたとしても避けられない速さだったに違いない。

 自分が最初に殺した人間の顔を見て、青年は嬉しそうに笑った。本人は自分が笑ったことにすら気づいていないようだ。

「そっか、君が俺を殺すんだ。なら仕方ないね」

 なぜ生き返っているのかは知らないが、この男は青年に殺されたのだ、復讐されるのも仕方ない。

 それに、少し胸が濁る思いがあるけれど、彼女が尊敬していた男だ。殺されるのもやぶさかでない。

「死は、恐ろしくはないのか」

 俺は恐ろしかったと男は言った。

「さぁ、恐ろしいと思ったことがないから」

 淡々と、微笑を浮かべて青年は事実のみを口にする。

 決して意地で言ってるのではない。そのことは青年がよく知っている。

「……生憎と、俺は彼女と違ってあなたを理解できない。だからそれが事実なのかもわからない」

「変なこと言うね。彼女も俺を理解できないって言ってたよ」

 どちらかと言えば、理解したくない、だったろうか。

「いいや、俺よりはよっぽど理解できていた。最後まで夢を見て、そしてあなたを見捨てなかったのもその証拠だ」

「――そう」

 なんでだろうか、今にも殺されるというのに気分がいい。

 もういっそ、この高揚した気分のまま殺してはくれないだろうか。

 すると、男は少し驚くように眉を上げた。

「……そんな顔もできたんだな」

「ああ、俺も驚いた。初めてだよ、こんな気分は」

 きっと、過去にもこんな感情を抱いたことはなかっただろう。ぼんやりとした世界が、今までにないほどよく見える。

「……やりづらいな。しかし、俺はあなたに聞きたいことがある。なぜ、我々を裏切った」

 やはり、自分などより部下に慕われているだけある。仲間思いで芯の強い男だ。このような男だったからこそ、彼女も憧れ続けたのだろう。少しだけ、胸が熱くなる。

 だけど、この晴れやかな気持ちでならなんでも許せる気がした。

「隣国の人間だから、と言えば後は察してくれるかな」

「元から、裏切るつもりだったということか。あなたのような目立つ存在を送り込むなんて、あの国は余程有望と見える」

「でも気づかなかったでしょ?」

「……ああ、気づけなかった。しかし、それで合点がいった。王をたらしこんだのはそのためか」

「うん、反乱の兆しがあるってそそのかしたのも俺」

 王といえども、女を捨てきれなかったということだろう。若さは確かに美徳だが、時に足枷にもなる。

 幸い、この国の王には右腕となる人間がいなかった。若いからこそ、弱音を吐いてはならないと己を律していたのだ。

 しかし、それこそ王の懐に入るには絶好のチャンスだった。青年ほどの美麗な者に己の望む言葉をかけてもらい続ければ、一度は捨てたと思っていた女の情を呼び覚ますのは困難ではない。呆気ないと感じるほどに、信用に足る人間(恋人)の席に座るのは容易かった。

 ――結果、女は青年の言葉に踊らされ、疑心暗鬼に(さいな)まれる日々が続くようになる。

「それで、最も邪魔な騎士団を壊したのか」

 男の言葉は合っているようで違う。

 隣国が青年に命じたのは、王を堕王に変えろと、それだけだ。決してその国の守護をなくせとは命じなかった。

 そう、全ては青年が起こしたことだ。

「――壊さなきゃいけなかったから、壊した」

 誰の意思でもない。青年が青年であるために壊した。

 ここにいる時間が長くなれば長くなるほど、青年ですら知らない自分が形作られていくのが、ぼんやりと感じ取ったからだ。

 このままでは飲まれてしまう。これまでの青年ではない、本当の彼がようやく生まれ出でる。


 ―― これなら、ボウズ、てめえも生きられんだろ ――


 ずっと昔のことだ。誰かが青年ではない、()()のときにこの生き方を教えてくれた。

「あなたは馬鹿だ。泣くほどのことなら、壊さなきゃよかったんだ」

「そうだね、確かに泣いてる。それにとても痛い、苦しいんだ」

 自分の意思ではないのに、涙は溢れだしてとまらない。

 でも不思議だ。涙で何も見えないはずなのに、全てが目新しく感じる。痛いはずなのに、苦しいはずなのに、なぜ自分は笑っているのだろう。

 この感情をなんと呼ぶかを青年は知らない。

 だが初めて感じたそれは、悪いものとは思えなかった。

「止めた」

 一言宣言すると、男は青年の首から刃を離した。

「――な、なんで」

 当然、青年は動揺せさるおえない。

 彼ほど青年を尊敬していた者はいなかったし、彼ほど青年に失望した者もいなかったろうから。

 しかしそれよりも、青年は初めて動揺する自分に戸惑いを感じていた。

「もとから復讐とかは性に合わないんだよ。だから、殺されたいんだったら俺以外の誰かに殺されてくれ」

 あれとかな、と男は顎でもう死んでいるそれを指した。

「それと、俺は少しあなたを勘違いしていた」

「勘違い……」

「ああ、俺は確かにあなたを憧れていたが、あなたになりたいとはどうしても思えなかった。彫刻のように整った顔、圧倒的な強さ、そして、誰にも平等な優しさ。まるで物語の英雄のようだった」

 また、赤い女騎士もその英雄に憧れる一人であったと、その騎士に憧れられている男は言った。

 ――ああ、でも、俺は彼女の望む英雄ではなかったのだ。

 いつのときかの彼女の怯えたような瞳を、憎悪に歪んだ表情を、太陽のような笑顔を思い出す。

 あの時、青年が右腕を犠牲にこの男を惨殺し終えて振り向くと、涙ながらに剣を振りかぶる彼女の姿がそこにあった。

 不思議なことだ。その時青年は、それを避けようとは思わなかった。それどころか、このまま殺されてもいいのではないかという思考が頭を巡った。――それも、彼女の背後にいた少年の手によって壊されることになるのだが。

「だが、あなたは英雄などではなかった。それどころか化け物だった」

 青年はその言葉に小さく笑みをもらした。もう涙も止まっている。

「彼女の受け売り?」

 後にも先にも、青年をあそこまで怯えた者はいなかった。

 だからこそ、彼女が最も化け物(青年)を理解できたのかもしれない。

「そうだな、あの子が教えてくれた。あなたが恐ろしい。あれは、人ではないと」

「ふっ、はははっ。あれ扱いかぁ……本当に、人として見てくれなかったんだ……」

 胸の痛みが増した。しかし、それよりも喜びが痛みを上回る。

 やはり、彼女が最も自分を理解してくれたのだと。

「――だけど、それは間違いだった。()()()は、まだ人間だったよ」

 男は最後にそれだけを言い放つと、呆然とする青年に背を向けてその場から立ち去った。


 ―― 安心しろ。俺がお前を、人間にしてやる ――


「――っは」

 乾いた笑いが、青年の口からこぼれた。

 ようやく人間と認めてもらえた。今まで周りの人間に異質に見られないことを目指していた自分にとって、きっとそれはとても喜ばしいものなのだろう。

 だから泣くことはない。ここは笑うべきところなのだ。

 だというのに、今青年は泣いていた。泣きながら笑っていた。

 ――あなたは、まるで怪物のようだと、青年と親しくなったものは必ず言う。

 何度も何度も言われた。その度に自分は異質に見られている、普通に見られるようにしなくてはと努力した。

 しかし、努力するたびに痛感する。自分は普通にはなれない。

 だから、せめて普通でないように生きたのだ。

 誰よりも強く、誰よりも優しく平等に。それこそ、女騎士が満面の笑みで語る英雄のように。

 結果として、青年は己の規律を破ってしまった。

 ――をしなくてはと、青年は己自身に怯え続ける。

 青年が少ない選択の中で選んだのは、規律を守る自分を壊そうとする仲間たちを消すことだった。

 青年は、赤い騎士とした青年を壊す一因の会話を思い出していた。


 ―― 隊長、みんなが好きって。それ変だよ ――

 その日は、嫌いな人間はいるかという会話をしていたのだ。

 話が進むにつれ、彼女は暗い表情に満たされていった。

 ―― どうして? 人を悪く思わないことはいいことでしょ? ――

 その考えは違うのだと、赤い髪を揺らして彼女は言う。

 ―― 人ってさ、好き嫌いとか必ずあるもんなんだと思う。わたしだって、隊長嫌いだし、とっても汚いもんだよ。でもさ、そんな醜さと綺麗なのがあってようやく、人って言えるんじゃないかなぁ ――

 騎士は青年の瞳を見なかった。ただ遠くを見つめるばかりで、決して青年を見ることはなかった。

 目を伏せると、彼女は自嘲するように小さく笑う。

 ―― まあ、中には綺麗なだけのほうがいいって思ってるのもいるみたいだけどね ――

 いつもなら明るく眩しいはずのその笑みは、どこか痛々しく見えた。


 ならば、と。青年は思いをめぐらす。

 先ほど人間だと言われたが、自分は何を持って人間だと認められたのだろう。

 悲しみ? 喜び?

 その二つを含んだ感情もあったからこそだろう。

 一つ、青年はぷかりと頭に浮かんだことを反芻した。

「ああ――なんだ。簡単なことだった」

 変化。そう、この青年という皮を破ったからこそ、彼はようやく人間と認められたのだ。

 守る必要などなかった。壊す必要なんてなかったんだ。

 何もせずとも、時が解決してくれたのだから。

 彼は、急ぎ過ぎた。


「――っはは……! なぁんだ……そっか、そうだったんだ……。あはははは――!」

 随分と気づくのが遅かった。

 壊してからではもう遅い。だが、後悔はなかった。

 そこにあったのは、人となれた喜びのみだ。

「意味なんて、なかった……」

 異質を治す意味などなかった。

 いつもならもう塞がっているだろう傷口から血がどんどん抜けていく。

 痛みはない。しかし、呼吸は荒い。出血も酷い。急いで処置をしなければ、このまま死ぬのは確実だろう。

 しかし、青年は動かなかった。

 体から血がほとんど抜けきっていてだるかったというのも本音だろう。

 ――今ある感情を堪能したい。自分が、人間になったのだという証拠であるこの思いを。

 初めて抱いたこの望みこそが、青年にとって命に代えがたい願いだった。


 少年は、長い年月をかけてようやく青年になれる過程を見つけ出した。

 随分と遅くなってしまったけれど、もう手遅れかもしれないけれど。

 それでも、見つけたという事実が少年の心に光を導いたのだ。


 ああ、なんて綺麗な空なのだろうか。

 世界がこんなにも綺麗だなんて知らなかった。


 彼女の燃えるような髪よりも幾分明るい光が、美しい世界をより一層幻想的な様子を作り出している。

 赤い陽射しが身を隠す短い時間だったけれど、今まで二十何年と過ごしてきた曖昧な人生よりも最も素晴らしく、生きているのだと実感できた。


 だからだろう。青年は上から迫りくる死を避けることはなかった。

 ずっと、ずっとこの気持ちを忘れたくないから。

 以前の赤い騎士のときとは違う理由だが、青年にとってその二つは同じように大切なものだ。

 その二つの思いは人間だからこそ抱けるものなのだから。

 これはただのわがままだけど、それでもこうしていたいと思うのは人間だからだろう。

 ああ、なんてシアワセなんだろう。なんてタノシイんだろう。

 このまま死んだら仲間たちに会えるだろうか。きっと会えるだろう。今抱く夢を見れるだろう。

 そしたら伝えよう。気づくのが遅かったけど、それでも自分を知ってほしいから。

 言ったら許してくれるかな。許してくれないだろうなぁ。でもいいんだ。最後には笑って許してくれるだろうから。

 ぼくには好きな人がいます。嫌いな人もいるんです。


 その事実が嬉しくて、楽しくて、青年は、迫りくる死が間近にあっても笑い続けた。

 六月二日に全体的に修正しました。


 拙い文ですが、ここまで読んでくださった読者様に感謝を。

 誤字などがありましたらご報告してくださると嬉しいです。

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